小石は坂道を転がり落ちる





「お願いね」

 複数の緑の装束を纏う者達に向かい、天女と呼ばれる少女は、その呼称とは反対に娼婦のように艶やかな笑みを浮かべた。熱に浮かされたような顔で彼女の鈴を転がすような愛らしい声で紡がれた物騒なお願いに、彼らは頷く。
 容易に得られた同意に再び心底嬉しそうな笑みを浮かべた少女は足取り軽くその場を立ち去り、数人の少年達は夢見心地でその背を見送った。そして、少女の背が見えなくなったところで顔を見合わせ、各々に頷きあって散って行った。
 彼らとは目と鼻の先に潜んでいたは、去っていった気配が完全に遠退いていくのを確認すると、ふらりと、淡い月明かりの下へとしどけなく寝間着の上に小袖を羽織った姿を現した。ぼんやりと浮んだその顔には、見たものが凍りつきそうなほど冷たい侮蔑が滲んでいる。

「馬鹿が、転がす側が転がされてどうする」

 だが、これで計画は最良の条件で動き出した。
 ついと目を細め、一つ瞬くと、はその顔から完全に表情を落とし、近々可愛がっている後輩を襲うであろう愚かな同学年の動きを教える為に、自室へと足を向ける。耳の奥でまだ粘ついたように残っている、面倒な女の声をとっとと取り除いてしまいたいと思いながら。

「啼かすか」

 中途半端に放置してきた今回の作戦の重要人物を思い浮かべ、は小さく唇を歪めた。





 よく押し付けてくれたものだ。
 若干足取りが怪しい兵助をちらと見ながらも、三郎は密かに溜息を零す。けれども、それはけして悪感情からのものではなかった。むしろ、この件に関しては若干の感謝の念を抱いてすらいる。ただ、よく恋人――と言い切るにはまだあやふやな関係ではあるものの、くっつくのも時間の問題だろうと思われるからそう言っても問題は無いだろう――の身の安全を後輩とはいえ他人に預ける気になったものだという呆れのような感情は抱いていた。三郎ならば、好いた者の安全は自分の手で守らなければ到底安堵など出来ない。
 けれどもは、それが出来るのだ。どういう行動を取れば、現状において最も良い結果が出るかという事を考え、それを実行する事が出来る。とても合理的で大人のような思考回路を持っているのだ。
 それが少しばかり冷たく映るのは、自分がまだプロになりきれていない忍たまで、子供だからだろうか。

「三郎、どうかした?」
「いや、何でもないさ」

 首を傾げて覗き込んでくる雷蔵に、少しばかり斜めに飛ばしていた思考を引き戻し、にっといつもの笑みを浮かべる。雷蔵は完全に納得していないながらも、そうと一言呟いて引き下がった。三郎が言葉を濁す事などそう珍しい事でもないからだ。
 そう、いつものやりとり。だというのに、こんな他愛ないやりとりすらも酷く久しぶりに感じるのは、雷蔵の時間が空けばいつも鈴木愛梨の元へと行っていた所為だ。けれど、もうすぐ彼はこちら側に戻ってくる。雷蔵は、愛梨がと兵助の関係を嫌悪を丸出しにして嫌悪した時から、積極的に彼女に関わるのを止めていた。戸惑っているのだ。彼女のその反応に、言動に。友を否定され、汚い言葉で罵られた事に。
 だから、戻ってくる。間違う事無く、疑う事無く、真っ直ぐに。三郎は立てられた計画の成功と雷蔵達が友を想う心を微塵も疑ってなどいなかった。

「おい、久々知」

 庭の方から声をかけられ、兵助が立ち止まる。身体ごと振り向くと、緑色の装束を纏った先輩が一人。それが愛梨の取り巻きの一人だと一目でわかった兵助は一瞬ちらり物騒な光を煌かせ、勘右衛門と三郎は視線を交わす。

「なんでしょう、先輩?」
の奴が呼んでたぞ」
「……そうですか」

 しばらく思案するような仕草で黙り込み、頷く。その言葉が偽りのものであると知っていながら。作戦があったから、と言うのもあるが、は基本的に兵助を呼び寄せる時には人を使わない。手紙を式にして飛ばしてくるか、自身で探し出すのだ。時折人に伝言を頼みはしても、それをするのはがきちんと名前と顔を覚えている人間に限られる。つまりは六年では各委員会の委員長、五年では兵助の友人達だ。故に、それ以外の六年に呼び出されたのだとしても兵助は付いていかない。普段は。 
 獲物が罠に飛び込んできたことに、自然と歪みそうになった唇を引き結んで、兵助は友人達を振り返った。

「ちょっと行ってくる」
「おー」
「早く来なよ、兵助」
「ああ、わかってる」

 八左ヱ門と雷蔵の言葉に頷き、勘右衛門とは視線を交わす。三郎に視線を向けなかったのは、違和感を持たせない為だ。

「頼むな」

 ぽんと持っていた教材を勘右衛門の手の上に乗せる。その言葉に含まれた二重の意味に気付いていた勘右衛門はこくりと頷き、笑みを浮かべた。
 緑の装束の後を追っていく兵助の背を見送って歩き出した彼らの中で、一人だけ三郎はなにやら考え込んでいるように足取りが重かった。それが演技だと知っているのは勘右衛門だけで、他の二人は全く気付いていない。それほどに完璧な、演技とは思えない演技。けれども、愛梨が来るまでならば雷蔵はそれが演技である事に気付いたはずだ。
 勘右衛門は自然な様子を貼り付けた表情の奥で、早く元に戻らないかな、と思った。今の学園の雰囲気は、あまり心地よいものではない。

「三郎、どうかしたの?」

 一歩遅れてついてくる三郎に、再び雷蔵が首を傾げた。三郎の眉間には、僅かに皺がよっていた。

「いや、あの先輩なんだが……」
「兵助を呼びに来た人?」
「ああ」
「あの人がどうしたのか?」

 今度は八左ヱ門が首を傾げた。訝しそうな表情に、もう少し、とはやる心を抑えながらも、三郎は慎重に視線を泳がせ言葉を選んだ。

「私の記憶違いでなければ、あの先輩は先輩とはかなり険悪な関係にあったはずなんだが……」

 八左ヱ門と雷蔵が顔を見合わせる。勘右衛門の顔は強張っていた。

「兵助……」
「あー、大丈夫だって勘ちゃん。兵助が強い事は勘ちゃんだって知ってるだろ?」
「そうだけど……」

 一瞬、逡巡するフリをする。けれども抑えきれなくなったように、自分と兵助から預かった分の教材を八左ヱ門に押し付け、踵を返した。

「やっぱり心配だから行ってくる!」

 走っていってしまった勘右衛門を八左ヱ門はぽかんと見送り、雷蔵はついて行こうかどうしようかと迷いに迷って立ち尽くしてしまった。そんな二人の反応に、此処からが一番重要だと一瞬ぐっと掌に爪を立てる。
 棒立ちになっている二人を交互に見て、三郎は小さく息をつく。ぽんと雷蔵の肩に触れて、八左ヱ門の脇を肘でつついた。

「ほら、迷っているのなら私たちも行くぞ」
「え、あ、うん!」
「ああ」

 一番初めに飛び出したのは八左ヱ門で、その後を追って雷蔵が走り出す。その後ろで、三郎は口角を僅かに吊り上げ、彼らを追った。心の中でだーいせーいこーうと後輩のように呟きながら。

「兵助っ!」

 少し焦ったような勘右衛門の声が響く。後から追いかけてきた三人は顔を見合わせ、声が聞こえてきた方へと急いだ。近づくほどに、それほどの量ではないが、嗅ぎ慣れた鉄の臭いが強くなり、顔が強張る。
 少し開けた場所に出ると、そこには腕や足から血を流しながらも数人の上級生と対峙している兵助がいた。背中合せに勘右衛門が立っている。上級生の何人かは、少しばかり手傷を負いながらも意識を飛ばして地面に突っ伏していた。その中には、兵助を呼びに来た上級生の顔もあり、三郎、雷蔵、八左ヱ門の三人は嫌悪に歪ませた顔を見合わせて一つ頷き、再び始まった戦闘の中へと入っていった。





 五人揃えば、十人近くいた上級生もそう時間を要する事無く叩きのめす事が出来た。勘右衛門が加勢する以前に怪我を負ってしまったらしい兵助以外は無傷で、強制的に地面を寝床にさせられた上級生達もそれほど酷い怪我は負ってはいない。
 忍たまの中では最強といっても過言ではないはもとより、各委員会の委員長と比べると格段にその実力は下回るので、五年生の中でも成績優秀な五人が勝つのは当然。とはいえ、大きな傷を負う事も負わせる事も無く予定通りに事が運んで、兵助達は安堵の息をついた。

「兵助、大丈夫?」

 腕や足から血を流している兵助に、心配そうに顔を歪ませて勘右衛門が手ぬぐいを傷口に撒きつける。

「ああ。それほど深い傷じゃないからな」
「……ならいいけど。ちゃんと医務室に行ってよ」
「わかってるよ、勘ちゃん」

 足の方の止血も済ませ、兵助は小さく溜息をつきながらの台詞にこくりと一つ頷いた。

「それにしてもどうしていきなり……」
「それは直接聞いてみればいい事だ」

 つっぷして意識を飛ばしている六年生の一人を見下ろし、三郎は冷たい声で呟く。足先でその身体を転がし、暴れださないように押さえつけて飛んでいる意識を引き戻した。低く呻いた上級生は、何度か瞬くと、動かない身体にぎょっとして無表情に見下ろす三郎の顔を見上げる。

「さて先輩、少々お聞きしたいことがあるのですがね」
「そ、それが先輩に対するたい……」
「正直に話してくれますよね」

 六年生の言葉を遮りクナイを首の横に突き立て、三郎は口角を吊り上げた。容赦の無いその行動に、六年生は真っ青になってこくりと一度首を縦に振る。叩きのめされた記憶も新しく、刃向かう気にもなれなかった。

「兵助を私刑しようとしたのは何故です?」
「そ、それはに……」

 ざくりと、反対側に別のクナイがめり込んだ。そのクナイの持ち主を六年生がそろそろと見上げると、静かな怒りを宿した兵助が鋭く目を細めていた。

「あの方がこんな卑怯な真似をするはずが無いでしょう。そういう手段を取ったとしても、ご自分の名前を出すようなヘマをなさるわけがない」
「確かに」
「あの先輩が動くとしたら完璧に完全犯罪が成立するよな」
「ハチ、その言い方はちょっと……」

 勘右衛門と八左ヱ門が兵助の言葉に頷くと、雷蔵が苦笑を浮かべた。そんな四人にちらりと視線を走らせると、三郎は再び六年生を見下ろした。

「正直に、と言いましたよね?」
「……久々知が邪魔だと言われた」
「誰に?」
「……」

 六年生が口を閉じ、沈黙が横たわる。
 けれども、五人分の鋭い視線に耐えられなかったのか、六年生はややあって口を開いた。


NEXT