シュレーディンガーの猫はにゃあと鳴く





 ひたひたと、兵助はいつも通る道順とは違う場所を通って、の部屋への道のりを進む。本来は通らずともすむ場所を通るのは、偏に計画の為だった。今兵助が歩んでいる場所は、鈴木愛梨がよく通る場所なのである。かち合う確率はほぼ百パーセントに近い。
 上手く敵意を殺意に変えられるだろうか、と視線を落としながら思う。ここでしくじれば、彼女を学園から排除することが少し面倒になる。成功すれば、彼女は奈落にまっさかさま。学園には彼女が残した爪あとが残るだろうが、それは時が経つに連れて薄れていくだろう。そんな些細なことにずっと拘っていられるほど、世の中は甘くは無いのだから。
 彼女の処分はどうなるだろう、と思う。追い出されるか、殺されるか。後者であれば、自分に任せて欲しいと思う。もしそうなったら、平と田村にも手伝ってもらおうか。彼らはあの女に殺意を抱いていたから、喜々としてのってきてくれるだろう。
 暗い思考に小さく笑みを浮かべると、前方から素人のものでしかない気配がした。あの女だ。自然と険しくなってしまいそうな顔に、小さく呼吸を繰り返して無駄な力を抜いていく。変に彼女を意識しすぎないように、けれども、無関心でありすぎないように。敵意から、殺意へと兵助に対する感情を悪化させるように。
 前方から来る愛梨が兵助の存在に気付き、大きく目を見開いた後で敵意と嫌悪が剥き出しの顔をした。けれども兵助はそれに何の反応をすることも無く、彼女の横を通り過ぎる。

「ねぇ」
「……なんですか?」

 二、三歩通り過ぎた所で声をかけられ、振り向く。愛梨の顔は、月の光でもわかる程に歪められていた。

「そんな恰好で、何処に、行くの?」
先輩のところですが、何か?」

 そんな恰好、とは寝間着のことだ。手には明日の着替えと荷物を抱えていたりする。
 不思議そうに小首を傾げて見せると、彼女はぎっときつい眼差しで睨みつけてきた。その感情を兵助はよく知っていた。嫉妬だ。そして彼女の瞳には、男同士だなんて、と言うような嫌悪の感情も見える。

「こんな時間に何しに行くのよ」
「それを貴女に答える義務はありません」

 冷たく、突き放すような声で言い切る。すると、愛梨はかっと頬に血の気を上らせ、何かをこらえるように両手を握り締めた。今にも怒鳴り散らし始めそうなその体勢に、兵助はわざとらしく息を吐き、肩をすくめて見せる。

「こんな時間だからこそですよ」
「こんな時間だからって……」
「好きな人の部屋に行ってすることなんて一つに決まってるでしょう」

 暗に閨事をほのめかしてみれば、彼女は顔を引き攣らせた。

「男でしょ……あんたのどこがいいのよっ」
「さぁ……。ああ、でも先輩は肌と髪のさわり心地が良くて好きだと仰いますよ。身体の相性は最高だそうです」
「か、からだ……!?」

 真っ赤な顔で絶句してしまった愛梨に、兵助はふうっとを真似て、艶やかな笑みを浮かべてみせた。

「ええ。私は先輩しか知らないのでよくわかりませんが、先輩が言うならそうなんでしょうね。一度閨に引きずり込まれるとなかなか放してもらえないし……。でも不満ではないんですよ。求めてもらえるのは嬉しいし、あの人の腕の中はとても気持ちがいい」

 ぱくぱくと、金魚のように口を開閉させる様がひどく滑稽で。でも笑い出すのをこらえて、すうっと目を細めた。あと、一押し。

「だから貴女はいらないんです。先輩に近づくなんて無駄な真似は止めてください」

 自分でも、冷たい声色だと思った。邪魔だと、言葉にせずとも充分に伝わるような、そんな温度。ひやりとした氷のような棘のある言葉に、真っ赤になって狼狽していた女がはっと息を呑んで、自分を排除しようとしている少年をきつくきつく睨みつけた。その目はギラギラと輝いており、まるで人一人殺してしまえそうなほどだ。
 堕ちた、と作戦成功への喜びに、唇が歪みそうになる。それをこらえ、兵助は見せ付けるように幸せそうな笑みを浮かべた。

「用事はそれだけですか? それなら私はもう行かせてもらいます。先輩を待たせているので」

 振り向きもせずに、兵助は愛梨に会うまでと同じ速さで歩き始める。本当は走り去ってさっさとの下へ行ってしまいたかったが、しっかりと余裕を見せつけなければならない為にそれはできなかった。きちんと、殺意の標的として見られるように。背に突き刺さる殺気混じりの視線に、兵助は今度こそ口角を吊り上げた。





 愛梨の胸の中は、男に負けたという自尊心が傷つけられたことによる怒りと屈辱と嫉妬が入り混じり、荒れ狂っていた。
 男の身体の何がいいのだ。柔らかな胸も尻も無く、高く可愛らしい声があるわけでもない。だと言うのに、愛梨が好きになった男はこれからあの少年を抱く――はっきりと少年がそう言った訳ではなかったが、口ぶりからしてそうなのだろう――という。少年の言葉が正しいのなら、満足するまで何度も何度も彼を求めるのだろう。愛を囁きながら。

「何よ……!」

 ぎりっと爪を噛む。こんなことをしたらせっかく綺麗に整えた爪の形が歪むのだが、そうしなければ、今にも感情のまま叫びだしてしまいそうだった。
 とても頭にきていた。腸が煮えくり返るとはこの事だろう。兵助が愛梨に残していった言葉もそうだが、何よりもむかつくのは、あの勝ち誇ったような笑みと、余裕の漂う背中。

「邪魔なのはあんたの方よ」

 怒りのままにぽつりと呟く。そうして、愛梨は自分が口にした言葉に、いい事を思いついたと唇を歪めた。

「そうだわ、いらないのはあっち」

 邪魔なものは排除してしまえばいいのだ。彼が、愛梨をから遠ざけようとしているように。ここは、それが多少なりとも許される時代なのだから。

「ふふふ」

 笑い声が口を付いて出る。どうやって排除しようかと考えるだけで、心が躍った。
 まずはが好むといった髪をざっくりと切って、あの月の光でのぼんやりと浮んだ、女の目から見ても綺麗な白い肌を八つ裂きにしよう。愛梨自身が忍たまを相手にするのは無理だから、愛梨を盲目的に慕う六年生辺りにでもやらせればいい。それから、命をとってしまう前に、そいつらに犯させるのもいいかもしれない。以外を知らないと言っていたから、充分効果的だろう。そうして兵助が死んでしまったら、恋人を亡くして落ち込んだを愛梨が慰め、兵助がいた恋人と言う地位に納まるのだ。この時代の結婚の適齢期は早いから、そのまま結婚して妻になれるかもしれない。
 どこまでも都合のいい想像を膨らませ、愛梨は来ると信じて疑わない未来に対し笑みを浮かべた。





「首尾は?」

 笑いを含んだ声が、部屋の中に滑り込んできた兵助に尋ねる。質問の形式を取ってはいても、成功を信じて疑わないその声色に、兵助はにこりと笑みを浮かべるだけで答えてみせた。どこか得意気なその笑みに、はくつりと咽喉を鳴らす。

「まぁ、お前が素人相手に失敗するはずがないな」

 聞くまでもないか。
 そう呟くに、腕を取られて胸元に抱きこまれる。少し低めの体温と鼻先を掠める匂いに、ほぅっと息を漏らして擦り寄った。の大きな手が、兵助の頭から背を撫で下ろす。その心地よさにうっとりと目を閉じながら、の背中に両手を回し、指先に寝間着を握りこんだ。

「視線だけで人が殺せるんじゃないかというくらい、凄い顔をしていましたよ」
「どんな?」
「修羅か夜叉と見間違えそうな形相でした」
「それはまた」

 くつくつと咽喉を鳴らして笑うに、「あれは是非とも彼女に傾倒している馬鹿どもに見せたかったですよ」と続ける。するとはさらに面白そうに笑い声を上げた。

「確かに。どんな反応をするのか興味はあるな」
「盲目ですから、都合の悪い部分は見えないかもしれませんけど」
「ありうる」

 またくつりと咽喉を鳴らし、は心音を聞き入るかのように胸に頬を寄せ目を瞑ったままでいる兵助の顎を持ち上げ、唇に触れるだけの口付けを落とした。すり合わせるようにして何度も唇を重ねる。

「ん、ぅ……」

 深く重ねられ、するりと侵入してきた舌に翻弄されて、身体の底に眠っている熱を呼び覚まされる。唇が離れ、熱い吐息を零すと、間近にあるの目は妖しげに細められ、朱の走った目元には溢れんばかりの色気が漂っていた。ちろりと、欲情の炎が走った瞳に、兵助はこくりと咽喉を鳴らす。

「後一段階、襲ってくる六年は雑魚だろうが、気をつけろよ」
「わかっています、下手な怪我は負いません」
「ああ。止めに入る奴らは最高の人員をそろえてやる」

 鉢屋たちも寂しがっている事だ。
 の口から出た友人の名に、愛梨の言動で困惑している八左ヱ門や雷蔵を引き戻すつもりでいるらしいことを悟り、兵助はふわりと笑みを浮かべた。その方がにとっても都合がいいからだというのが大部分だとしても、やはり友人の事も多少は気にかけてくれているようで嬉しい。
 礼を言う代わりに小さな口付けを贈るとは口角を吊り上げ、流れるような仕草で兵助を押し倒した。


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