不安と安堵の種をまく
渡すものか、会わせるものか。
そう瞳に渦を巻く独占欲に、はくつくつと咽喉を震わせて笑う。その体内で荒れ狂う感情は全て自分を想ってのものだ。自分の存在が兵助の心を占拠している事が、愉快でたまらない。こんな顔を見ることが出来ただけでも天女様様か。
そう思いながら、近づいてくる気配に、兵助の腰を引き寄せ首筋を指で辿りながら口付けた。小刻みに揺れ動く長い睫毛をしばし見つめ、そっと自らの目も閉じる。深く口付け、首に腕が絡められると、そう時を待たずに障子がカタリと開いた。薄く目を開く。
「げっ」
「あ」
「え……」
小さな声が三人分聞こえる、けれども気付かないフリをして、兵助の身体を強く抱きしめる。
「ん、ぅ……」
苦しげに眉間に皺を寄せる兵助に、少し力を入れすぎたかと腕の力を抜くと、今度は首に回された腕に力が篭った。の細められた目に、喜色が浮ぶ。ばたばたと去っていく足音と気配が完全に遠のくのを待ってから、唇を離した。はっと熱い吐息を零す艶やかに濡れた唇をちろりと舐め、もたれかかってくる身体を抱きしめる。
「行ったな」
「はい」
肩口に埋められた小さな頭が上げられ、真剣な表情で頷く。赤く染まったままの頬をさらりと撫で身体を離して畳の上に座り込む。兵助は入れて冷ましていた茶をその前に置き、自分もまた腰を下ろした。
「……これで私が彼女の攻撃対象になります」
「そう上手くいくか?」
「いきます。これ幸いとばかりに三郎次やタカ丸さんが有る事無い事吹き込むでしょうから。まだあっちと接触を持ったままの七松先輩も協力してくれてますし。それに、上手くいくと思っているから今回の事にも乗ってくださったのでしょう?」
「まぁな」
勝てない勝負はしない主義だ。そう言って笑みを浮かべるに、兵助もにこりと笑みを浮かべる。
今日は天女と呼ばれる鈴木愛梨が火薬委員の手伝いという名目でに会いに来る日だった。だから、どうしても彼女を回避したかったは、兵助が出した案に乗ったのだ。次の委員会がある日を操作して、三郎次とタカ丸が連れてくるであろう少女が来る瞬間を狙って、彼女の興味をから兵助へとそらす事。その手段として取られたのが先ほどの口付けだった。これで彼女は兵助を恋敵として認識し、兵助をから引き剥がそうと行動に移すはず。
「男に負けるだなんて、あの女の性格上考えたくも無いはずですから」
「だろうな」
自分が中心に居なければ嫌で、自分が正しいと思い込んで、思い通りに行かないことなど無いという傲慢さを持つ、他称天女様。最初に観察していた頃はそうでもなかったようなのだが、最近はそんな態度が鼻につくほど目立ってきた。男に囲まれてちやほやされているうちに、調子に乗ってきたのだろう。
「で、お前は俺から離れている予定だと」
「はい……あの、何か」
据わった目で見つめられて、兵助は身じろぐ。はただひたすらに、自分のお気に入りが死のうがどうしようがどうでもいい女の所為で自分の側から離れていくという事実が気に入らなかった。それが一時的なことであれ。
「必要ない」
「でも……」
「あれなら勝手に問題を引き起こしてくれるだろうよ」
ついでにそのまま勝手に処分されてくれないだろうかとも思うが、それは無いだろう。が指揮を取っている限り誰も手を出そうとはしない。あの鉢屋三郎が、面白く無さそうな顔をしながらも大人しく様子を見ていたように。
「それに離れているのも不自然だろう。四六時中側にいる必要は無いが、離れる必要も無い。今までのままで良い。異論は無いな」
「はい」
確かに言うとおりだったので、反論は許さぬと言外に告げるに是と頷いた。
静かな表情に戻ったは、目を伏せて湯飲みに口をつけた。中に入っている茶は冷たいとはいえなかったが、今時分の時期には丁度良い温度だった。心地よい沈黙がゆったりと室内に横たわる中、廊下からは軽く歩幅の小さな足音が聞こえ、はふと優しい笑みを浮かべた。その顔を見て、兵助も顔をほころばせる。
「失礼します」
律儀に声をかけて外で待っている伊助に入室の許可を出す。するりと室内に入り込んで障子を閉めた伊助は、兵助とが手に持つ湯飲みと畳の上に座り込んでくつろいでいる様子に首を傾げた。
「今日って委員会でしたよね」
「ああ。昨日の内に終わらせたが」
「今日はやる事があったから、委員会の仕事は昨日の内に先輩と片付けてしまったんだ」
「やる事、ですか?」
に手招かれ、膝の上に抱き上げられる。大人しくかかれた胡坐の上に座りまた首を傾げると、頭上からくつくつと笑い声が聞こえた。
「例えるなら豆まきってところだ」
「豆まきって、鬼は外、福は内っていう、アレですか?」
「まぁな」
「言いえて妙ですね」
まさに今日取った行動はにとっての厄除けで、崩れかけている学内のバランスにヒビを入れ人災を起こす為の下準備だ。本来の豆まきとは違い、まいた豆は拾うことなどできるはずもなく、後はただ芽吹いていくしかない。豆まきとは上手く言ったものだと、兵助は苦笑を浮かべた。
所構わずいちゃつかないで下さいって言ってるのに!
三郎次は僅かに頬を染め、同じような顔で愛梨を火薬委員会に割り当てられた部屋から遠ざけているタカ丸と、混乱したような顔をしている愛梨を見上げて、心中で先輩たちを詰った。
三郎次の所属する火薬委員会の先輩であると久々知兵助は、成績優秀で尊敬すべき人たちではあるが、いかんせん仲が良すぎた。膝枕なんてものは日常茶飯事であるし、髪や頬や手に触れる事だって――それも手だけではなく唇で!――人前で平気でする。その仕草はとても艶やかで、それだけでも見てはいけないものを見ている気分になるというのに、今日はうっかり入室の許可を取るのも忘れて口吸いをしている姿なんてものを見てしまって、三郎次は動悸が止まらなかった。
なんだかとても気恥ずかしいというか、いたたまれないというか、妙な気分でもある。例えるならそう、両親の恋仲であった頃を見ているような、そんな……。
そこまで考えて、三郎次はぶるぶると首を横に振った。両親てなんだ、両親て。確かに先輩は亭主関白な気質で、久々知先輩は先輩の一歩後ろに付き従って静かに支えている良妻のような所もある、が……。ダメだ、混乱している。
どうにも思考が変な所に飛んでいる事を認識し、三郎次は部屋から大分離れた所でようやっと立止り大きく深呼吸をした。そうしているうちに何とか動悸と混乱も治まり、ちらりとタカ丸を見上げる。目が合うと、タカ丸は眉尻を下げて困ったように笑った。
愛梨はまだ混乱したような顔をしたまま、タカ丸と三郎次の顔を見比べた。
「な、に、今の……」
「その……」
「先輩と久々知君、仲が良いから……」
あははーと笑うタカ丸に、仲が良いで済むような状況でもなかっただろうと口元を引きつらせるも、それ以上にどう言っていいものかわからない三郎次は視線を逸らしながら頷くしかない。
二人の仲が当たり前であるかのような反応に、愛梨は青ざめた。
「仲が良いって、君と久々知君って付き合ってるの?」
「多分……」
「たぶんって」
「しっかり確認した事なんて無いから」
でも膝枕とか当たり前にしてるよね。
そう言うタカ丸に、くっついている事の多い二人を思い出してげっそりしながらも三郎次は同意する。愛梨はうろたえ、視線を泳がせた。
「でも、二人とも男じゃない……」
物語の世界ならばありえないと思いながらも笑って読めた。現実に同性を恋愛対象としてみている人がいることも理解している。けれども、実際にそういう人物が周りにはおらず、自分には関わりの無い遠い世界の出来事であった為に、愛梨はそういう存在を受け入れる事ができなかった。ましてや、自分の想い人がそうだなんて。
青ざめたままの愛梨に、三郎次は戸惑いながらも口を開いた。三郎次にとって、衆道はそう珍しいことでもなかったので。
「性別はあまり関係ないって先輩たちは言ってました。それに、そう珍しいことじゃないですよ、ここでは」
「珍しくないって……」
「結構いるもんね、同室同士だとか委員会の先輩後輩とか」
愛梨は唖然とした。そう笑って言える内容だろうか、それは。でもだから、彼らは火薬委員会に割り当てられた部屋でキスを交わしている二人を見て、顔を赤くして逃げ出しただけだったのだ。気持ち悪いとか、変だとか、愛梨にとっては当たり前な事を欠片も思わず。
「……変よ、そんなのおかしいわ」
「愛梨さん」
「だって、男同士じゃない」
気持ち悪い。
そう呟いた愛梨に顔を見合わせた二人は、どこか傷ついたような、途方に暮れたような色を、互いの顔に見つけた。
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