白鳥はバタ足で泳ぐ





 迷惑な事に天女に惚れられてしまった所為で始まった、一方的な追いかけっこ。天女が追いかけが逃げると言う至極単純で面倒な遊戯は、天女を嫌いに組する人間の協力と、の悪質さを良く知っている上級生が天女をに近づけまいとしている事でに優位に働き、狭い――学園の敷地はだだっ広いが生活区域は狭いのだ――学園の中で、見事に逃げ切っていた。
 というか。

「すこぶる順調だ」

 留三郎が入れた――場所は保健室だが、伊作が入れると絶対に零すか火傷をしかける――茶を啜り、は満足げに息を吐いた。湯飲みを持つ手には白い包帯がまだ覗いているが、肌を覆う範囲はだんだん少なくなってきている。もうそろそろ完治と言ってもいいほどではあるが、伊作が駄目だと言うのでその言葉に従っているのだ。医療に関して、は伊作に全面的な信頼を置いている。

「でも安易に外には出られないのには変わらないだろう」
「まぁな。だがそれほど悪いわけでもない」

 つい先日兵助の膝を枕に愚痴っていたとは思えない発言である。そんなことは知らない伊作と留三郎は、あんな女の為にと不機嫌になっていたことは知っていたので、揃って首を傾げた。

「何か良いことでもあったの?」
「兵助と一はの子供達が甘やかしてくれる」

 機嫌良く少しばかり艶の混じった笑みを浮かべたに、二人は納得した。兵助とは正式にくっついている訳ではないが周囲と比べると明らかに溺愛していることは判るし、彼は何故か殊の外一年は組の子供達が大好きなのだ。他の後輩と比べて明らかに猫かわいがりしている。顔と名前を一クラス分全て覚えているという珍しすぎる事態が、それを証明していた。
 そんな彼らがちやほやと甘やかしてくれるのだから、がご機嫌でないわけがない。

「そういえばしんべヱや喜三太が頑張ってたな」
「乱太郎もね」
「本当に。本来ならあまり近づきたくないだろうが」
「後でたくさん褒めてやらなくちゃな」
「そうだね、留三郎」

 にこにこと笑いあう用具の父と保健の母に、和む、と胸中で呟いては茶を啜った。鈴木愛梨という少女が来てから若干おかしい学園内において、変わらない光景と関係があるというのは実に落ち着く。それがたとえ夫婦のような恋人同士だったとしてもだ。

「けど、よく違和感を持たれないな」

 一年は組は天女サマから距離を取っていたのに。
 留三郎が首を傾げる。伊作も、そういえばと目を瞬かせ、を見た。こくりと、二人の疑問には頷く。

「ああ。長次だ」
「長次?」
「長次が何かしたのか?」
「一度軽くあの女の事できり丸と衝突していてな。そのきり丸が、急に天女サマに近づくようになったから首を傾げてたんで、上級生が近づいているから大丈夫だと判断したんじゃないかと言っておいた。それが広まったんだろう」

 おそらくは図書委員伝いに。あそこはきり丸以外皆天女サマに惹かれてしまっているのだ。居心地の悪い事この上ないだろうに、きり丸はよく頑張っている。

「……そういえば、きり丸は一人だけか」
「「あ」」
「用具は留三郎にしんべヱ、喜三太。保健は乱太郎一人だが伊作がいる。体育は次屋以外が正気で、会計の団蔵には三木ヱ門がついている」
「火薬はと久々知と伊助の三人、作法は仙蔵、綾部、兵太夫、だったか」
「学級は一年い組の子を除いて大丈夫。生物は上級生が駄目でもは組の子が二人いる、し……」
「本当に、孤立、してる……?」

 さぁっと、今頃気付いた二人は青ざめた。は顔色は変えないまでも、眉間に皺を寄せている。口元に手を添え、何事かを考えているに、留三郎と伊作は縋るような視線を向けた。この三人の中では一番頭が回るのがなのだ。というか、六年の中では一番頭も要領も良い。

「それほど、心配は無いと思うが……」
!?」
「だが、きり丸一人だぞ!」
「いや、あの女が絡まない限りは大丈夫だ。図書は比較的穏やかな面子が揃ってるからな。特にきり丸には甘い人間が多い。鬼ごっこが始まってからは、あの子たちもあの女に絡むようになったから、上級生の表情も少し柔らかくなった、が」

 だがそれでも、放っておいて良いわけはない。あの子はたくましくしなやかな精神を持っているが、まだ十歳の小さな子供なのだ。は小さく首を振る。

「伊作、留三郎。少し気をつけてもらえるか? 今俺が構うと、逆効果だ」
「ああ」
「うん、わかった」

 難しい顔に憂いを浮かべ、頼むに、二人はしっかりと頷く。それでも心配なのか視線は畳に落ちたままだ。伊作と留三郎が顔を見合わせたとき、はぴくりと顔を上げ、さっと天井裏へと隠れた。伊作と留三郎は無言で座る位置を調整し、の使っていた湯飲みを隠す。
 最初から二人だけだったと言うような状況を作り出し、茶を啜っていると、からりと保健室の扉が開いた。

「すいませーん」
「はい。鈴木さん、どうかしましたか?」

 持っていた湯飲みを置いて、どこか怪我でもと首を傾げる。用件は一つだろうにと思いながらも、愛想良く対応する伊作に、留三郎は感心しながら、そっと視線を落とした。

「ううん、怪我は無いの。体調も悪くないわ。あの、その、君が包帯を替えに来てるって」
「ああ、

 少しばかり、声のトーンが下がる。留三郎はちらりと視線を伊作に投げかけた。

(伊作)
(わかってるよ。でもそんなことで保健室に来ないでほしいよね)
(確かに)

の包帯なら替え終わったから、もう出て行ったよ」
「そうなんだ、どこに行ったかわかる?」
「う〜ん、僕はちょっと……留さん、わかる?」
「いや」

 わかるも何も、今保健室の天井裏にいたりするのだが。

「ごめんね、わからないや」

 こくりと、留三郎も伊作の言葉に頷き、二人してすっとぼける。至極残念そうな、どこか腹立たしそうな顔をして保健室を出て行った少女に、二人は視線を合わせ、少女の気配が遠のくと同時に彼女が来る前の位置に座りなおし、の湯飲みを置いた。天井裏から出てきたに、留三郎が茶を入れなおす。

「本当に探し回ってるんだね、彼女。仕事はどうしたのかな」
「それはしてるみたいだぞ。一応」
「一応か」
「一応だ」

 一応動向は把握しているらしいに、同情すればいいのか哀れに思えばいいのか。留三郎は視線を逸らした。伊作は苦笑を浮かべている。いくら嫌でも、忍務なのだから仕方が無いのだ。

「だが、そろそろ苛立ってきているみたいだぞ」
「だねぇ。放っとけば爆発しちゃうかもしれないし」
「……傍迷惑な存在だ」

 確かに。
 深々と溜息をつきながらの言葉に、伊作と留三郎は大きく頷き同意した。





 何で、どうして会えないの、私が会いたいと思ってるのに、ずっと探し回ってるのに!
 肩を怒らせ、足音を高く廊下を歩く。愛梨は留三郎たちが判断したように苛立っていた。の事を好きになって以来、一度も会えないのだ。苛つきもする。人に聞いてみても、わからないと言われたり、すれ違いになったり、会えたと思ったら鉢屋三郎だったり。会えない、まったく。
 愛梨はぐっと眉間に皺を寄せた。こうなったら。

「委員会中に突撃するしかないかしら」

 今までは火薬は危ないからと長次や文次郎達に言われて、それを聞き入れていたのだ。だが会えないのなら仕方ない。

「委員会でなら、流石にいるわよね。今度の委員会がいつか、タカ丸君に聞いたら答えてくれるかしら」

 きっと答えてくれるわよね。
 機嫌を直し、愛梨はにっこりと笑みを浮かべて、今度は軽い足取りで歩き出す。
 彼女が去ったところで、かたりと天井の板が外れ、一人の人間が廊下に降りた。長い睫毛が影を落す知性を宿した瞳には、冷え冷えとした侮蔑が浮んでいる。冷たい空気を纏った兵助は、据わった目で彼女が去った廊下を見つめた。

「来るのか」

 会わせない。会わせてなるものか。絶対に。

「あの人は」

 誰のものでもない。何度口付けても、肌を合わせても、一人の人間に縛られてはくれない人。けれど、それでも、ぽっと出の、あんな女に。男に囲まれて楽しんでいるような女になど。

「渡さない」

 唸るように。誓うように。そっと呟いて。
 波打つ髪を翻し、兵助は天女と他称される女が来た方へと向かった。きっと、まだそこに愛した人がいるはずだから。




 きり丸については書いてる内に気付きました。上級生に二、三年全滅って……。今回一番辛いのはもしかしたらきり丸かも知れません。また後でフォローしておきます。
 そんで久々知が何だかやらかしそうな感じです。そんな予定は無かったんですけど、まぁ行き当たりばったりで。


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