「おかえり」の代わりに抱きしめる





 アレだけ男に囲まれて鼻の下を伸ばしている女のどこが天女だ、あの阿婆擦れ。
 滝夜叉丸が空から降ってきた女に対する感情は、それに尽きた。その感情の中に、僻みと嫉妬が充分に含まれている事を自覚した上で。確かに彼女は優しく美しいのだろう。ただそれだけであったのなら、滝夜叉丸とてそんな悪感情など覚えはしなかった。それだけであったのなら。
 しかしながら、彼女は多くの忍たまの心を、その微笑一つで奪い取っていったのだ。六年生から下級生に至るまで、恋情から親愛までその感情の違いはあれど。その中に、滝夜叉丸が恋愛感情で以って慕ってやまない六年ろ組体育委員長、七松小平太の姿もあった。その事を知った瞬間、滝夜叉丸の中にあった彼女への興味は清々しいほどにあっさりと憎悪へ転んだ。
 彼女の事を彼が好きにあっただけならばまだ、これほど彼女を憎む事も無かっただろう。けれど、彼女に魅了された小平太は、あれだけ楽しんでいた委員会すらも忘れてしまったのだ。彼だけではない。他の委員会もそうだ。図書室は多少うるさくても貸し出しカードが宙をきる事もなく、会計委員会は辛うじて機能してはいるものの、作業効率が目に見えて落ちているらしい。ほとんど変わらないのは作法、火薬、保健に用具くらいか。火薬委員会に関しては、委員長たる六年ろ組の先輩がここの所学園にいついているから、逆に効率が上がっているらしい。斉藤タカ丸が常よりも早々と委員会を終らせて、あの女の元に通い詰めている姿から良く分かる。
 そう、先輩。七松小平太が唯一無条件で従うが故に、飼い主と認識されている六年生。けれども滝夜叉丸は知っていた。七松小平太にとって、という男は唯一無二の主なのだ。その命も心も、全てを無条件に捧げている。そして彼もまた、七松小平太を信頼していた。口では犬だの馬鹿だの言いながらも、小平太に対してはどこまでも誠実なのだ。その主従の絆に割って入れるものではない、割って入ってはいけないものなのだと、滝夜叉丸は理解していた。そしてそれほどに、彼らの間にある関係は美しいものだったのだ。
 だというのに。小平太はの事すらも二の次にしてしまった。その事実は天女と呼ばれる女に名小平太が惹かれ、委員会を蔑ろにした事以上に滝夜叉丸に衝撃を与えた。そうして恐ろしくなったのだ。何よりも大切だったはずのものを小平太に手放させた、鈴木愛梨という存在が。
 あれは学園にあってはならないものだ、全てを駄目にしてしまう。けれどもどうにもならなかった。排除の為に動こうとしても、五年生や六年生に気付かれ、失敗してしまうだろう。そして冷たく、厳しい目で詰問されるのだ。どうしてあの優しく美しい人を、と。小平太にそんな目で見られるだなんて堪えられなかった。いくらその存在を疎み、排除したいと思っていても、実行する術が無い。ぎりりと、奥歯をかみ締めて堪えるしかなかった。
 きっと三木ヱ門も同じ気持ちなのだろう。最近は顔をあわせても喧嘩をする事すらなく、表情も暗い。ユリコを率いているのは何時もの事だが、勢いが全く無いのだ。
 それにつられるようにして、滝夜叉丸の表情も日々暗くなっていった。委員会活動のある日に、活動は無いと分かっていても律儀に集合場所に行く度に、空しさをかみ締める。同じように集合場所に来ては隣に座り込む金吾と四郎兵衛が心配している事は分かっていたが、もう、どうすればいいのか分からなかった。

「滝ちゃーんっ! 金吾ぉ! 四郎兵衛ぇ!」

 少しばかり焦りの滲む声で、ずっと望んでいた人が滝夜叉丸たちの名前を呼びながら猛スピードで走ってくる。けれども、滝夜叉丸は怖くて地面に向けられた視線を上げる事ができなかった。期待して、自分が望んだために聞こえてきた幻聴だったら、ぬか喜びにしかならない。
 けれども隣に座っていた金吾と四郎兵衛が「七松先輩!」と声を上げて、腰を上げ走り出した。

「金吾、四郎兵衛!」

 小平太は駆け寄ってくる後輩を、両手で抱きとめ、一度ぎゅっと抱きしめてから片手で一人ずつ抱き上げ、地面を見つめたまま動かない滝夜叉丸へと歩み寄った。片手ずつに抱き上げた後輩を、下に下ろす。
 滝夜叉丸は、地面に伸びた長い影と、後輩の己を呼ぶ声に恐る恐る顔を上げた。

「滝ちゃん、滝夜叉丸」

 じっと、自分を覗き込んでくる七松小平太の姿が、そこにはあった。いつも溌剌としていた顔は、今は後悔と心配で曇っている。とても長い間、彼の姿を見ていなかったような気がする。無言で久しぶりに見る先輩の顔を凝視していると、大きな手がそっと頭にのせられた。

「ごめん、ごめんね、滝ちゃん」
「せん、ぱい……?」
「今まで忘れててごめん、もうこんなことしないから。金吾と四郎兵衛もごめん」

 ぎゅうっと、金吾も四郎兵衛も一緒くたに抱きしめられる。その力は何時ものように強くて少しばかり苦しかったが、滝夜叉丸も金吾も四郎兵衛も抗議することなく、ぎゅっと抱き返した。

「先輩、どうして……」
ちゃんが怪我して帰ってきて、色々話して……目が覚めた。本当にごめん」
「話したって、先輩目が覚めたんですか!?」

 ぎょっとしたように金吾が目を見開く。あの、学園一の実力者と名高いが負傷して帰り意識不明というのは学園に知れ渡っていた。あの久々知兵助がかなり取り乱したという話だから、そうとう酷かったのだろうことは想像に難くない。

「あの、先輩は大丈夫なんですか?」
「うん、意識が戻ったらもう大丈夫だって。いさっくんのお墨付きだよ」
「よかった」

 ほっと、四郎兵衛が安堵の息をつく。は小平太の無茶があまりにもすぎると時折体育委員会に乗り込んできては小平太を一撃で伸し、後輩達の安息を確保してくれるありがたい存在なのだ。だから体育委員会の面々はに懐いていた。
 その言葉を聞いて、滝夜叉丸は先輩が七松先輩を元に戻してくださったのだと、目からぽろりと一粒涙を零した。

「今日からまた委員会活動するからな!」

 喜々として言い出した小平太に、滝夜叉丸は久しぶりに笑みを浮かべてこぼれてしまった涙を拭い、小平太から離れる。

「先輩、今日はもう遅いですから、また今度にしましょう」
「あ、本当だ」

 赤くなり始めた空を見上げ、小平太がしまったなと呟く。その声が本当に残念そうで、滝夜叉丸はくすりと笑った。そうだ、これが本当の七松先輩だ。七松先輩が帰ってきたと、喜びが胸に溢れた。

「それじゃあ皆で夕飯でも食べるか!」
「はい!」
「あ、次屋先輩どうしましょう」
「んー、三之助なら大丈夫だ四郎兵衛。たぶん食堂で会えるさ」

 一瞬のタイムラグの後に、小平太が笑みを浮かべる。金吾と四郎兵衛を促す小平太の横顔を、滝夜叉丸はじっと見つめる。競うようにして食堂へと向かっていった金吾と四郎兵衛の後姿を見送っていた小平太は、その視線に首を傾げた。

「どうかした、滝ちゃん」
「三之助は、鈴木愛梨……さんの所ですか?」
「うん、多分ね」

 そう頷く小平太の横顔は、酷く冷めていた。その目にはどことなく、強い警戒の色が光っているような気がした。ああ、本当に七松先輩は。

「滝夜叉丸は偉いね。ちゃんと彼女を警戒してた」
「……っ、当然です! 私は優秀な忍たまなんですからね!」

 優しい瞳を向けてくる小平太に、恥しいような泣きたいような気分で頬を染め、滝夜叉丸は笑顔で胸を張った。


 そして滝夜叉丸は小平太に天女対策の元締めが艶主だと聞いて協力を申し出るのです。
 滝夜叉丸が艶主を愛称で呼んでいるのは小平太の影響。あまり艶主と仲が良いわけではありませんが、艶主はどんな呼び方をされていようと気にしないので(相手に悪感情を抱いていない限り)放置状態です。呼ばれても何を思うでもなく普通に反応します。だから周囲には愛称で呼ぶくらい仲が良いと思われていたり。


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