再び焼きつけた誓い



 ある日突然空から降ってきた女性は、鈴木愛梨さんという人だった。ふわふわとした笑顔が可愛くて、小平太たちが怪我をすると目に涙を浮かべて心配してくれて、手なんてすべすべで傷一つなくて。守ってあげなきゃいけない、大切にしてあげなきゃいけない、本当に可愛らしくてか弱い花のような人。
 彼女に魅せられている殆どの人間がそう思っていた。小平太だって例に漏れず、当然のようにそう思っていた。何の疑問も挟む余地もなく、彼女を守らなければならない存在だと、至極当たり前のように思って行動していた。
 そう、思い、信じていたのだ。




 頭を鈍器でぶん殴られたみたいな衝撃を受けた。
 誰に殴られたわけでも、蹴られたわけでもないのに、目の前がぐらぐらして視界が一向に定まらない。それでも足は自然と保健室へと向かって動いていた。
 怪我をしたと聞いた。学園に着いた途端気絶して保健室に担ぎ込まれたと。あの、学園一の実力者と言われるが、が……小平太の、大切な、守らなきゃならない、守ると誓った人が。
 様、と唇が主の名をかたどる。けれども、声は恐怖のあまり引きつれて出ては来なかった。大切な主をなくしかけたことが怖いのか、守れなかったことが怖いのか、もういらぬと、冷たい言葉があの整った唇から出てくるかもしれない事が怖いのか。
 きっと全部だと、麻痺した思考の中で思う。
 何故、怪我を負ってきたのだろう。……忍務に出たからだ。
 何故、は小平太を連れて行かなかったのだろう。……決まっている、一人に渡された忍務だからだ。今までもそうだった。何ら変わることの無い状況だ。が、怪我さえしていなければ。……いや、違う。
 が学園を出る前日に、彼としたやり取りを思い出し、小平太は蒼くなった顔から更に血の気を引かせた。いつも通りではなかった。けして、いつも通りではありえなかった。は変わっていない。一切、変わっていない。変わったのは小平太の方だった。学園長の「おつかい」の名を借りた忍務に行くというに、小平太はあろうことか笑顔で送り出したのだ。頑張ってねとたった一言告げたっきりで、食い下がりもせず、いや、その前について行くとも言わずに。あの瞬間、確かに小平太はを裏切り、己を裏切っていたのだ。に向かい、鈴木愛梨を取ると口にしたのだ。そのときはそれが何よりも大切だと思っていた。
 いっとう大切で、絶対に守らなければならないのは、だというのに。そう誓ったというのに。
 項垂れながらのろのろと歩いていると、聞きなれた声が聞こえた。顔を上げると、何時の間にか小平太は保健室にたどり着いていたらしい。
 震える手を、戸へと伸ばす。けれど、中から聞こえてきた声に、手が止まった。





、先輩……」

 ぐすりと、の手を握りながら兵助は鼻を啜った。本当は、生に繋ぎとめるかのように強く強くその手を握ってしまいたかったが、血色の悪い顔で布団に臥せっているに、そんな事は出来なかった。兵助が握り締めたところでどうこうなるようなか弱いつくりを持っているわけではないが、今のは何かあればすぐにその命の灯火を消し去ってしまいそうで怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。

「久々知」
「……伊作、先輩」
なら大丈夫。少し血を流しすぎただけで、傷自体は浅いし、毒の応急処置も適切で後遺症も残らないから」
「でも、顔色が悪いんです、指先だって冷たいんです、呼吸が、あさくて……」

 声がつまり、ぼろぼろと大きな瞳から涙がこぼれた。散々泣いて真っ赤になった目が、さらに痛々しい。伊作は兵助の横に座り、彼の頭を片手で抱き寄せた。涙で頬に張り付く前髪を払い、子供を宥めるように、そっと頬を寄せる。
 無理もない、と思う。血まみれになり、ぼろぼろになって帰ってきたを見つけたのは、他でもない兵助だった。見たこともないほど、己とそれ以外の血に全身を染め、消耗していて。兵助が彼の視界に入った途端、安心したように地面に倒れこんだのだ。その現場を直接見たわけではないが、その場面は容易に想像できた。は兵助に気を許しているから。
 そうして、悲鳴のような声での声を連呼する兵助を見つけたのが、伊作と留三郎の二人だった。二人でを保健室に運び込み、新野先生と処置を施してみた結果。幸い、血を多く流してはいたものの致命的な量ではなく、切り傷や火傷がありはしても致命傷とは程遠く、毒をくらってはいても、自分で応急処置の出来ない位置には毒をもった武器をくらったあとはなかった。わざと負ってきたという意図が見え隠れする、その傷跡。
 けれども、その事を兵助に言えるわけもない。がわざと傷を負ってきたのは、その必要があったからだ。彼と学園長が何を考えているのかは分からないが、そう知られていいことではないのだろう。だから伊作は、意図的に付けられた傷の事は胸の内にしまうことにした。
 目を伏せながらもの様子を窺っていると、ぴくりと彼のまぶたが震える。伊作ははっと息を呑み兵助から離れて彼の顔をのぞきこんだ。嗚咽を漏らし、涙で視界が歪んでいる兵助は気付いていない。
 眩しいのか眉間に皺を寄せ、何度かぱちぱちと瞬いて緩慢な動きで兵助が握っている己の手を見る。そこから辿った先で泣きじゃくっている兵助と、を凝視している伊作を視界に映し、一瞬にぃっと悪い笑みを浮かべた。艶やかで毒を潜ませたその笑みはすぐに消されはしたが、確実に何かをたくらんでいることが知れた。むしろ、それを知らせるためにわざと浮かべられた表情だ。これは確実に巻き込まれると、伊作は顔を引きつらせる。

(うわぁ……。助けて、留さぁん……)

 むしろ確実に巻き込まれるだろう人に、心の中で助けを求める。六年生の中での数少ない正気な人間であるために、今気付こうと気付かなかろうと遠くない内に巻き込まれることは端から分かっていたことだが、こんな形で知りたくはなかった。切実に。
 待ち受けているだろう不運に顔をそらしている間に、は兵助の手を握り返し軽く引いた。びくりと、兵助の肩が揺れて、袖でぐいと涙を拭いの顔を覗き込む。

先輩!?」
「何だ兵助、泣いてるのか?」
「だ、だって、先輩、怪我して倒れて、今まで目を覚まさなくて、それで……」

 ぽろりと、兵助の目から再び涙がこぼれる。は目を細め、包帯の巻かれた腕を伸ばし、その涙を拭った。触れた指先に、兵助がその手をとって頬を摺り寄せる。まだ手は冷たかったが、が目を覚まし、自らの意志で兵助に触れているという事実だけで、不安は溶けて消えていった。
 少し先の事に思いを馳せて明後日の方向を見ていた伊作は、横目でちらりと二人の様子を見て、安堵とも呆れともつかない溜息をついた。目を覚ましたのならばもう心配ない。感染症や傷口の処置には気をつけなければならないが、ならば傷を放置する事も無理をする事もないので大丈夫だろう。

「……伊作」
「え、あぁ、何?」
「学園長先生に会いに行く事は?」
「まだ、無理だよ」
「そうか。ならば伝言を」

 ちらりと、は医務室の出入り口の方へ視線を送る。伊作はつられるように意識をそちらへと傾けると、そこに小平太の気配を見つけた。ひくりと、口元が引きつる。

「学園長の懸念どおり、かの天女を目当てとした忍が学園を取り巻いております、と」

 何とも意地の悪い、と思わずにはいられなかった。





 “かの天女を目当てとした忍が学園を取り巻いております”

 彼女の所為か。
 真っ白になった頭の中で、自然とそんな考えが浮んだ。彼女自身は何もしていないのだから、何も悪くはないと頭ではわかっていても、の怪我という事実の前では感情が納得するわけもなかった。そして彼を守れなかった自分に、強い怒りがわいてくる。ぎりりと握った拳の中で、爪が掌に食い込んだ。

「七松先輩」

 保健室の戸が開き、久々知が顔を出した。まぶたが腫れており、目が真っ赤だ。を案じてずっと泣いていたことが安易に想像でき、小平太は唇をかんだ。

先輩がお呼びです」
「ぁ、ぅ……うん」

 小平太の顔が蒼い顔が更に白くなり、強張る。けれども逆らう事もなく頷いた小平太の顔をじっと見つめて、久々知はするりと小平太の脇を抜け保健室から出た。いやにあっさりと目覚めたばかりのの傍を離れたことが意外だったが、に離れているように言われたのだろう。
 のろのろと保健室に入り、伊作に視線で衝立の向こう側を指され、床を見つめたままでひかれた布団の傍に座り込んだ。袴を掴んだ手を、じっと見つめる。
 小平太の今にも泣き出しそうな表情は寝転んだからは良く見え、そっと目を細める。

「小平太」
「は、い……」
「何故そんな顔をしている」
「だって、私、様を……」

 忘れて、ないがしろにして。
 そんな言葉が浮んできたが、口に出す前に喉の奥で絡まってしまう。

「小平太、私は別にお前を責めはしない。これは忍務だったんだからな。お前が私を取ろうが、鈴木愛梨を取ろうが、結果は変わらん」
「……、様」
「でも、俺はあの女は好かん」

 七松小平太の主であるとしては、彼が幸せであればそれで構わないのだ。彼が彼らしく在れることが一番だと思っている。だから伴侶に誰を選ぼうとも、口を挟む気はなかった。けれども、友人としては、あの得体の知れない――とはまた別の形で子の世界に来た女だと分かってはいるが、どこまでも違和感が付きまとう――女を小平太の傍に置いておくのは、あまり好ましい事ではない。

「小平太、お前はあの女が大切か?」

 この私よりも、と、声が聞こえた気がした。
 鈴木愛梨という女性を、守ってあげなきゃならない人だと思う気持ちは有れど、小平太の心は即座にその問に否という答を出していた。

「いいえ。様の方が大事です」

 きっぱりと言い切り、小平太は顔を上げる。

「七松は様のものです。私は、七松小平太は、様の意に沿わぬ事は致しません」

 迷いを消し去り、真っ直ぐな瞳でを見つめる小平太に、は満足げな笑みを浮かべた。


 伊作は衝立の向こう側で聞いていない振りをしています。
 久々知は保健室を離れられない伊作の代わりに学園長に報告に行きました。
 六年生は艶主と小平太の関係に気付いているから、あまり違和感なく受け入れるよ。
 艶主は小平太が主とか友人とかいう関係性を関係なく、絶対的に艶主を取ると知っているから、上記のやりとりに。幼少時から「一番は艶主」と刷り込まれているのを知ってるんです。


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