回り始める歯車




 何もこんな時に。胸中でその言葉を繰り返し、は己を呼び題した張本人たる学園長――大川平次渦正を見つめた。けれどもその表情は至って冷然としており、視線も淡々としたものだったが、その目の輝きだけが彼の不快さを物語っていた。

「お呼びと伺いましたが」
「何じゃ、不機嫌じゃの」
「今この時期に、忍務と聞けば不機嫌にもなります」
「なに、心配せずとも良い。彼女自身は普通の女子じゃ。しっかりしている生徒もおる」
「否定はしません。その存在自体が至極気色の悪い事態を引き起こしているようですが」
「そう、それだけが予想外じゃった」

 下級生はまだしも、まさか上級生があそこまで惹き込まれるとはな。
 こればかりは深々と溜息をつく学園長に、も目を伏せて小さく息をつく。それはにも納得できた。他の奴らはまだしも、小平太や長次、そしてあの警戒心の強い文次郎までもが得体の知れない女に骨抜きにされるとは。色の授業も済んで、くのいち達の恐ろしさも艶やかさも骨の髄まで叩き込まれていたというのに。いや、だからこそだろうか。毒気のない、いや、綺麗なものばかりでできたような存在に惹かれたのは。
 もう一度小さく息をついて姿勢を正す。ぐっと顎を引き、不快な出来事を頭の中から放り出した。

「それで、忍務というのは」
「ああ、これじゃ」

 すっと、学園長が懐から出したのは二通の書簡。セオリー通りならば一通は本物、そしてもう一通は偽物だろう。

「チャミダレアミタケまで」
「御意」

 そこに己の意志など必要であるわけもなく。冷たく澄み切った瞳を伏せ、は頭を下げた。洗練された無駄のない動きで退室の旨を告げ、障子を開けようとしたとき、そういえば、と背後から学園長の声がかけられ、は意識だけを学園長に向ける。

「プロの忍が幾人か、学園の周辺で見られているらしい。いくらお主が学園一の実力者だと言っても、まだまだたまご、数人がかりでかかってこられたら敵わんじゃろうて。気をつけよ」
「……はい。ご忠告痛み入ります、学園長先生」

 向き直り淡々と返事をして、学園長に頭を下げる。学園長はというと、ほくほくとしたいつもの顔で茶を啜っていただけ。けれども、両者ともその影では、共犯者が浮かべるような笑みがそっと浮かべられていた。





「かくかくしかじか、という訳で数日戻らない」
「小説って便利ですね。わかりました、お任せください」

 お約束のやりとりをして背後でずっこける後輩達を無視して、兵助はの言葉にあっさりと頷いた。これは兵助が四年生の頃から続けられているので、慣れたものだ。は学園一の実力者である上に、素晴らしい俊足の持ち主であるが故に、学園長からの「おつかい」をよく頼まれるのである。
 それがただの「おつかい」ではなく、「おつかい」の名を借りた忍務だということを知っているのは上級生のみだ。当然の如く、兵助はその事実を知っていた。けれども、特に懸念を感じることはなく、毎回平然とした顔で兵助はを見送っている。それは、の実力をよく理解しているが故のことだった。
 滅多な事がない限り、という人物は怪我もしなければ返り血すら浴びる事は無い。情も興味もない相手に心を動かす事などなく、徹頭徹尾平静で冷徹であれるのだ。血に酔う事もない。実に優秀な忍なのだ。

「その辺の事は心配していない。もう慣れているだろうからな」
「普段からいらっしゃりませんからね」

 嫌でも慣れます、とじとりとした視線を向けられる。はしれっと無視して、後輩達に優しい笑みを向けた。

「話はそれだけだ。今日はもう帰っていい」
「「はーい」」

 良い子の返事をする後輩達に頷き、三郎次とタカ丸が去るのを見送る。その足であの女の元に行くのだろう事は安易に想像でき、兵助と顔を見合わせたところで、小さな掌がの袴を引っ張った。視線をその手の主へと下ろすと、伊助が不安そうな顔でを見上げる。

先輩……」
「どうした、伊助」
「あの、その、お気をつけて……」

 胸中の不安をどう表現してよいのか分からず、語尾は小さくなり伊助は俯く。は目を細め、何かに感づいているらしい伊助の頭を撫でた。

「大丈夫だ」
「……はい」

 静かな、けれどもしっかりとした声色に安心して、伊助は今度こそ笑みを浮かべて頷いた。
 走り去っていく小さな背中に、兵助は表情引き締める。

先輩、何故、今この時に」
「さて……だがあの大川平次渦正が考えなしに俺を行かせると思うか?」
「いえ……七松先輩には?」
「一応言ってきたが、アレは今使えん」

 いつもならしつこいくらい自分も行くといって食い下がってくるというのに、今回は頑張ってねーと笑顔で言うしまつ。使えない。全く以って使えない。
 は深々と溜息をついた。

「兵助」
「はい」
「今回は……」

 学園長の言葉通りなら、確実に怪我をして帰ってくるだろう。小平太をのぞいて一番取り乱すであろう兵助に一言忠告しようと口を開いたところで、ははたと口を閉じた。彼が取り乱し、真っ青になってぼろぼろと泪を流したところで益はあっても不利益はないというのに、何故一々そんな事を言う必要があるのだ。兵助のあからさまな思慕に確実にほだされているのだと気付いて、は小さく息をつく。

先輩?」
「いや、部外者は入れるなよ」
「はい」

 が言葉を呑み込み摩り替えた事に気付きながらも素直に頷く兵助に、は小さく口元に苦笑を刻み、そっと彼の前髪をすいた。





 そして一週間後、は学園に帰還した。
 全身に、切り傷や火傷を負い、毒を受けて。



 そろそろ天女サマ側の小平太を主人公の側に戻します。


NEXT