柔らかに縋りつく指先



 焔硝蔵で珍しい姿を見つけて、伊助は目を丸くした。少々くたびれた緑色の衣、艶やかな長い黒髪に、目立つものではないが整った顔立ちのその人は、普段委員会には滅多に来ない火薬委員長、だった。帳簿にさらさらと筆を走らせていた彼は、伊助のあからさまな驚きの視線に振り返って苦笑する。

「そんなに驚かなくてもいいだろう、伊助」
「え、あ、すみません」
「謝る必要はないぞ、伊助。先輩はお願いしないと滅多に来て下さらないのだからな」

 思わず顔を赤くして謝る伊助に、兵助が棚の影から顔を出す。自分を詰る言葉にはくいっと片眉を上げただけで、は特に反論する事もせずに確認済みの帳簿を兵助に渡した。

「終った」
「……はい、確かに。何時もこれくらい働いてくださると嬉しいのですが」
「他の奴らよりも外に出てることが多いんだ、無茶を言うな」
「最近はずっと学園にいらっしゃるでしょう」
「まぁな」

 それは学園に「天女」と呼ばれ居座っている女が居るからだ。学園に対し彼女が害となると判断した時点で、学園長や教師陣から排除命令が下るだろう。その時に指揮を取らせるために、学園長達はを手元に置いている。月の約半分を学園外で過ごすが学園にいついているのは、そんな理由があった。そのことに気付いている者はほとんどいない。六年生であっても、気付いているのは本人と仙蔵、そしては組の二人くらいだ。
 気付いている者の一人である兵助は、しれっとした顔で頷くに苦笑し、黙って言い合いを聞いていた伊助を見下ろした。

「伊助、今日はもう終わりだ。帰っていいぞ」
「え、もう終ったんですか?」
「ああ、先輩が全て終らせてくださった」
「全部ですか!?」

 すごい、ときらきらした瞳でを見上げる伊助に、兵助は微笑ましいと笑みを浮かべ、は珍しくも優しい笑みを浮かべ伊助の頭を撫でた。

「そうだ、伊助。聞きたいことがある」
「聞きたい事、ですか?」
「ああ。食堂で働いてる女の人の事だ」
「鈴木愛梨さん、ですか?」
「ああ」

 不思議そうに小さな頭を傾げる伊助を抱き上げて、は兵助に目配せをする。兵助はの意図を寸分違わず受け取り、小さく頷いての傍を離れタカ丸と三郎次の元へと歩いていった。はというと、伊助を抱き上げたまま彼らから一番遠い場所に移動して腰を下ろした。胡坐をかいた上に、伊助を降ろす。

「この前彼女が学園に来たと、俺に教えてくれただろう。彼女の事をどう思ってる?」
「優しい人、だと思いますけど……」

 戸惑ったように、視線を揺らして答える。けれどもその中に戸惑い以外の感情を見つけ、は僅かに目を細めた。

「天女だと信じてはいないし、あまり近づきたいとは思えない、か?」
「どうして分かったんですか?」

 驚愕を隠しもせずに見上げる幼い瞳に、は満足げに笑ってみせた。嬉しそうに頭を撫でるに、やはり伊助は不思議そうに首を傾げる。

「先輩、怒らないんですか?」
「どうして」
「だって、鈴木さんの事を信じてる人の方が多いし、この前きり丸が中在家先輩に……」
「なるほど。伊助、俺はな、あの女が学園や俺に害が無ければそれでいいと思っている。それに天女だなんて信じてもいない。お前やきり丸が取っている行動は忍として至極正しいものだ」

 長次の奴は後で締める、と心の中で誓いながらも、将来有望な後輩が可愛くて仕方ない。後できり丸も褒めてやらねばならない。

「あ、あの、先輩!」
「うん?」
「僕やきり丸だけじゃないんです、は組は皆、鈴木さんにはあまり近づきたくないって。どうしてかは分からないんですけど……」

 懸命に言い募る伊助に、出来うる限り優しい表情で頷いていやる。には、彼らが何故鈴木愛梨という女に近づきたがらないのかが解っていた。彼らは人を見る目が人一倍ある。その彼らが言うのだから彼女は確かに優しい女性なのだろう。けれども、近づきたくないというのは、彼女が学園に齎す悪影響を怖がっているからだ。それを彼らは幼さゆえに気付いてはいないが。

「まったく、優秀だな、お前たちは」
「……あほのは組って呼ばれてますよ」
「実戦に勝る経験は無いさ。いいか、伊助。あまり彼女に関わらないように。それと、彼女の周りにいる奴らを刺激するようなことを言わない事だ。お前たちはまだ一年生で身を守る術をそれほど持っていないのだから、黙っていることで身を守りなさい」
「はい」
「それと、先生方と六年生なら立花仙蔵と食満留三郎と善法寺伊作の三人はまだ正気だ。五年生なら兵助と鉢屋三郎、四年なら平滝夜叉丸と田村三木ヱ門なら確実だな。黙っているのが苦しくなったら、彼らのところに行くように」
「はい、先輩。先輩も聞いてくださいますか?」
「いつでもおいで」

 嬉しそうに頬を染めて見上げてくる伊助に柔らかく笑いかけて、は小さな身体を抱きしめた。


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