4 あの海の向こう側に





 その日神様はとてつもなく暇だった。

「暇ー暇ー暇ー暇ー」
「そんなに暇だったら仕事してください」
「暇ー……地上でも覗いてこよ」
「神様!」

 なれた動作で地上を伺い見るための大きな姿見を取り出した神様の背に、補佐官の怒鳴り声が響く。しかしながらそんなものは日常茶飯事で、補佐官の怒鳴り声にもなれきった神様は補佐官の声をあっさり無視すると次々と地上をまるでテレビでも見るかのように鏡面を変えていく。
 補佐官は頭に怒りの四つ角を浮かべながらも、こうなった神様には何を言っても無駄だということもわかっていたので深々と溜息をついて執務机の上に神様が片付けるべき書類を山のように積み上げ始めた。何のことは無い。ただの嫌がらせだ。この書類の山を見た瞬間に神様が上げるだろう悲鳴を思い浮かべて胸中の怒りを宥めていると、凄まじいほどの爆笑が部屋の空気を劈いた。

「あはははははははははははははははははははははははははっっっ!!!!!!!!!!!!!」
「な、何ですかいきなり!」

 どでかい声とあまりにも愉悦の滲んだ声に、補佐官は思わず積み上げた書類を崩しそうになって慌てて雪崩を食い止め、ずざざざと音を立てて神様から距離を取った。そんな補佐官の態度を意に介しもせず、神様は大声で笑いに笑い続け、やっと笑い修めると余韻を引きずりながらも目に浮んだ涙を拭った。

「いやいやいや、補佐官君、とっても面白いものを見つけてね」
「それは見てれば解ります」
「うんうん。でね、補佐官君、コレを見たまえ」

 神様が指差す先には、一人の少女。淡い色のふわふわした髪に、白い肌、桜色の唇、ぱっちりとした二重の瞳。まるでビスクドールのような美少女だった。補佐官は少しばかりその容姿に感心しながらも、首を傾げた。

「彼女の何処が面白いんですか?」
「それなね」

 ぱちり、と神様は指を弾く。

『ああ、異世界トリップしたい異世界トリップ異世界トリップ! そんでもってイイ男に囲まれて逆ハーレムよ逆ハーレム! こんな美少女なんだから当然よね。やっぱりそうするなら庭球……いやいや笛も捨てがたいわ……でも今はやっぱり忍たまよね、忍たま。ちょっと年齢層は低いけどカッコイイ子も可愛い子もいっぱいだし、空からふわふわーって落ちてきたら天女様とか言われちゃって、キャー! 何時になったら出来るのかしら、異世界トリップ。神様、早く私を異世界に連れてってー!』

 なんだかだいぶとアレな内容の思念に、補佐官は思わず無言になり、神様はもう笑いすぎて声も出ないのか腹を抱えて肩をぷるぷると震わせている。

「何ですか、この至極頭の残念な女は」
「ああ、面白いだろう!」
「……ソウデスネ」

 正直引いています。そう思いながらも棒読みに同意して、補佐官は遠い目をする。確かに神様好みの子だ。残念過ぎて。

「だから笑わせてもらったお礼に彼女の願いを叶えてあげようと思って☆」
「思って☆じゃありませんよ! 何考えてるんですか神様!」
「いかにして面白おかしく過ごすかさ、この私が!」
「胸張って言わんで下さい!」
「レッツ!」
「ああっ、神様!」

 補佐官が止めるのも聞かず、神様は姿見の中に飛び込んでいき、止めきれなかった補佐官は伸ばした腕の行方を失いそのまま数秒固まった後、ずしゃりと床に両手を着いた。




 さて、神様はというと、本気で異世界トリップが出来ると考えている少女の前へと姿を現していた。少女はというといきなり目の前に現れた不審人物に警戒することもなく、逆に目をキラキラと輝かせて神様を見上げた。それに内心爆笑しながらも、神様は余裕たっぷりの微笑を浮かべてみせる。

「やぁ少女、私は……」
「神様でしょ!? やった、私の願いが届いたのねっ!」

 名乗る前にきゃあきゃあとはしゃぎだした少女に、神様はちょっとむっとしつつもやっぱり面白いので内心笑い続けた。

「まぁそんな所さ。向こうの世界に行くには色々と条件があるんだが」
「何でもいいわ、全部飲んであげる、だから私を異世界トリップさせて頂戴!」

 あまりにも話の聞かない少女に神様は半ば唖然としながらも、それはそれで楽しめると新たな娯楽を手に入れた事を満足に思い、こくりと頷いてやった。

「どの世界にどんな条件で行きたいんだい?」
「忍たまの世界にトリップしたいの、天女様設定の逆ハーがいいわ!」

 そう叫んだ瞬間、少女の身体を神様が放った力が包む。そうして消えた少女に、神様は満足げに頷いた。が。

「……アレ」

 少しばかり離れた所に、一人の少女が倒れていた。平均的な身長の、黒髪の、何処にでも居るような少女。だがしかし、彼女はまるでトラックにはねられたかのような無惨な姿だった。おそらく即死だろうその少女の周囲には、先ほど神様が放った力の残滓が満ち満ちている。

「マ、巻キコンジャッタ……?」
「そのようで……」
「ほ、補佐官君」

 硬い声で呟いた神様の声に、神様の一歩後ろに降り立った補佐官が応える。だらだらと冷や汗を流しながら振り返った視線の先には、ぶっとい青筋をくっきりと浮かび上がらせた補佐官が仁王立ちしていた。怒っている、物凄く怒っている。今にも神様を締め上げかねない勢いで。
 これには神様も慌てた。どう言い訳する事もできないくらい、一目でわかるほどに神様の不注意が招いた事である。

「えーっと、補佐官君……」
「神様」
「ひゃいっ」
「後始末はきちんとしましょうね」

 にっこりと笑みを浮かべた補佐官の背後には鬼が仁王立ちしてました。by 神様

「彼女の魂を連れて帰ってばっちりアフターケアします」
「そうしてください」

 ぱちんと、音を立てて元の空間に戻った補佐官を追う。ほんの悪戯のはずだったのに思わぬ結果を招いた事に神様は肩を落とし、あまり遅くなるとそれこそ補佐官が怖いのでのろのろと、けれどもちゃんと空間に戻る為に指を弾いた。



「で、どうなさるおつもりで?」
「うん、記憶もそのままで転生させてあげようと思って」
「まぁ、それが無難でしょうね。でも彼女は喜ばないと思いますよ」
「何で?」
「これを」

 差し出された書類をざっと見る。そこには、神様が巻き込んでしまった少女の個人情報がずらっと並んでいた。要約するとこうだ、趣味は神様が願いをかなえた少女と同じようなものだが、ごく現実主義で、実際にトリップなんかありえない、しても生きているわけがないと思っている本当に普通の少女。確かにこれならば、所謂転生トリップをしても喜びはしないだろう。けれども、巻き込んでしまった少女をこのままにしてしまうのは大変よろしくなかった。

「うーん、できれば平和な世界に送ってあげたいけど……」
「無理ですね、あの頭の残念な子を異世界に送った時の余波で亡くなってしまっていますので、いける世界は彼女を送った世界だけです」
「だよねー」

 とほほ、と掌の上でふわふわと浮んでいる小さな魂を見たまま、神様は肩を落とした。すると、小さな魂の光は神様の周囲をくるくると飛びはじめる。それに、神様と補佐官は目を見開いた。

「……もしかして慰めてくれてるの?」

 神様の声に、魂はふわりと神様が差し出した掌の上に降りる。それがまるで肯定しているようで、神様ではなく補佐官が目を潤ませた。

「神様の失態の所為で亡くなったというのに……!」
「悪かったね!」
「本当ですよ」
「……ゴホン。出来うる限りの加護を付けて送ってあげるよ、君は」
「当然です」
「ちょっと補佐官君、私に冷たくないかい?」
「仕事もせず遊びまわって、結果してはならない失敗をした方はどなたでしたっけ?」
「申し訳ございません」

 おっそろしい笑みを見せる補佐官に、自分が悪いという自覚のある神様は全面降伏する。補佐官は一つ頷くと、どんな加護をやるのかと書類を出しながら神様に問いかけた。

「んー、危ない時代だからね。事故にあって死なない、殺されない、犯されない、拷問にあわない……も入れとこうかな。いや、いっそ不幸な目に合わない、でいいか」
「大雑把ですね」
「いいでしょ、別に。それと、彼女の恋人になった人間とその周囲の人間はあの超絶面白……いやいや、頭の残念な子の逆ハーだっけ? の影響は受けないという事で。あ、そうそう、未亡人になって苦労しないように彼女の旦那さんになる人と彼女の子供にも寿命以外で死なないように加護あげとこ」
「破格ですね」
「私を慰めてくれたお礼だよ」

 神様が出した加護を書類に書き込み、そこに神様が決裁の印をぽんと押す。そして神様は魂に微笑みかけた。

「さ、もうお行き。幸せになるんだよ」
「神様が摘み取ってしまった分までね」
「補佐官君……」

 もう泣いていいかなぁ。
 とげとげしい補佐官の言葉と態度と空気に、神様は深々と溜息を吐きながら、少女の小さな魂をそっと送り出した。



(そんなこんなで、望みもせずにトリップに巻き込まれた少女には破格の加護がついているのです)(それは逆ハーレムを望んだ少女よりもよほど幸せになれる条件で)(だから、巻き込まれた少女の抱く不安は杞憂でしかないのでした)(そんな事、知る由もありませんでしたが)


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