5 あの笑顔の意味は
ああ、やっぱり。
私と会う時間が以前よりも減って、その分彼女の周囲に現れるようになった兵助君を見て抱いたのは、そんな諦観の念を含んだ言葉だった。でも、これでいい加減諦めなきゃいけない。
私はそっと、彼女の近くに居る彼の姿を見なくて済むように目を閉じた。大丈夫。私は大丈夫。だって、付き合ってたのはお試しだったのだもの。本気ではなかったのだもの。悲しくなんて無いの。そう、自己暗示をかけるように。
それでも、いくら逃げ道を用意していても、胸を苛む痛みを誤魔化せはしなかった。私は兵助君が好きなのだ。とても。もう、手遅れなほどに。でも、解っていた。誰も彼もが彼女を愛するように掛けられた神様のおまじないは、ただの人間なんかに解くことなんかできはしないのだ。だから、どう足掻いても無意味でしかない。
「……大好き」
小さく呟いて、無理矢理笑みを浮かべた。貴方が彼女を想うというのならば、私は邪魔なだけ。貴方から別れを切り出されるのは嫌だから、私の方から開放してあげる。
自分を守る為の押し付けがましい思考に、少しだけ嫌気が差した。
「話があるの」
そう言って兵助君を呼び出した。もっと渋るかと思っていたけれど、彼は思いのほかあっさりと私についてきてくれた。もしかしたら、彼も私に話があったのかもしれない。
「」
「兵助君、別れましょう」
彼の言葉を遮って、別れを切り出す。悪いとは思ったけれど、彼の口からさよならなんて聞きたくなかった。目を見開いて絶句しているらしい彼に、もういい加減に慣れてしまった諦観の滲んだ笑みを浮かべて、もう一度さようならと口にする。
そうして、初めて告白された時のように視線を地に落として踵を返した。
「……っ嫌だ!」
一歩踏み出そうとした瞬間、悲痛なほどの叫び声が響いて力強い手が私の手を引いた。背を向けた身体をくるりと返されて、強く抱きしめられる。
「何……?」
「それはこっちの台詞だ、俺はを手放す気は無い!」
「で、も、貴方は彼女……天女様が好きなんでしょう?」
あまりにも必死な声に、今度は私が呆然と彼を見上げる。そうすると、彼は真っ青な顔で顔を引き攣らせていた。
「違う! 俺は彼女の事なんてなんとも思っていない、というか、彼女は俺にとってただの不審者だ!」
「でも、ずっと、彼女の側に……だから私」
「違う、本当に違うんだ、君が俺の事を本当に好きなのか不安で、彼女の周囲にいれば少しは嫉妬してくれるかもって、思って……」
本当に違うんだ、ただの気を引きたくて……。
そう、涙目で必死に言い募る兵助君に、私はただ呆然とするしか出来ない。だって、こんな事態は全く想定していなかった。彼が、彼女に惹かれないなんて、神様の力すら撥ね退けて私の事を好きだと言ってくれるなんて、そんな事。
「ごめん。謝るから、だから、別れるだなんて言わないでくれ。俺は本当に、君が、が好きなんだ」
決して逃がさないと言わんばかりに込められた手の力と、真剣な表情、熱の篭った告白に、ぽろりと涙が零れた。
話があると、そう言ったの顔はとても真剣な顔をしていた。けれどもその顔には予想していたような怒りは見ることが出来なくて、俺は内心首を傾げた。恋人以外の女性の周囲をうろついていれば、当然彼女は怒るものだと思っていたから。
けれども、彼女の口から出たのは別れを突きつける言葉で。一瞬、頭が真っ白になった。こんな事になるなんて、全く予想していなかった。どこか諦観の漂う、寂しげな笑み浮かべてさよならという彼女に、ひくりと咽喉が鳴る。そして、初めて告白したときのように眉尻を下げて視線を落とした彼女は俺に背を向けた。
ぞくりと、寒いものが背筋を這う。ここで彼女を行かせてしまったら、もう共に居る事ができなくなる。何故だかそう、確信する事が出来た。凍りつく咽喉に、力を入れる。
「……っ嫌だ!」
叫んで、の手首を掴んで引き寄せる。そして、簡単に逃げ出せないように、腕の中に閉じ込める。力を入れすぎて苦しいのか、彼女はもがいて、俺の顔を見上げた。憂いを秘めた夜色の瞳が潤んで、ゆらゆらと揺れている。そこに確かに自分の顔が移っていることに、胸が震えた。
「何……?」
「それはこっちの台詞だ、俺はを手放す気は無い!」
「で、も、貴方は彼女……天女様が好きなんでしょう?」
彼女の言葉に、思わず絶句する。ざぁっと、血の気の引く音が聞こえた気がした。違う、違う、違う、そういいたいのに、咽喉が引き攣って声が出ない。顔が引き攣るのが解った。呆然として俺を見上げる彼女に否定の言葉を帰す為に、必死に声を絞り出す。
「違う! 俺は彼女の事なんてなんとも思っていない、というか、彼女は俺にとってただの不審者だ!」
「でも、ずっと、彼女の側に……だから私」
「違う、本当に違うんだ、君が俺の事を本当に好きなのか不安で、彼女の周囲にいれば少しは嫉妬してくれるかもって、思って……本当に違うんだ、ただの気を引きたくて……」
そう、の気を引きたかっただけだ。今思えば、何と言う選択ミスをしたのだろう。ああ、そうか、勘ちゃんが複雑そうな顔をしていたのは、俺の行動が逆効果になるかもしれないことに気付いてたからか。ぎゅっと、彼女を抱きしめて、肩に一度顔を擦りつけた。そして、彼女の顔を覗き込む。
「ごめん。謝るから、だから、別れるだなんて言わないでくれ。俺は本当に、君が、が好きなんだ」
呆けたように俺を見つめていた彼女の目から、ぽろりと、まるで真珠のような涙が転がり落ちた。ぽろぽろと、止めどなく流れていく涙にぎょっとする。
「ど、どうした……そんなに嫌だったのか!?」
おろおろとしながら泣き続けるから離れようとすると、彼女の白く細い手がそっと俺の腕に添えられる。今まで彼女から俺に触れてきた事はなかったために、はっと息を呑んだ。少しばかり下にある頭を見下ろすと、は小さく頭を振っていた。
「……違うの、嬉しくて」
小さな顎が上げられる。
「嬉しくても、涙は出るものなのね」
そう言って泣きながら微笑んだの顔は、今まで見てきたどの表情よりも美しく、柔らかな喜びに晴れ渡っていた。
(「大好き」)(小さな声で囁かれた初めての告白)(喜びのあまり思わず彼女を抱きしめて)(驚く彼女に口付けてしまった)(やっぱり俺は、君が大好きです)
6 あの色は彼にしか作れない
ずっと、怖かったの。
せっかく憂いの晴れた瞳に、再び憂いを宿らせて彼女はそう言った。自分に自信が持てなくて、だから自分を好きだという言葉を信じきる事が怖かった、と。それ以外にも何か理由はありそうだったけれど、俺は何も聞かずにただ彼女を抱きしめた。きっと、時が来れば彼女の方から話してくれるだろうと思ったから。けれど、問いただして、彼女が脅えて自分から離れて行ってしまうかもしれないという思いもあった。俺の愛しい人はとても怖がりだ。けれど、そこがたまらなく可愛らしくみえる。
が心の内を明かしてくれて以来、彼女が微笑みかけてくれる回数や寄り添ってくれる時間は以前とは比べ物にならないくらい増えた。別れ際には名残惜しそうな顔を見せてくれるし、手や頬に触れれば頬を染めてはにかんだ笑みを浮かべてくれる。万事において控え目な彼女であるが、そこがまた守ってやりたいと思うほどに可憐だ。愛しすぎる。
「これはもう結婚するしかないと思うんだ」
「あー、はいはい。そういう事は本人に直接言おうね、兵助」
勘右衛門が若干疲れたような顔をして、小さな子供を宥めるような口調でそう告げる。
「もう言った」
「言ったの!?」
「ああ」
実は彼女が好きだと言ってくれた数日後にはもう求婚していたりする。もちろん自分たちだけで決められる問題ではないから、互いの両親にも手紙を出して、この間の珍しく数日続いた休校日に顔合わせも済ませている。俺は彼女のお父上に一発殴られる覚悟はしていた――あんなに可愛らしいを掻っ攫っていくのだから当たり前だろう――のだが、何故だか諸手を挙げて歓迎されてしまった。後にに聞いたところによると、彼女の控え目すぎる性格を考えて嫁ぎ先については頭を悩ませていたらしい。そこににベタ惚れで家柄も丁度いい俺が現れたものだから渡りに船だったそうだ。
もちろん、俺の両親もの事をいたく気に入り、まだ祝言を挙げてもいないというのに遠まわしではあるが孫はまだかと手紙でせっついてくる始末。確かにとの間にできるだろう子供は可愛らしいだろうが、ニ、三年くらいは二人きりで新婚生活を過ごしたい。期待している両親には悪いが、もうしばらくは辛抱してもらう予定だ。
「……流石に行動が早すぎない?」
「そうか?」
「そうそう」
「そうなのか。でももう結納も済ませたし、祝言の日取りも決まってるぞ」
「いつ!?」
「今度の長期休みの……」
そうそう、確か休み半ばの大安吉日だ。日取りを決める両家の両親の背後には、こんな良縁逃してなるものかという気合がメラメラと燃え盛っていた。その凄まじさたるや、筆舌に尽くしがたい。祝言を挙げる当人であるのは俺とだというのに、何故だかぽつんと二人取り残されたように話に入っていけなかった。だが不満はない。これでは正式に俺のものになるのだ。だからと言って、慢心する気もないが。
そんな事を思って勘右衛門の顔を見ると、しばらく呆然としていた彼は深々と溜息を吐きながら額を押さえた。
「どうした勘ちゃん、頭でも痛いのか?」
「痛いというか何というか……ちょっと、いろいろ驚きすぎて……」
「何に?」
思わず首を傾げると、ぺちりと額を叩かれる。可愛らしい音の割には結構痛く、額を押さえながら勘右衛門を睨みつけた。なんなんだいきなり。
「まったく、この天然……いや、ボケ? まぁいいか。そんなんだからさんに振られるんだよ」
「……振られてない、好きだって言ってもらったぞ」
「でもお試しで付き合うまでは振られ通しで、彼女の周囲に出没した時は本気で縁切られそうになったよね」
「うっ……」
「少しは他人の感情というものに注意しなさい。じゃないと今度は離婚なんて事になりかねないからね」
真面目に念を押す勘右衛門に、別れ話を切り出した時のの顔と、冷たいまでに平静な声を思い出してざっと血の気が引く。あの時も思ったが、冗談じゃない。手放すなんて絶対に嫌だ。彼女とは墓に入っても共に居たいのだから。
勿論の事、勘右衛門の言葉には慌ててかくかくと頷いた。
「解った、注意する」
「……本当かなぁ」
「本当だ」
「言質は取ったからね」
さんを泣かすんじゃないよ。
そう言って凄んでくる勘右衛門は、正直のお父上よりも迫力があり怖かった。さすがい組の学級委員長。って、これは関係ないか。
「当たり前だ。は笑ってる方が可愛い」
「はいはい、ごちそうさま」
勘ちゃんは、苦笑を浮かべた。
(おめでとう、兵助)(ありがとう、勘ちゃん)(祝言を挙げる時は呼んでよ)(もちろん)
7 あの当たり前だった日々を想う
ふわふわと、心が浮き立っている。まるで雲の上に立っているかのような、頼りない感じがする。けれどもまるで幸福な夢を見ているかのようで。
そっと視線を落とすと、白い花嫁衣裳に包まれた手や膝が見えた。
「?」
柔らかな声で名を呼ばれる。ふわふわとした意識のまま顔を上げると、ハレの衣装を身に纏った兵助君が、何か眩しいものでも見るかのように目を細めて私を見つめていた。
「兵助、君」
「うん、どうした?」
「なんだか、夢、みたいで」
「……俺も。幸せすぎて、夢みたいだ」
細められた目が幸福だと語っていた。そっと取られた手は暖かくて、その温もりが心にまで届いたかのように胸が熱くなる。この幸せが確かに現実に起こっているのだと、やっと実感する事が出来て、涙が零れそうになった。
私は一体何を怖がっていたのだろう。確かに、この人に愛されていたというのに。もっと早く彼の思いを受け入れて全てを委ねる事が出来れば、もっと早くこの幸福を得る事ができたのだろうか。そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。でも確かにあの時間があったからこそ、こんなにも幸せを感じる事が出来るのだ。
人は幸せに慣れてしまえばその感覚も麻痺して、貪欲になるばかりだから。この気持ちを、忘れないでいたいと思う。そうして幸せになりたい。怖がりで脅えてばかりいる自分も、しっかりと胸に抱きしめて。
私の手を大きな手がすっぽりと包む。
「俺が守る。絶対に、離さない」
真剣な瞳で、誓ってくれるその言葉が、どれほどわたしを幸せにしてくれているか、貴方は知らないでしょう。
「ええ、離さないでいて」
そう返せる事がどれだけ嬉しいか、貴方は知らないでしょう。
でもそれでいいの。まるで真綿にくるまれたようなこの幸せを、少しだけ私に独占させてちょうだい。そうしたら、いつか貴方にもちゃんと、私はこの瞬間、世界中の誰よりもきっと幸せだったと伝えるから。
(そうして浮かべられた笑みは)(幸福と愛情に満ち溢れ)(まるで、春の木漏れ日のような)(見る人をも幸せにしてくれるような)(そんな笑みだった)
えー、珍しくネガティブな主人公でございました。お相手が久々知なのは最早趣味です。だってコレ別に久々知じゃなくても……がふんげふん。いやいやいや。
この話はネタだけなら最初からあって、でもストーリーの神様が降りてこなかったので設定だけだかだか打って保管していたのですが、お仕事中に神様がふといらっしゃったので書いてみました。しかし思っていた以上に主人公がマイナス思考で参りました。普段はそんなもん蹴散らして欲しいものは絶対手に入れるし手放さない、つおーい主人公ばっかり書いてるんで。毛色が違ったので少々難しい主人公でした。
皆様、最後までお付き合いありあとやんした〜!
彼女の設定は以下に載せておきます。
名前:桐蔭 葉月(とういん はづき) ← デフォルト
学年:くのたま5年
容姿:黒髪黒目。あっさりさっぱり系美人よりの容姿。室町の女性の中では長身でスレンダー。
性格:それなりに内向的で控え目。大概の感情を自分の内側で処理してしまうので冷静に見える。
相手:久々知兵助
備考
下校途中に異世界トリップ天女希望な少女に巻き込まれ、転生トリップした不運な子。天女希望の痛い子を知っている。
久々知の押せ押せで付き合うことになったが、やがて来る天女候補の少女に皆靡いていく事を知っているので、あまり彼に心を傾けないように気をつけている。その所為で、あまり久々知を好いていないように見える。それを久々知が不安がっている事には気付いていない。
自分があまり男受けするような容姿も性格もしていないと認識しており、何故久々知が自分を好いてくれたのかを知らないでいる。故に色の授業は最低限以外取っていない。
太陽の下で鮮やかな色の花を咲かせる大輪の薔薇ではないが、月の下でひっそりと咲く月下美人のような少女。おっそろしいくのたまの中では目立たないが、一人静かで大人びた雰囲気をかもし出している。
兵助が本当に自分にベタぼれだと判明したとは、あれよあれよという間に、久々知家に嫁入りすることが決まっていた。両親は娘の嫁入り先に頭を悩ませていたのでこんな無愛想な子でよければどーぞどーぞと快諾した。そこからはとんとん拍子で、あっという間に祝言まで挙げてしまい学生結婚。物凄い勢いで孫を切望されている。
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