・「あの」から始まる7
1 あの子の事を忘れないで
「忍たまの世界にトリップしたいの、天女様設定の逆ハーがいいわ!」
そう声高に叫んだ少女の声が、今でも耳から離れない。何て夢見がちな、非現実的な言葉だろうと、その内容を理解しながらも思ったのだけれど、気がついたときには私の視界は暗転し全身に息も出来ないほどの激痛が走っていた。
漸く息を吸い込み、悲鳴を上げたと思った途端口から出たのはまるで赤ん坊のような独特な高い声。違う、そうじゃない。確かに私は赤ん坊になっていた。自分の身に一体何が起きたのか解らず、混乱からただ泣き喚くしかできない私に、赤ん坊を腕に抱いた『母親』と横から顔を覗き込んできた『父親』は嬉しそうに笑って元気な子だと呟いていた。
そうして、ようやっと現実をほんの少し受け入れて冷静になれた時に、私はあの声の主に巻き込まれたのだと理解した。だって私はこんな事少しも望んではいなかった。確かに夢小説を読むのは好きだ。トリップだって見ているだけならば面白い。けれど、それに自分が巻き込まれることを考えれば話は別だ。生活の基盤も何も無い所に放り出されて生きていけるかと聞かれたら否だし、平和な世界で、しかも治安が良い日本でぬくぬくと育った人間が殺し合いが周囲で起きているような世界に行って生き抜けるわけが無い。心も身体もぼろぼろになって、やがて死んでしまうのが落ちだ。
戻りたかった、元の世界に。戻れないと知っていた、転生してしまったが為に。巻き込まれただけなのに、巻き込まれただけだから。
元の世界が恋しくて泣いて、元の世界の両親が恋しくて泣いて、元の世界の友人達に会いたくて泣いて、どうして私が巻き込まれなきゃいけないのかと泣いて。諦めようとして、諦めきれなくて。世界を受け入れることも出来なくて。
きっとそんな私の姿は滑稽で、両親にとってはとてつもなく扱いにくく違和感の固まり様な子供だっただろう。でも、両親はそんな私を自分たちの子供だと愛してくれた。そして、同じ年の色んな人と関われば私にもいい影響があるのではと放り込まれた忍術学園で、私はとうとう全てを諦めて、全てを受け入れざるを得なかった。
だから覚悟した。ここは彼女が望んだ世界なのだろう。ならば、友人は作っても、ここで恋は絶対にしない。巻き込まれただけの私には為す術もない。忍術学園で恋をしたとしても、いずれは全て彼女の元へ行ってしまうのだから、と。それに、この時代結婚は家同士の結びつきで個人のものではないのだ。だから恋をしても無駄なのだ。無駄、なのだ。
なのに、好きな人が、出来てしまった。抗う事すらも許されなかった。恋はするものではなくて落ちるものなのだと言ったのは誰だっただろう。
忍たま教室五年い組の久々知兵助。実習で怪我をして動けなくなってしまい、助けてもらった時から、彼を見つければ目で追っている自分に気付いた。そのときの心境をどう言葉で表したらいいのだろう。一番近い言葉なら、きっと、絶望だ。整った容姿にご念の中でも突出した実力。彼女が言っていた忍たまは一年は組の一部と教師の一部しか知らないけれど、彼がメインキャラクター格であろう事は確実だった。彼女が望んだ、彼女へと愛を囁くだろう人の一人。
ああ、何て滑稽な恋なのだろう。絶望的なまでに先が見えてしまっている、絶対に、叶う事の無い恋。だからこそ私は、胸の奥底に芽生え始めたばかりの淡い恋心をそっと仕舞い込んで鍵をかけた。
なのに……。
「す、好きなんだ、付き合って欲しい」
山本シナ先生のおつかいで学園長への託けを頼まれたその帰り、久々知に呼び止められて、そう告げられた。一瞬、何を言われたのかわからなかった。何かの罰ゲームかとも思ったけれど、久々知の表情や赤く染まった顔を見れば疑うのは失礼だろう。そして言葉の意味とそこにこもる感情を理解した後にやってきたのは、泣きたくなるほどの歓喜と恐怖。
きっと、彼の言葉を受け入れることができれば幸せなのだろう。でも、私は知っている。彼女が来てしまえば、彼の心もあっさりと私から離れ彼女の元へと行ってしまう事を。その事が解っていて、彼の気持ちを受け入れられるほど私は強くは無い。それに私はくのたまの中でも目立つ方ではないし、男受けする容姿も性格もしていない。だから、色の授業も最低限しか取っていない。彼の心を惹きつけておけるという自信も無かった。
「……ごめんなさい」
視線を落として、絞り出すような声で断った。唇が震えそうになっていたのは自覚していた。声は、どうだろう。動揺が声に出ていなければいいけれど。
そのまま、久々知の姿を極力視界に入れないようにして踵を返す。背中に、久々知の視線が突き刺さっているような気がした。
「さん、俺は諦めないから」
真剣で、熱の篭った声。想い人が寄せてくれる心が嬉しくて、やがてくる未来が怖くて、大事に大事に仕舞い込んだ恋心が震えた。
(お願い、そんな事言わないで)(私は怖がりだから、恋なんてしないって決めたのよ)(だから貴方も諦めて)(そしたら私は、あの子の事を好きになる貴方を見て傷つかずにすむから)(たとえあの子以外を好きになっても、私は私を詰るだけですむから)
2 あの時、私は私の死を見たのです
あの時の言葉通り、久々知は諦めなかった。顔を見るたびに口説かれて、その度に断って、罪悪感に苛まれて。辛かった。それ以上に、振られ続けている久々知も辛いのかもしれない。どうして、ずっと断られ続けているというのに好きだと言い続けることが出来るのだろう。何故、心が折れずにいられるのだろう。彼は強い人だ。私ならもう、諦めているだろうに。
「付き合ってあげたら。故郷に婚約者が居るって訳でもないんでしょ?」
数少ない上級生のくのたまの友人が、呆れたような表情を浮かべて私を見下ろした。わたしは彼女に、ただ苦笑を浮かべることしか出来ない。
「そう、だけど……」
「あんた別に久々知の事嫌いって訳でもない……ううん、好きなのね、きっと。何を怖がってるのか知らないけど、自分の気持ちに素直になりなさいよ。久々知なら大丈夫よ、あいつは生真面目だから浮気なんてしないだろうし。お試しって事で軽い気持ちで付き合ってあげたら、いい加減久々知が可哀想だわ」
確かにちょっとしつこい気もするけどね。
おどけたように肩をすくめて、悪戯っぽい笑み浮かべた彼女は去っていく。きっと、翳ってしまった私の顔を見て軽く流してくれたのだろう。その友人の心遣いは嬉しい。でも、怖いものは怖いのだ。好きになれば、はまり込んでしまえば、きっと私はその気持ちを手放す事が出来なくなってしまう。だから、心を閉ざして、頑なに断って。それでも、彼は諦めずに私に話しかけて好きだと言ってくれる。
だからだろうか。硬く凝り固まっていた心がほどけて、しまったのは。それとも、遠い記憶の中に薄らと残る、どこかで見たような顔の一年生が入ってきても彼女が来ないから、少しばかり期待を抱いてしまったからか。好きだという彼の言葉に、いまだ消えぬ恐怖と共に頷いてしまったのは。
「ほ、本当に……?」
「試し、でいいなら」
期待と不安を大きな目に浮ばせて確認を取る久々知に、私は目を伏せて小さく頷いた。少しの、逃げ道を残して。そうしなければ、いつか手放さなければならなくなった時、私は耐えられないから。
久々知は滲んでいた不安を消して、珍しくも喜色満面の笑みを浮かべて両腕を私に伸ばして引き寄せた。息苦しいほどきつく抱きしめられて、心臓が跳ねる。久々知の肩に押し付けられた顔が、熱く火照るのが解った。耳は頭巾で隠れているから、赤くなってしまっている事は久々知にはわからないだろう。鼓動が早くなっているのが、ばれなければいい。
それからは少しずつ、二人で居る時間が増えて、休日に町へ降りてデートをする事もあった。幸せ、だった。友人が言ったように、久々知は、兵助君は私を大切にしてくれるし、惜しみなく好きだという言葉もくれる。でも、やっぱり彼女の存在が、声が、私の中に影を落として、常に心は不安に苛まれた。安心して彼に心を傾ける事なんて出来なかった。
そうして、その日はやって来た。
「空から女の人が降って来てる!」
そう言ったのは誰だっただろう。高い声をしていたから、下級生だったかもしれない。けれど、そんなこと私には解らなかった。その時に私を支配していたのは「あぁ、やっぱり」という諦観と、「受け入れなければ良かった」という絶望だった。
トリップを望んだ彼女は可愛らしい人だった。ぱっちりとした二重の目に、白い肌、桜色の唇、ふわふわとした淡い色の髪。私とは正反対な、可愛くて男の子に好かれそうな元気な女の子。逆ハーに、何て願わなくても人から好かれそうな、そんな子。
ふわふわと、落ちていくというよりも緩やかに舞い降りてくるような彼女を見上げながら、私は訪れた幸福の終わりに零れそうになる涙をぐっとこらえた。そして、傍らに立つ兵助君の顔をちらりと見上げる。彼はじっと、空から降りてくる彼女を見つめていた。私の視線にも、気付かずに。
「天女、か……?」
無意識に零されただろう言葉が思いの外熱を持っていたように思えたのは、私の思い込みだろうか。そうであればいい。絶対に彼女に奪われるだろうと思い込んだ故のことだと、いい。
けれど怖がりな私は、淡い期待を抱き続けることも出来ずに、彼女を見つめ続ける彼から目をそむけ視線を落とした。どうしようもなくマイナス思考で、想い人を惹きつけておこうと躍起になることすら出来ない自分を自嘲する。
そして、思いの外痛む胸と慟哭する心に、そっと手を当てた。心の奥底にしまいこんで鍵をかけたはずの恋心は、意外なほどに大きくなってしまっていたらしい。
覚悟していたはずなのに、本当の意味で、覚悟なんてできてはいなかった。
流れてしまいそうな涙に、ぐっと奥歯を噛み締める。そして、何時もの笑みを浮かべて彼を見上げた。
「兵助君」
「ん、どうした、」
「そろそろ長屋に戻るわ、明日提出の課題があるのを忘れていたの」
「……そうか、なら仕方ないな」
「ええ、ごめんなさい」
「いや、じゃぁ、また明日」
「……えぇ」
至極残念そうに眉尻を下げて、名残惜しそうにする兵助君に手を振って、長屋へと向かった。ずっと私の背中を見送っている彼の視線から外れるまではゆっくりと歩いて、彼から見えなくなった所に入れば一気に走り出した。どんな実習よりも本気で、必死に足を動かして。
意識せずとも最短のルートを辿って長屋にある自分の部屋に入った瞬間、身体からは力が抜け落ちて畳の上に座り込み、ぽろぽろと涙が零れた。ひくりと、嗚咽で咽喉が鳴る。
また明日、と言われて、曖昧な返事しか出来なかった。だってきっと、今日と同じような明日なんて来ないのだ。例え来たとして、近い内にほぼ全ての忍たまの意識が彼女へと向けられるだろう。彼の、兵助君の心も。
大声で泣き喚きそうな口に手を当てて、嗚咽を押し殺す。けれどあふれ出る涙をこらえる事が出来なくて、頬と手を濡らした。
「……きよ、兵助君、好き」
千々に引き裂かれるような痛みを感じながら、消して本人には告げられぬ言葉を口にする。想いを返してしまえば、やがて訪れる別れに耐えられなくなるのは解っていたから。それでも溢れてしまう言葉を吐き出して、私はただ泣いた。
もう手遅れなくらいに、彼を好きになってしまっている心を抱えて。
(ありがとう、ごめんなさい、さようなら)(確かに私を愛してくれていた貴方)(これからあの子を愛するであろう貴方)(未練がましく縋りついたりなんかしないから、だから)(もうしばらくは貴方を好きでいることを許してください)
3 あの手この手で懐柔中
彼女、は、まるで月の下でひっそりと咲く花のような人だと思った。くのたまの中に居て目立つことは無いけれど、一人静かで大人びた雰囲気をかもし出す、そんな人。憂いを帯びたその夜色の瞳が、余計にそう思わせた。
思えば一目ぼれだったのだろう。四年の時に彼女のその姿を見た瞬間から、彼女の事を思えば豆腐だって咽喉を通らなかった。いや、ちゃんと食べたけど。以来、彼女の姿を見かければ目で追ってしまって、彼女の声が聞こえればどれだけ騒がしい場所に居ても必死でその声を耳で追った。怪我をして動けなくなってしまった彼女を助ける事が出来た時は、休日を潰しておつかいにやってくれた学園長にそれはもう感謝したものだ。それを勘ちゃんや三郎達に知られた時は盛大にからかわれたけれど、そんな事気にならないくらいに俺は彼女に夢中だった。
彼女に告白するかしないかで迷っていた俺は、友人達に背を押される形で彼女への告白を決心した。言葉だって噛んでしまったし、我ながらガッチガチだったように思う。好きな人に思いを告げるだなんて事は初めてだったし仕方が無い。いや、こればっかりは何度しても慣れないものなのではないだろうか。
極度の緊張と共にした告白に対して帰ってきたのは、困惑したような顔と申し訳無さそうな謝罪の言葉で、振られたのだと認識するのに数秒を要した。けれど、一年以上抱き続けていたへの思いを諦めることなんて出来なくて、去っていこうとする彼女の細い背中に向けて諦めないと、自分に誓うように宣戦布告した。
それからは口説いて告白しては振られ、振られては告白しての繰り返し。流石にこうも立て続けに振られてしまうと凹んでしまって、何度も諦めようとは思ったけれど、遠目にでも彼女の微笑んでいる顔を見てしまえばそんな気持ちも吹っ飛び、是非とも自分にその笑みを向けて欲しいと思った。
そうして、何度目の告白だっただろうか。その目や表情は迷いに揺れてはいたけれど、は控え目に首肯してくれた。彼女曰く「お試しで」との事だったけれど、それでも構わなかった。たとえ試行期間であったとしても、彼女に寄り添う事を認められたのだ。嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。思わず目の前の彼女を力いっぱい抱きしめてしまったほどに。初めて触れた彼女の身体はとても柔らかくていい香がして、高い位置で括られている髪はさらさらとして美しかった。
彼女の心をこちらに向けてみせる自身はあった。俺は誰よりもの事を好きだと、愛していると胸を張って言える。しかしながら、彼女は手ごわかった。共に居る時間が増えて、デートもして、呼び方も苗字から名前に変わって、確実にと俺の間にある壁は取り去られていっていたように思う。けれども取る距離を間違えてしまえば、するりと逃げられてしまいそうな危うさは変わらないまま。下手をすれば、別れを切り出されかねなかった。俺はどんな忍務よりも慎重な行動を取っていたはずだ。
そうして、少しずつ、少しずつ、距離を詰めていたのだが、その日もまたするりと、まるで猫のようなしなやかさで彼女に逃げられてしまった。というか、彼女にかわされる確率が最近――そう、あの日学園に天女が降ってきた日から上がっているような気がする。
「また今日も振られたの、兵助?」
「振られてない。っていうか、振られたって言うな勘ちゃん」
少しばかり凹んで机につっぷしていると、机に向かって明日の予習をしていた勘右衛門に突っ込まれた。振られてない。断じて振られてはいない。まだ恋人としてのお付き合いは続いているのだから。
「でも最近一緒にいる時間が短くなってるような気がするけど」
「……」
「さんも手ごわいね。もしかして兵助、嫌われてるんじゃないの?」
「嫌われてなんかない!」
「まぁ、嫌われてたら今頃はっきりきっぱり別れを切り出されてるよねぇ」
「勘ちゃん!」
「ごめんごめん。いや、押しに負けただけにしては長く続いているなーと思って」
「勘ちゃんの意地悪……」
確かに何度も振られててしつこいかなぁとは思いはしたけど。したけど! それでも諦めることなんて出来なかったのだから仕方が無い。
「……前より」
「うん?」
「告白した時と比べると、多少なりとも好意は向けられてる、と思う」
「うん」
「笑ってくれるようになったし、側にいてくれるようにもなってた、し」
「そうだね」
「あ〜もう、どうしたらこっち向いてくれるんだ」
あまりにも頑なな恋人に、思わず頭を抱えてしまった。そんな俺を見て、勘ちゃんは苦笑を浮かべながら小首を傾げた。
「う〜ん……押して駄目らなら引いてみる、とか」
「引いてみる?」
「いつも側に居る人が急にいなくなったら不安になるでしょ、普通。まぁ、さんの場合はわからないけど」
「……なるほど」
その意見も一利ある、と思った。確かにずっと側にいた人間が急に居なくなれば、不安な気持ちになるし、その人が何をしているかも気になる。ただ、それがに当てはまるかどうかは謎だが。今現在微妙に離れていっているのは彼女の方だし。
しかし試す価値はある、かもしれない。不安は拭えないけれども。
「……天女とか呼ばれてる人の周りでもうろついてみるか」
「彼女の? また、どうして」
「周りを他の忍たまたちが囲ってるし、浮気なんぞするつもりはないが、間違ってもそうはならないだろう」
「確かに、そうだけど……」
丸く目を見開いていた勘右衛門が、複雑そうな顔をして曖昧に頷く。もしかして勘ちゃんも天女とやらが好きなのだろうか。あの女は天女と言われてはいるが、突然学園に降ってきて異世界から来ただとか、自分たちの事を知っているとか言ってる不審人物だぞ。しかも彼女を見た瞬間殆どの忍たまが虜になったのだから、何か妖しい術でも使っているのかもしれない。案外どこかのくのいちだったりしてな。あまりお勧めはしないが。
そう言ってみると、勘ちゃんは「違う」と即答した。だとしたら何を心配しているのだろうか。首を傾げて見せると、勘ちゃんは複雑な表情のまま小さく溜息をついた。
「まぁ、ほどほどにね」
「ああ」
もしかしたら嫉妬してくれるかもしれないし。
少しばかり淡い期待を抱いて、俺はぐっと拳を握り締めた。
(ああもう、兵助ってば思い込んだら一直線なんだから)(やっぱり、逆効果の可能性もあるって言った方が良かったかなぁ)(彼女に振られないといいけど)
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