性的・暴力的表現注意!



● 惹かれていくのは止められない。





 伊作は真っ白な空間に立っていた。もしかしたら、真っ黒な空間なのかもしれなかったが、どちらにしろ、伊作は真っ白であると認識していた。彼は首を一巡りさせてその白い世界を眺めると、おもむろに歩みだした。自分が何処に立ち、何処へと向かっているのかは知らない。けれども、歩んだ先に何があり、誰がいるのかは不思議と確信できていた。
 とことこと、しばらく歩いていると、ぽつりと、赤い点のようなものが見えてくる。それが自身の目指していたものだと気付いていた伊作は、一瞬足を止めつつも、先ほどと同じペースで彼へと近づいていった。

「はじめまして、もう一人の僕」

 目の前にたった彼は、伊作と全く同じ顔をしている。違いと言えば、その装いと表情くらいだ。伊作はなんともいえぬ表情を浮べ忍装束をまとっており、彼は泣き濡れた顔で伊作を睨みつけ、鮮やかな女物の赤い着物を白い単の上に羽織り、髪を下ろしていた。

「……その呼び方、やめてくれる」
「じゃぁ、なんて呼べばいいんだい? 僕は君の名前を知らない」
「知りたくなかったから、意識的に覚えなかったの間違いじゃないの?」

 真摯に尋ねる伊作に、癒羅は皮肉な笑みを浮かべて吐き捨てるようにそう言った。苛立ちが透けて見えるその言葉に、伊作は視線を僅かに落とす。

「……そうかもしれないね」

 静かに肯定を返すと、彼は小さく舌打ちをして大きく息をついた。

「癒羅だよ。あの人は私をそう呼んだ」
「癒羅……」
「そう。あの人に求められて生まれた私が、あの人から与えられた命(名前)だ」

 あの人。まるでそれが宝物でもあるかのように、大切に大切に呼ばれる言葉。それが誰を指しているのか、少し前の伊作ならば知らなかっただろう。だが今の伊作は、それが誰であるのか知っている。知っているからこそ、伊作はもう一人の自分である癒羅とこうして向かい合い、言葉を交わすことが出来ているのだ。

「ここでこうしていられるって事は、思い出したんだね。全部?」
「多分。君と入れ替わっていた時の記憶は、それほどはっきりしていないけれど」
「そう……」

 癒羅が目を細める。僅かに赤く染まった眦には、自分だけの確固たる記憶を占有していると言う安堵と、喜びが滲んでいた。そんな彼にかけるべき言葉を持っていない伊作は、ただ静かに癒羅を見つめていた。それでも、まじまじと見つめている事も出来ず目を伏せる。

「ねぇ、癒羅」
「何……?」
「僕はどうしたらいいんだろう」

 小さく、弱々しい声がそう尋ねる。伊作へと視線と意識を戻した癒羅は、その問いに表情を引き締めた。薄い色の瞳は、嫉妬に揺れている。

「……それを私に聞くのか?」

 癒羅の望みを知っていてなおそう口にするのかと、苛立ちにかすれ棘を持った声が非難するように伊作へと向けられた。向けられた強い視線と、自分ではけして持ち得ないだろう表情と声に若干ひるみながら、伊作は首を縦に振って見せた。
 その様子に癒羅は面白く無さそうにふんと鼻を鳴らし、体ごと僅かに斜めを向く。そのまま沈黙を保ち、話の続きを促しているかのような癒羅に、伊作はふよふよと視線を揺らしながらも口を開いた。

「僕は全てを思い出した。ヤエザキの城に潜入して、……あの、人に捕まって」

 ふるりと、身体に刻まれた快楽を思い出して身を震わせる。

「あれは暴力以外の何者でもなかった。感情なんてあるはずもなくて、ただの、暇つぶしで」

 苦しそう震えた声に、ついと、癒羅の目が細められる。

「怖くて、憎くて、嫌で嫌で仕方がなくて……。それでも、憎みきる事も嫌いになりきる事もできなかった……ううん、今も、できていない」

 だって覚えている。知っている。あの人が、の心が、魂が完治させる事も不可能なほどに傷つき歪んでしまっている事を。だからと言って彼が伊作にした事が許せるわけでもなかったけれど、負の感情だけを抱えている事などできるはずもなかった。そうあるには、伊作はあまりにもの傷に触れすぎていた。

「君みたいにあの人を慕っているわけじゃない。むしろ、好きになる要素は殆どない。でも、あの人を想うと、どうしてだか胸が痛いんだ」
「……それが答だろう」

 その胸の痛みの正体が何なのか、癒羅は知っている。だから、不思議そうに首を傾げる伊作にただひたすら苛立ちを覚えた。こんなのが本体で、さらに愛しい人の全てを渡さなければならないだなんて、不本意極まりなかった。けれどもそれがの為であり、彼を守ろうと奔走する人々の願いでもある。
 癒羅は波立つ嫉妬と苛立ちを押し殺し、疑問符を飛ばしている伊作に向かって手を差し出した。

「癒羅?」
「手を出して」
「う、うん」

 素直に差し出してきた手を握って、癒羅は一度きつく瞑目した。目蓋の裏に、愛した人の、穏やかな花の蕾が綻ぶような笑みを描く。あの、美しい笑みを、ずっと浮かべていられるようになるのならば、自分が消える事など些細な事だ。そう思えるほどに、癒羅はを愛している。たとえが、癒羅と同じ気持ちでなかったとしても、そんな事は関係なかった。

「私は君の中に還るよ」
「え……?」
「元々私は仮初の存在だ。それに、それがあの人たちの願いでもある」
「それ、どういう……!?」
「私の記憶も、心も、君の中に溶けて君のものになる。君は私になって、私は君になる」

 情報が処理しきれず、目を白黒させる伊作の手を痛いほどに握り締めて、癒羅は口角に苦笑を刻んだ。

「だから、どうか」

――様を……!

「癒羅!」

 ぱちりと瞬き、涙のたまった瞳からぽろりとその雫を流すと、癒羅は伊作の静止の言葉すら満足に聞かぬまま、白い空間にはじけて消えたその涙のように光となりはじけて消えた。同時に、伊作の中に流れ込んでくるモノに腹の奥からのどの隙間すらも埋め尽くされたような息苦しさを覚え、声なき絶叫を上げた。





 ぱちりと、目を見開く。
 あまりにも唐突に目覚めた目はしっかりと機能することはせず、焦点もふらふらと合わないままでじっと天井を見つめていた。心臓は五月蝿いほどに高鳴り、まるで耳元で脈打っているかのように感じる。呼吸も整わず、吸うのも吐くのも少しばかりの気力が必要だった。
 胸が痛い。
 けれどもやっぱりその正体はわからなくて、ただただ涙が流れた。
 思い出した記憶の所為だろうか。夢の中であったもう一人自分が、癒羅が泣いていた所為だろうか。それとも、彼が痛いほどにを想っていた所為だろうか、その感情に、自分が引きずられたからだろうか。それとも、それとも。
 色々な仮説が頭を掠める。けれども、そのどれもが正解で、どれもが不正解であるような気がした。
 自分の心が、わからなかった。



(狭い部屋の中に嗚咽が響く)(間にある衝立でも、それを阻む事は出来なくて)(自分が手を出していいことではないと見切りをつけた男は)(ただ目を閉じ、その声をまんじりともせず聞いていた)







































































































































































● きっとそこにあるのは繰り返す恐怖。





 解らない事だらけだ、自分のことだというのに。
 人格を癒羅と融合を果たし、多少の混乱はあったものの、記憶と心情以外にたいした変化も無く、伊作は日々を過ごしていた。けれども、その記憶と心情が齎してくるものが厄介な事に伊作を苛んでいた。
 と言う人間に対する自分の心がわからないのだ。伊作は彼に捕えられ、半ば監禁されていいように弄ばれていたためにいい感情は抱いていない。けれども、けして悪い感情ばかりとも言えず、複雑な想いを抱いていた。癒羅と融合する前ですらそうだと言うのに、彼の記憶や心を引き継いだ事で余計にに対する想いはその複雑さを増していた。
 怖くて憎いから殺したい。その存在を消してしまいたい。哀しくて愛しいから傍にいたい。笑っていて欲しい。以前から抱いていた相反する感情が、その色を色濃く変えて同量に心の中に存在している。その矛盾する想いは、ふと気付けば伊作を振り回し、まるで入り組んだ迷路に放り込まれたかのような気分にさせていた。
 伊作は時折襲ってくるその嵐のような感情に為す術もなく、途方にくれて立ち尽くす事しかできない。事情を全て知っている三郎に相談しようと思ったこともあったが、癒羅が口にした「あの人たち」のうちの一人であることが深く考えずとも解る為に、その考えが浮んだ次の瞬間には却下していた。夢と言う形を取った過去の記憶を見ることも無くなり、魘されることもなくなった代わりに溜息が増える。
 その溜息を増えたタイミングと言うのが、夜中に泣いていた直後と言うこともあり、留三郎は気にかかって仕方がなかった。悩み事は大抵持ち込んでくる伊作が一人で悶々と悩み続けている為に、その内容が自分が首を突っ込んではいけない、もしくはどうにもならない類のものであることは察することが出来たが。
 その日も、用具の修理をしていた留三郎は、衝立の向こうで薬を煎じている伊作の手が時折止まり、数秒した後にじたばたして最後には深々と溜息をつく様子を数回気配で追った後、自信も深々と溜息をついて立ち上がり、衝立越しに伊作を見下ろした。

「伊作」
「ん、あ、何、留三郎?」

 のろのろと動かしていた手を止めて、留三郎を仰ぎ見る伊作の表情には若干の疲労が滲み出ていた。目の下にはうっすらとくまが出来ており、それにいけ好かないい組の会計委員を思わず思い出してしまい腹が立ちそうになって、内心慌てて小さく頭を振ってその面影を追い出す。そして改めて伊作を見ると、その疲労は肉体的なものではなく精神的なものから来るのだろうと、少しばかり血色の悪い顔色にそう思った。

「お前、この前から一体何に悩んでるんだ?」
「な、悩んでるって、どうしてだい?」

 図星を指されて誤魔化そうとしているのだろうが、伊作の視線はふよふよと泳いで定まらず、どもっている台詞からも悩み事を抱え込んでいる事ははっきりと解る。それを若干寂しく感じながらも、追及の手は緩める事無く言葉を続ける。

「最近あまり良く眠れてねぇだろう。目の下には少しくまができてるし、溜息が増えた。何より挙動不審なんだよお前。ぼんやりしてたかと思うと一人で暴れだして、少ししたら溜息ついての繰り返し。誰でもなんかあったと気付くだろうが」
「そ、そっか……」

 自分がとっていたその行動は無意識だったのだろう。今気付いたと言わんばかりに目を瞬かせ納得する姿に、留三郎はやれやれと言わんばかりに息をついて見せた。

「で?」
「え?」
「何に悩んでるんだ。言いたくないなら無理には聞かんが、言いたいことがあるなら聞いてやる」
「う……」

 衝立に肘をつき、顎を支える恰好で見下ろしてくる留三郎に、伊作は小さく呻いて視線を彷徨わせた。正直その申し出はありがたい。けれども、あの実習期間にあったことは口外したくないし、何よりも自分自身の感情ゆえに一人で決着をつけたほうが良い、いや、つけなければならない問題であるために、伊作は口を何度も開閉させて、結局は口をつぐんだ。
 それでも、じっと見つめてくる留三郎の視線に半ば吐けと迫られているかのような圧迫感を感じ、そろそろと口を開いた。

「ちょっと、自分で自分がわからなくて」
「わからない? それは自分の行動が、って事か?」
「そう見えるほど挙動不審だったわけ、僕」
「おう」

 すっぱりと言い切られ、そういう所は悠一郎さんとそっくりだと思い、思考がヤエザキに流れたことに気付いてまただと少し項垂れながらもふるふると肩を震わせた。俯いた頭には留三郎の胡乱な視線が突き刺さる。

「で、自分の何がわからないって?」
「……気持ちが」

 端的な言葉に、留三郎はくいっと眉を跳ね上げた。

「すっごく、気になってる人がいて。でも、その人に対して、どんな感情を抱いているのかがはっきりしなくて」
「……恋愛感情を抱いているかどうかって事か?」
「う〜ん……そうじゃなくて、好きか嫌いかも解らないって言うか、好きだけど嫌いって言うか、怖いって言うか……うー……」

 本格的に頭を抱え込んでしまった伊作に、かなり矛盾して複雑な心境であることだけはわかって、留三郎はなんとも言えない表情を浮かべた。これは本当にどうしようもない。話すだけでも楽になったり、話しているうちに心の整理がついたりすることもままあるが、これはどうにもそういう類ではなさそうだ。留三郎の手には余る。

「……この学園のヤツか?」

 ふるふると、伊作の首が横に振られる。

「……三郎の実家で会った人か?」

 今度は反応がない。それは無言の肯定だ。
 完全に薬草を煎じる手を止めて膝を抱え込み丸まってしまった背中に、留三郎はがりがりと頭を掻いて溜息をついた。

「なら、今度の長期の休み、進級試験の後にでも会ってきたらどうだ」
「……会う?」
「直接会って、話でもしたらはっきりするんじゃねーか?」
「そ、かな……?」
「今のままは嫌なんだろう」
「うん」

 進展するにしても後退するにしても、今のまま悶々と悩んでいるよりはいいかもしれない。

「うん」

 もう一度頷いて顔を上げた伊作の目には、決意の光が宿っていた。





 ついに最終決戦だ。
 長屋にまで来て三郎を呼び出し、ヤエザキに連れて行ってに会わせてほしいと言う伊作に、三郎はそう思う。必死に、真摯な光を目に浮かべて返事を待っている伊作を前にして、三郎は緊張で手に汗を握っていた。今までになく長い、長い日々だった。それも後少しで終る。彼を、兄にあわせれば、それで。その結果が良いものか悪いものかはまだ解らないが、いずれにせよ終わりは訪れるのである。できれば、伊作には兄を受け入れてもらいたい。そうでなければ、待っているのはきっと兄の死だ。伊作の記憶を最後に弄った際、兄は殺されても良いと言ったらしい。そう口にした以上、兄は向けられた刃を避ける事はないだろう。それは、とても恐ろしい事だった。
 握った拳に、力を入れる。

「わかりました」
「……いいのかい?」
「もとより私達は、貴方がそう仰るのを待っていましたから」
「そっか……」

 ほっとしたのか脱力したのか、肩に入れていた力が抜けたらしい伊作に、握っていた拳に力を入れる。唯一つ、連れて行く前に確認したいことがあった。何も聞かずに連れて来いとは言われていたけれど、どうしても。

「伊作先輩、一つ言っておきたいことがあります」
「なんだい?」

 無防備に首を傾げる伊作に、一つ深呼吸をして。

「兄様に刃を向けるつもりなら、私が今ここで貴方を殺します」

 僅かな殺気を込めて、冗談の欠片も混ぜずに、三郎は伊作の薄い色の瞳を見据える。梔子色の瞳と薄い色の瞳がしばし真剣に向き合うと、薄い色の瞳は少しばかり翳りそっと伏せられた。

「そんなつもりはないよ。でも、正直、わからない」
「何が、ですか」
「自分の気持ちが。あの人に対する感情は、複雑すぎて……自分でも把握できないんだ。あの人にされたことは許せないと思う。でも、あの人を想うと、胸が痛くなる」

 あの人、と兄の事を呼ぶ伊作の声があまりにも複雑で、その言葉に嘘がないことが良く解った。

「あの人に会うと思うと、少し怖い。でも、僕は、あの人に抱いている感情がなんなのか、それをはっきりさせたいんだ」

 上げられた目には、真摯な色。だから連れて行って欲しいと、もう一度紡がれた言葉に、三郎は今度こそ首を縦に振った。



(貴方は兄を受け入れてくれますか)(貴方は兄を癒してくれますか)(貴方は兄を支えてくれますか)(そんな言葉を、喉の奥でぐっと殺して)(ただただ、兄がもう一度壊れてしまわないことを祈った)








































































































































































● まず前進してから話をしよう。






 進級試験も無事に合格し、三郎と共にヤエザキに向かった伊作が、城が抱える忍者隊の長屋に着いたのは夜も大分更けてからだった。丸々と太った月が、空の高い所に堂々と座している。しばらくじっと皓々と輝く白い月を見上げて、伊作を待っている三郎へと視線を下ろした。

「この先に、兄様がいます。手は回してありますから、真っ直ぐ向かってください」

 闇の中、白く浮んだ指先で指す先は、灯りもなく闇に覆われている。けれども恐れる事無く、伊作はこくりと首を縦に振り、促されるままにそちらへと足をすすめる。
 その背中が見えなくなるまで身じろぎ一つせず見送った三郎は、ふっと息を吐いて首と顔の境目に指をかけ、変装をといた。指よりもよほど白い頬は緊張のあまり少しばかり青ざめ、梔子色の瞳は不安に翳っていた。艶やかな光を放つ亜麻色の髪も、今日は色あせているかのようだった。三郎は、今はもう闇ばかりがあるその先を見つめる。

「……どうなると思いますか?」
「さてな」

 音もなく背後に現れた悠一郎に慌てることもなく問いかけると、こともなげに肩をすくめて見せられて、三郎はいささかムッとする。けれども、組まれた腕の、二の腕を掴んでいる指が白くなるほどに力が入っているのに気付くと、その思いもどこかへ吹っ飛んでいってしまった。不安で仕方がないのだ、お互いに。特に悠一郎は、がこの国に連れて来られたその時からずっと共にいる。に対する思い入れは人一倍だろう。
 その思いは負けていないつもりだけど、と誰に言うでもなく胸の中で呟いて、三郎は人払いしたの離れがある方を、ただただじっと見つめていた。





 体が震える。この先には行きたくないと、全身が訴えている。
 その事に気付きながらも、伊作は必死に足を動かしていた。伊作は知らなかったが、癒羅の記憶の通りならば、今向かっている先にあるのはきっと伊作が囚われていたの離れだ。だからだろうか。全身が、その場所に行くことを拒否している。本能が、逃げてしまいたいと叫んでいる。けれどもそれではダメなのだ。に会わなければならない。会って、はっきりさせなければならない。自分が、に対して抱いている感情がなんなのかを。この、胸の痛みがなんなのかを。
 わきあがってくる恐怖に冷や汗を掻きながらも、伊作は本能に逆らって前へ前へと進む。そう、進まなければならないのだ。一歩でも、前に。
 そうして、己を奮い立たせながら歩を進めていると、急に視界が開けた。皓々とした月に照らされたそこは小さな庭。そしてそこに佇むのは、単の上に、あの日と同じ緋色の着物を羽織った、美しい人。顎を逸らし、じっと月を見上げるその顔には心なしか憂いが漂う。僅かに空虚が埋まった深淵の瞳には月が映りこみ、涙で潤んでいるのかゆらゆらと揺れているように見えた。あの日と、同じように。
 どきりと、心臓が跳ねる。汗が冷たい夜風に冷えてか、恐怖にか、身体が震えた。

――

 僅かに唇が動き、吐息が漏れた。この人を前にすると恐ろしい。その瞳に映ると思うと、逃げ出したくなる。けれども、足はまるで根が生えたかのように動かず、伊作をその場に留まらせていた。





 随分と遠くまで来たような気がする。古い古い、とても古い、いつだったかも思い出せないような記憶にある月と、今見上げている月を脳内で比べて、はそんな事を思った。
 ここではない、どこかにいたはずなのだ。もっと平和で、戦争なんてなくて、血なんて怪我をしたときに少し見るくらいで。町ももっとごみごみしていて、人と人の関係も稀薄な、そんな世界にいたはずなのだ。名前も、なんていう名前ではなかった。なのに、瞬いたその瞬間に、そんな世界から隔離された。その事を、癒羅を手放してから少しずつ少しずつ思い出していた。
 ここはにとって全く知らない異世界だ。今はもう、大切なものがたくさん出来てしまったの世界だ。嬉しいのか、哀しいのか、解らなかった。どんなに酷い目にあっても死にたくない一心で泥水を啜って必死に生き延びてきた世界が、嫌いなわけではない。複雑だと思う。それでも、元いた世界に帰りたいとは思わなかった。
 帰っても、あの世界はもうが愛していた世界とは違うのだ。あの世界には、の『世界』であった人が一人も存在しない。あの人たちがいない世界は『世界』ではないのだ。そんなところに帰るくらいだったら、血に塗れてこの世界で文字通り命をかけて大切だと認識したものを守っているほうが数倍もマシだった。
 けれども、それも揺らいでいる。が必死で詠野たろうとしても、周囲から少しずつ崩れていっているような気がしていた。それではいけない。国を守ることなど出来ない。自分が揺らげば、国の屋台骨さえも揺らいでしまう。今や自分がこの国を支える柱の一部であることを、はしっかりと自覚していた。その自分が、今は悠一郎に縋り、支えられることでようやっと立っている。ダメだと思う。けれども、一人で立つには、自覚したものは重すぎた。
 疲れた、と胸中で一人ごちる。身体は健康でも、精神はボロボロだ。
 ふと、細く長く息をつく。そして一度ゆっくりと瞬き、気配を隠すこともなく近づいてきた少しばかり懐かしい人を振り返った。
 逃げ出したがる恐怖と、ここに居なければという強い意志を宿して揺れる、薄い色の瞳。身の内に混乱する感情を抱えながらもぐっと唇を引き結び、気丈にもまっすぐとを見つめるその姿に、は柔らかく口元に笑みをはいた。

「思ってたより早かったね。悠一郎達が何かしたかな」

 予想以上に早くの目の前に立った少年に、暗示の際に手を入れただろう数人を思い浮かべる。彼らはの言うことは聞いてくれるが、中々思ったとおりに動いてはくれないのだ。けれども、それもまたにとっては楽しい事だった。そのおかげで今回も、予想外の出来事が起きている。今、目の前で。

「全部、思い出しました。貴方にされた事も、自分がしたことも、もう一人の自分の事も」
「みたいだね。だから君はここにいる」
「はい」
「それで、君はどうしたいの?」

 じっと、を見つめるその視線。ゆらゆらと揺れるその瞳を一度ぐっとつむり、もう一度開いたその目には、とても強い光が宿っていた。地を蹴り、勢いよく飛び掛ってくるのを受身を取りながらも一切の抵抗をせずに受け入れて、は地面に押し倒される。
 の鍛えられた、けれども薄い腹の上に伊作がまたがり、無言で取り出されたクナイが振り上げられる。月明かりに鈍く輝く刃が迫ってくるというのに、は焦るでもなく、ただにこりと笑んでみせた。
 


)(兄様)(組頭)(様)(どうか、生きて)(ただ一人に対する祈りが、密やかに夜に満ちる)


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