性的・暴力的表現注意!



● 心に残ったモノはとても大きくて。





 コレは、ナンだろう。
 知らない映像が、声が、そこにはあった。拗ねたように唇を尖らせる顔。ふにゃりと気の抜けたように笑う顔。小さな子供のように、眉尻を下げて抱きついてくる、強くて脆い体。そして、穏やかな、穏やかな、綺麗な、顔。
 その人のことは知っている。でも、そんな顔、知らない。

――   様

 そんな風に、その人の名前を呼んだことなんて、ない。そんな、慈しみと愛しさを込めた、柔らかな声で。

『  』

 知らない、知らない、知らない。そんな名前、知らない。その、名前で、呼ばないで。そんな優しい声で、呼ばないで。そんなの、僕に、向けてくれたことなんてなかったくせに。貴方が最初に手を伸ばしたのは僕のはずなのに。
 僕の、はずなのに……。






「邪魔だよ、邪魔邪魔邪魔邪魔!」

 鬱陶しそうに柳眉を寄せ、まるで汚いものでも見るかのように相対するモノを睨め付けて、は指の間に挟んだ手裏剣を無造作に投げつけた。コントロールなどまるで出来ていないように跳んでくるそれに、忍は伝説と言えどこんなものかと鼻で笑う。けれども、一瞬の後にそれが確実に自らの急所を的に飛んでくる事を知り、忍は慌てて身を引こうとした。それをあざ笑うかように、衝撃が胸の中央を突き抜け、次いで急所へと手裏剣が突き刺さる。事切れる寸前に忍が己の胸を見下ろすと、ずるりと、背後からつきぬけた刃が抜かれていく所だった。
 忍刀を侵入してきた忍の体から抜き去ると同時に、血と一緒に地面へと放り出す。どさりと思い音を立てて地面へと転がった死体を道端に転がる石を見るような目で見て、血と油に塗れて切れにくくなった忍刀を死体が纏っている装束で拭った。研がなければ使い物にならないが、今の所はこれで充分だ。不満ではあるけれども。
 その後も敵という敵を情け容赦なく切り伏せ、ぐっしょりと返り血で濡れ重くなった装束を不快に感じて、は不機嫌も露に踵を返す。城の近くに侵入してきた忍はコレで最後のはず。死体の処理は、と入れ違いに向かって行った部下たちがどうにかするだろう。頭から滴る雫を、同じくぐっしょりと濡れてしまっているために役には立たない袖で拭って、地面へと剥けていた視線をふいと上げた。視線の先には、呆れたように目を細める悠一郎。
 その顔が妙に鼻について、は鞘に収めることなく抜き身のまま持っていた忍刀を投げつけた。寸分違わず眉間に向けて凄まじいスピードで投射された刀は、けれどもひょいっと首を傾げただけで避けられてしまう。それでさらにムッとしたが、先ほどのでクナイ以外は武器を使い切ってしまい、もう投げるものなどない。最終的に身を守るために残してある暗器たるクナイは使うことが出来ず、はますますへそを曲げ僅かな殺気を悠一郎へと向けた。

「またお前は、頭っから引っ被って……」

 本気のほの字すら出していない殺気をいなしつつ、悠一郎は深々と溜息をつく。最近はきちんと返り血も避けるようになっていたので、頭からずぶぬれになるほどに血を被ってしまうのは本当に久しぶりだ。若干【蕾】に所属する子供の気配がゆれるのを意図的に無視しながら、懐から出した手ぬぐいをの頭にかぶせ、わしわしと拭う。すぐに血が染みて赤くなった手ぬぐいに、これは廃棄決定だなと胸中で呟いて、殺気を収めたものの脹れたままのの頭をぽんと撫でた。

「帰ったら井戸で洗い流してから風呂だ」
「ん……」

 視線を合わさないまでも、はこくりと頷く。悠一郎はそれに頷き返し、控えている忍や見習いたちに撤収の合図を出した。気配が戸惑いながらも城のほうへと向かって流れ出すのを感じながら、悠一郎はの細い――ここ最近でまた少し細くなってしまったような気がする――手首を柔らかく掴み、手を引いて歩き出そうとした。けれども、はその場から動こうとはせず、悠一郎の手が少しばかりの抵抗を感じた時点で、彼は足を止めて振り返った。
 深い深淵の瞳が、ぼんやりと悠一郎を見上げている。

?」
「だっこ」
「……今の状態のお前を抱き上げたら、確実に俺の衣装もダメになるんだが」
「だっこ」

 どこかつたない口調で繰り返される単語に、悠一郎は複雑な表情を浮かべると、乱暴に頭を掻き深々とため息をついた。そして、了承の言葉を発する代わりに、太腿に片腕を巻きつけ、縦に抱き上げた。腕にかかるその重みに、また深く溜息をつく。相も変わらず、はあまりにも軽かった。そして、バランスを取る為に頭にしがみついてくるに、血が張り付いて気持ち悪いだとか血の臭いが強すぎて鼻が馬鹿になっているだとか、そんな諸々の苦情を呑み込んで、もう一度、今度は長々とした息を至極大儀そうに吐き出した。どうにもこうにも、伊作を手放したときから不安定だ。




 ようやっと眠った。
 身体を胎児のように丸めて眠るを見下ろして、悠一郎は一日の仕事が終了した事を実感しながら、己の着物の裾を握ったままのの手を離しにかかる。肉のついていない細い指を、傷つけないように、あまり深くはない眠りから目覚めさせないように注意をして。そして、障子の向こうに僅かな気配を漂わせながら立っている男の影へと視線をやった。

(どうした、弥次郎)
(家老がお呼びだよ、小頭。おそらくは様の事で)
(……わかった)

 矢羽音で、短く了承を返す。ゆるりとした動作で部屋から去っていく弥次郎を見送りながら、小さく嘆息を落として、の髪を指先で軽く梳き、立ち上がった。
 が不安定であるだけで、いろいろなところで波紋が起きている。ヤエザキ一の実力者である事実は変わらず、絶対的な強者である事は――多少ムラがあることはあるが、それはいつもの事だ――不動である為に、それは水面下で起こっているかすかな変化ではある。けれども、時間が経つにつれ、その波紋が表に出てきてしまうだろう事は明白だった。
 は国の柱の一つ。それが揺らげば、彼に多大な影響を受けている国の中枢の人間すらも揺らいで、やがては国すらも揺らいでしまう。それは国の弱体化、延いては滅亡を意味する。
 それはいけない、と悠一郎は思う。伊作と、癒羅と触れ合う事で、は何かを大切に思い、それを守りたいという感情を取り戻した。だからこそ、守るための手段としてであるために、人の心を取り戻すきっかけになった少年を、その心ごと切り捨ててしまった。いや、切り捨てた事にして見ないフリをしているのだろうか。
 の心はあまりにも優しすぎて、柔らかすぎて、他者の命を奪うという行為に耐えることが出来なくて、一度で徹底的に壊れてしまった。そしてそれも、自己防衛の為の手段の一つだったのだろう。忍であることの、自己防衛手段。忍なんてものをしていれば、癒されてもとの通りに戻れば、もう一度壊れるしかないのだ。それを知っていて、ただ癒されるのを受け入れるわけには行かないだろうとは、悠一郎も思うことだ。だからは、ある程度傷が癒えてしまったところで危険を感じ、伊作の全てを拒絶した。もっとも、伊作を陵辱した事に対しては全く反省の色がないので、全くもとの通りに癒されようとしたわけではないだろうが。

「家老、お呼びと伺いましたが」
「ああ、小頭。入ってくれ」
「失礼致します」

 頭を下げ、指されるままに家老の向かいに腰を下ろす。灯台の火に、悠一郎よりも幾分か年を重ねた、けれども家老の中では随分と年若い顔が照らし出されていた。彼の精悍な顔は、少しばかり疲れたような色を滲ませており、眉間には皺がよっている。の不調はこんな所にまで波及している。良くない傾向だと、悠一郎は胸中で一人ごちた。

「……小頭、組頭の様子はどうだ?」
「は、少しばかり不安定かと」
「そうか……それでは、若様には会わせられぬな。とても心配しておられる」
「やはり、気付いておられましたか」
「あぁ。若様は芙蓉の方様に似て聡明であらせられる」

 家老の目が、今は亡き人を思ってか幼い城主を思ってか、柔らかく細められる。その面差しは、少しばかり芙蓉の方、と呼ばれた女性に似ていた。そういえば、この家老は亡き夫人の従兄弟だか甥だかという、親戚筋の人間だったはずだ。だからこそ若い時分から家老の席に座ることが出来、その実力で今なお国を支える事の出来る地位にある。芙蓉の方との仲も良かった。若君に対する思い入れも一入なのだろう。
 
「そうでなくとも、この問題を放置しておけば、いずれは国の存続にも関わりかねん。何か、良い手があればいいのだが……」
「それにつきましては、既に手は打っております」

 悠一郎の言葉に、家老の目が見開かれる。無言で続きを促す家老に、悠一郎は真摯な目を向けて、低い声で言葉を紡いだ。

「長くて半年もかかりますまい。少しお持ちいただければ、組頭はより強くヤエザキを守る刃となり盾となりましょう」
「……上手く行けば、であろう。上手く行かなければ、訪れるのは殿の死、か」
「そうはさせませぬ。成功させます。必ず」

 強い強い、言葉と目だった。何を引き換えにしようとも、その言葉を違えることはないと、無条件に信じることが出来るほどに。それは覚悟だ。何よりも守らなければならないものを持つ男の。
 家老はそのあまりにも静かな苛烈さに少しばかり気圧されながらも、しっかりと首を縦に振ってみせた。自らもまた、水面下で起こる流動をどうにかしてみせるという、覚悟をのせて。



(べったりとくっついてくる)(それを甘やかすのは何時ものこと)(けれども、傷つきすぎた魂はどうすることも出来なくて)(歯がゆい思いをしていた所に差し込んだ、一条の光明)(けして、逃がしてなるものか)(誰が苦しもうが泣こうが)(それがあの傷ついた魂を癒すと言うのならば)(どんなことでも、してやる)













































































































































● 切れた糸を結びたくなる瞬間。





 ふと、驚くほどの唐突さで目を覚ましてみれば、あたりはまだ暗く、障子の外には大分と傾いてはいるが、月が空を支配していた。皓々と輝く月は細く、あと数日もすれば朔の夜が訪れるに違いない。
 寝転んだままぼんやりと障子の隙間から覗く月を見上げていると、ひらりと、その隙間の端に灰色の染まった――昼の光の下で見れば、それはとても艶やかな緋色をしている事を、彼は知っている――袖が覗いた。そこで初めて、隣にいるはずの人がいないことに気付き身を起こす。肌を撫でる冷えた空気に身を震わせ、枕元に置かれている着物を羽織って、膝で部屋の出入り口へとにじり寄った。障子の枠に手をかけ、そっと外を覗く。
 目的の人はそこにいた。寝間着の上に着物を羽織り、静かに静かに部屋の前の庭に佇み、空に浮ぶ月を見上げている。ぽっかりとした深淵の瞳には爪で引っかいたような月が写りこみ、ゆらゆらと揺れていた。表情が抜け落ちたその顔からは感情を読み取る事は出来なかったが、何かを憂えて目に見えぬ涙を流しているように思えて胸が痛んだ。
 思わず立ち上がり、裸足のまま庭に下りて、ピンと伸ばされた細い背に抱きつく。じっと自分を見つめていた事に気付いていただろうに、その人はまさに今気付いたかのようなそぶりで腰に回された手を取り、体の向きを変えて首を傾げて見せた。

『  ?』

 名前を呼ばれ、どうしたの、と聞かれても、胸を締め付けるその思いを口にすることは出来ず、少しの苦しみを覚えながらも首を横に振る。到底、言葉で伝えられるとは思えなかった。その人は反対側にもう一度首を傾げて、そっと震える背を撫で下ろす。もう一度、どうしたのと問いかけてくるその人に、細い、けれども温かな手の温度にそっと息を吐き出して、両手を伸ばした。小さく、すべらかな頬をそっと包み込んで、形のいい唇に己のをそれを重ねる。そして、少しばかり困ったように微笑むと、その人はふわりと、花の蕾がほころぶかのような笑みを浮かべて見せた。





 胸が痛い。けれどもそれは嫌なものではなく、切なさと愛しさで締め付けられるような、甘い痺れを伴った痛みだった。ぼんやりとしたままで瞬くと、目尻から温かなものが流れ、こめかみから髪の中へと伝った。

「僕、泣いて……?」

 小さく出した声は、かすれていた。口の中も少し乾いていて気持ち悪い。身を起こし、枕元においてあった水を少し口に含んで飲み干すと、なんとも言えない安堵感に、伊作は小さく息をついた。
 何だったのだろう、と思う。何の夢を見ていたのだろうか、と。実習先から帰ってきた日から、伊作の夢見は酷く悪い。不運ゆえに、悪夢に魘される事はそれほど少なくはなかったが、それにしたって頻度が高かった。飛び起きてしまうこともある。けれども、どんな夢を見たのかを一切覚えていないのだ。その代わり、夢の名残のようなものがとても強く胸の中に残る。恐怖であったり、切なさであったり、喜びであったり。悪夢を見ているはずなのに変な話ではあるが、恐怖を覚えながらも確かにそんな感情が存在しているのだ。
 だが、今日見た夢は少し違っていたと思う。内容はいつもどおり全く覚えてはいないものの、胸に覚えた感情は今まで見たものとは確実に種類が違っていたのだ。痛くて、切なくて、苦しくて。泣きたくなるほどにいとおしい。誰かの名前を呼んで、抱きしめてあげたかった。こんな感情を、伊作は知らない。

「…………ま」

 唇から無意識にこぼれ出た言葉に、はっと息を呑んで手で押さえた。身を潜めているときのように小さく呼吸し、身体を強張らせる。夜の闇に支配されて室内には沈黙が横たわり、唯一、衝立で仕切られた向こう側から留三郎の密やかな寝息が響いていた。

「僕、誰の、名前を……」

 呼ぼうとしたのだろう。そう続けようとして、ぎくりと身をすくませた。何故、先ほどの一文字が誰かの名前に続いていると知っているのか。自らのあずかり知らぬ所で変化している自信に、伊作は戦慄を覚えた。けれども、それ以上に、胸が、目の奥が熱い。
 膝を抱えて、額を押し付ける。閉じた目からはとめどなくほろほろと涙が零れ落ち、寝間着を濡らした。ただただ、悲しいのに愛しくて、仕方がなかった。こんな感情は知らない。誰に向かっているのかも知らない感情なんて。けれども、知りたかった。いいや、思い出したかった。何かとても大切な事を、忘れてはいけない事を忘れているような気がしている。そうでなければ、愛しさと共に湧き上がってくる罪悪感の説明がつかない。
 伊作が初めて、覚えてもいない夢の内容に興味を抱いた瞬間だった。
 そしてそれこそが、三郎が、悠一郎が、幻羅が、をとても大切に思っている者達が待ち望んでいたきっかけ。



(ごめんなさい)(誰に向けてのものかも解らずに、ただ胸中で呟く)(痛くて切なくて、抱きしめてあげたくて)(その想いだけが、ただ胸を締め付ける)















































































































































● それは「身体だけの関係」で。





 癒羅は伊作で、伊作は癒羅ではなくて。伊作はそれを知らず、癒羅は全てを知っていた。
 だからこそ、癒羅は伊作がに抱く感情の全てが不思議だった。それはが癒羅の存在理由そのものであるからだと、癒羅もそれを寸分違わず理解してはいたものの、不思議で仕方がなかった。
 伊作がに大して抱いている感情は、酷く複雑なものだ。はじめはその美しさに惹かれ、次に恐怖し、自分の無力に腹を立て、陵辱される事に憎悪を抱き、を知っていく毎に突き放す事は出来なくなっていく。つまり伊作は、負の感情を抱くのと同じくらいの強さで、に、彼が抱くその傷に、強く強く惹かれていた。けれども彼はを憎みきれない自分に戸惑うばかりで、そんな己の心情に全く気付いてはいなかったのだ。
 に望まれ、手を伸ばされたくせに。
 それは嫉妬だった。の為に生まれ、存在する癒羅が抱く当然の感情であり、もう一人の己に対する不毛なもの。でもだからこそ、自分がこうして存在する事もまた知っている。それでも、嫉妬心を宥める事も出来ず、伊作自身との心が通い合う可能性が皆無に近い現状に安堵してもいた。伊作が伊作のまま、へと手を伸ばしてしまえば、癒羅が存在する意味はない。無用の長物となってしまうのである。そんなこと、耐えられるわけもなかった。
 だから歓喜したのだ。だんだんと長くなってくる己の覚醒している時間。眠り続ける伊作。そうして手に入れたのは、癒羅を望み、伊作の意識を奥深くへと沈めてみせた、愛しい人の手。幸福だった。自分の存在理由たるその人に、望まれているというその事実が。笑顔を向けてくれて、その温もりを感じることが出来、目を覚ますと側にいてくれることが、酷く心地よかった。



 ふと目を開ける。少し開いた障子からは細く月明かりが差し込み、闇を少しばかり薄めていた。あまりにも唐突な目覚めに、まるで意識が切り替わったその瞬間に似ていると、まだはっきりしない頭で思う。その障子の端に、ひらりと何かが掠め、外に意識を向けてみると障子越しに薄らと人影が見えた。

――様。

 何時もは隣で、癒羅を抱きかかえて眠っているその人がいないことに気付き胸中で名を呟く。身を起こし、肌を撫でる風の冷たさに身を震わせて、癒羅は枕元に置かれている着物を肩にかけ障子へとにじり寄った。木枠の部分にそっと手をかけ外を覗いてみると、はぼんやりと空に浮ぶ月を眺めていた。細い、まるで爪が空に引っかかっているかのような月だ。後数日すれば、新月の夜が来る。忍が活発に動き始めれば、今以上にこの忍者隊も忙しくなるのだろう事は、容易に予測がついた。
 薬と包帯のストックはどれだけ残っていただろうか、と医務室に常備されている分や分散して保管してあるものを脳裏に思い浮かべる。全てを知っているわけではないが、明日当たり医療忍者の人たちと一緒に確認した方がいいだろう。知らないものがあるのならばなおさら。
 けれどもそれをへと願い出る前に、そんな考えは霧散する。無防備に見せる彼の背中が、とても細く、頼りなげに見えた所為だ。あまりにも儚く見えるその背に、ぎくりと体の奥がすくんだ。怖い、と思った。何が怖いのかはわからない。それでも怖いのだ。その、涙を流していそうな細い背中が。
 わずかに覗く白く美しい横顔も、月明かりの所為か青ざめて見える。表情はまるで無いその顔からは、彼が何を考えているのか何を感じているかを推測する事も出来ない。ただ、空に引っかかっているような細い月が浮んだ瞳は、潤んで揺れているようにも見えた。
 泣いているのだろうか。
 何故か酷い焦燥を覚えて、裸足のまま庭に降りその背に抱きつく。細く頼りなげに見えるその背中は見た目よりもしっかりとしており、無駄なく鍛え上げられている。その事を癒羅は良く知っていたが、それでも彼の背は細く頼りなく、見えぬ涙を流しているかのように思えた。胸が痛い。
 癒羅の視線にも気付いていただろうに、今気付いたと言わんばかりに身を震わせて腰に回した癒羅の手を取り、体の向きを変えたは、小さく首を傾げた。

「癒羅? どーしたの?」

 どこか幼い口調で問いかけられても、胸が痛すぎて苦しすぎて、そしてその理由が見当たらなくて言葉に出来ない。出来たのは、もう一度首を傾げる気配と、暖かな手を背に感じながら首を横に振ることだけだ。それでも納得できないのか、もう一度どうしたの、と繰り返すに、癒羅は滑らかで少しばかり冷えた頬を両手で挟み、触れるだけの口付けを送った。
 そして、訳のわからない感情に困惑しながらも、ぱちりと瞬くその人への切ないまでの愛しさに笑いかければ、はふわりとした笑みを見せてくれた。まるで、蕾が花開くような、そんな柔らかで鮮やかな笑みを。その深淵の瞳に、癒羅を写して。





 あの時感じた恐れは、この事を予感していたからだろうか。
 常よりも深い瞳で癒羅を見つめ幻羅を従えているの姿に、己の終わりを悟った癒羅は足掻くでもなく一瞬過去へと意識を飛ばしていた。冷静なのではなく、ただ己の中にあるものが飽和しているだけだ。が何もかもを受け入れることのできなかったその事実への哀しみと、愛する人と離れたくないと叫ぶ心と、存在する理由そのものを取り上げられる絶望と怒りに。そして、ほんの少しの憎悪に。
 愛情なんて、簡単に憎悪へと変換できる。その、愛という感情ゆえに。逆に憎悪もそうなのだろうか、とぐちゃぐちゃになってしまった心がほんの少し疑問に思った。だとしたら、伊作はを愛するのだろうかと。そうであるのならば、伊作と癒羅は一人の人を挟んで正反対の順序で同じ感情を抱いた事になる。まるで、鏡合わせのように。伊作は怪我人がいれば敵味方問わず治療をする。癒羅はをはじめとしたヤエザキの人間しか治療しない。一つ上げればそんな些細な違いが、癒羅と伊作の間には存在していた。こんなところもだなんて、とまるで笑えないジョークにはっと笑い声にもならない吐息を吐き出した。
 愛しい人の喪失など、認めたくは無い。存在理由を取り上げられるだなんて、そんな事。

、様」
「うん……」
「私はもう、いりませんか……?」

 咽喉はからからに渇き、声はかすれていた。答えなど聞きたくは無かった。けれども、問わずにはいられなかった。だって、が求めた、それが癒羅の存在する理由だから。

「欲しいよ」

 予想とは正反対の答に、思わず言葉をなくし、しばしの間呼吸を忘れる。ただじっとと見つめあい、その深淵の瞳の奥にかすかに存在する何かに、ふるりと身を震わせた。それは、少し前のには無かったものだ。伊作と共にいるときには、無かったものだ。癒羅が確かに、に与えたものだ。

「じゃ…ど、して……!?」

 競りあがってくる熱いものをそのままに、震える声で問いかけた。物憂げにその目は伏せられ、少しばかり隙間を埋めたその目がもう一度癒羅を見やる。

「気付かないうちに、大事なものが増えちゃったから……」
「……」
「だから、守れなくなるのは、ダメなの……」

 まるで、涙で揺れているように見えた。今にも、泣き出しそうなのを我慢しているかのように。卑怯だ、と思った。そんな顔を見せられてしまえば、憎みきる事などできはしない。どうしようもなく、癒羅はを愛しているのだから。癒羅は、の為に生まれた存在なのだから。
 ぼろぼろと頬を伝う涙と共に、心の中からあふれ出てくる言葉を、そのまま口にした。

「愛しています」
「うん……」
「愛しています、愛しています、愛しています」
「ん……」
「離れるのは嫌です。伊作を起こすのは嫌です。大切なものが増えて、それを守る手が足りないと言うのなら、私の手も差し出します。だからお側においてくださいっ」

 咽喉から、搾り出すようにして告げる。それでも、の物憂げな表情は変わらず、ますます影が差してしまって、もうその顔を見上げていることすら出来なかった。俯くと、床にぽたりぽたりと、涙の雫が落ちた。

「眠るのは、嫌です……」
「癒羅」

 ほとほとと涙を零すままにしている癒羅の名を、柔らかく、深い声が呼ぶ。それにつられるようにして顔を上げると、どこか切ない、美しい笑みを浮かべたがいた。あぁ、と思わず溜息をつく。そこに込められていたものは、けして希望ではない事を癒羅は気づいていた。

「ばいばい」

 その別れの言葉を認識すると同時に、赤い瞳が癒羅の意識を精神の深い場所へと誘っていく。抗う術など無い強制的な眠りに落ちながらも、癒羅は最後まで、愛する人の、埋められた空虚の分だけ切なく美しい笑みを、食い入るように見つめていた。憎らしいほどに愛しい、その人を。
 そして、訪れたのは、果ての無い闇。



(泣かないで)(涙を流さずに泣く人に、そう言いたかった)(だからだろうか)(動かないはずの手をでその涙を拭う夢を見たのは)(二度と目覚めぬはずの意識が、浮き上がったような気がしたのは)(僕に)(私に)(手を伸ばしたその人の)


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