性的・暴力的表現注意!



ななつのもどかしさ



1 此処までしか思い出せない





 一番初めに帰ってきたのは、任務の為に二月ほど城を空けていた弥次郎だった。そして、彼と一日も違わずに帰って来たのは魅羅。二人は示し合わせたわけでもないというのに、が側に置いている癒羅を見た次の瞬間には、仲間が増えたと喜んで見せた。その後にがどんな手段を取って三郎とそう変わらぬ年頃の少年を手元に置いたのかを知っても、その態度が変わることも無く。何よりもを優先する彼らにとって、そんな事は至極些細な事でしかないからだ。
 次に帰って来たのは【蕾】の子供たちを連れて野外実習に行っていた九郎、国の端で起きた小競り合いの収拾に行っていた悠一郎、そして課題で他国の城に潜入していた三郎だった。馬鹿ばかりが集うヤエザキ忍者隊の中でも常識人よりな彼らは、当たり前のようにが取った行動に眩暈を起こし頭を抱えた。特に、が側に置いた少年をよく知る三郎は、その場でぶっ倒れなかった自分を褒めてやりたかった。

「伊作、先輩……」

 不運だ不運だと思い、それを口にしてからかいもしてはいるが、ここまでだとは……!
 呼ばれた名前にきょとんとする一学年上の少年――着ている女物の着物は確か、三郎の最愛の兄が気に入っている高級品の中の一品だ――を視界に納めながら、くらくらする頭でそんな事を思った。どうして彼がここにいるのか、などとは考えなくても解る。課題で運悪くヤエザキの城を引いてしまったのだろう。そしてこれまた運悪く、がヤエザキに腰を落ち着かせていて、見つかって、気に入られてしまったと。

「忍術学園の生徒、か?」
「の、保健委員です……」
「あー……」

 不運委員か。
 忍術学園の保健委員がどのような性質を持っているのか、以前学園に籍を置いていた悠一郎も良く知っていた。彼らは不運だ。その不運の内容にそれぞれ違いがあれど、それは変わらない。

「……ほどがあるだろ」
「五年連続保健委員で、次期委員長とまで言われてますから」
「どんだけだ」

 そんな人物はついぞ見たことがない。
 べったりとに張り付かれている少年に、不運にも程があると思わず遠い目をしてしまう。三郎はそれに頷き、の前に膝をそろえて座った。

「兄様」
「なぁに、さぶろ?」

 好き勝手に着飾った少年を腕に収めたままで、は小首を傾げる。さらりと流れる黒髪は、その髪は記憶の中よりも少しばかりぱさついて艶を失っているように見えた。父や魅羅が側にいたはずなのに何故、と少しばかり不思議に思いつつも口を開く。

「その人は忍術学園の生徒で」
「そう言ってたねー」
「私の先輩で」
「そーなんだ」
「善法寺伊作先輩と言います」
「苗字、ぜんぽーじってゆーんだ」

 へーと気の入らない返事を返して、何の話か理解していないような顔をする伊作の頭に顎を埋めた。それが恥しいのか少しばかり頬を染めながらもされるがままの伊作に、三郎は先ほどから覚えていた違和感を強くした。
 にこりと、が笑みを浮かべる。

「でもね、さぶろ。今は癒羅だよ」
「ゆら……?」
「そう。俺の癒羅」

 ねぇ、と腕の中の少年に同意を求める。すると癒羅、と呼びかけられた伊作は頬の赤味を強くしながらも、従順にこくりと頷いた。その態度に、三郎は唖然としてしまう。そして、少年が頷いた拍子に見えてしまった情交の痕――大分薄くはなっているが――に気付いてしまった悠一郎はひくりと口角を引き攣らせ、痛む頭に唸っていた九郎は深々と溜息をついた。

「幻羅の記憶操作か……」
「ごめーとー!」

 間延びした声が暢気に応える。それに怒ったのは九郎ではなく、の保護者を自負する悠一郎だった。つりあがる眦と唸りながらの名を呼ぶ悠一郎の声にふつふつと煮えている怒りの感情を敏感に察知したは、怒られる事こそが理不尽だといわんばかりに唇を尖らせた。

「何で怒るの、ゆーいちろー?」
「怒るに決まってるだろっ! 十も年の離れた子供を監禁、強姦、果ては記憶操作、これで怒らずにいられるほど人間捨てちゃいねぇよ! それに叱らずにいたら、お前の保護者の名が廃る! 自分がされて嫌な事は人にしちゃいけないって何度も教えただろうが!」
「だって!」
「だってじゃない! ったく、弥次郎と魅羅は何してたんだ。の側についていながら……」
「弥次郎も魅羅も昨日帰ってきたばかりだもん!」
「は……?」
「皆いなかったもん!」
「みんな、って……」
「弥次郎も魅羅も三郎も悠一郎も九郎さんも、みんないなかったもん……」
「……ちなみにどのくらい?」
「一ヶ月」

 それはに近しい人間全てが、丸々一月も彼の側から離れていたということか。ごっそりと。多少なりとも甘える事の出来る人間が誰もおらず、一ヶ月も一人きり。
 無垢にも濁っているようにも見える深淵の瞳が、少しばかり水気を伴って睨み上げてくる。怒っている、というよりもむしろ、拗ねていると言った方が正しいその目に、悠一郎は血の気を引かせて九郎と三郎を見やった。二人も、同じように顔色が悪い。

「九郎さん、は【蕾】の実習でした、よね?」
「ああ。俺は【蕾】の野外実習に出てた。長期で、サバイバルも兼ねて、一月ほど」
「三郎……?」
「課題、で、他国の城に……そういう悠一郎さんは?」
「国境付近の小競り合いの収拾に。もう少し早く帰ってくる予定だったんだが、不測の事態が起こって長引いて……」
「どうして、を一人にしたんだ。弥次郎と魅羅が忍務についてたのは知ったたんだろう?」
「いや、三郎が帰ってくるって聞いてたから、少しくらいなら、大丈夫、だと……」
「三郎?」
「帰ってくるつもりだったんですけど、帰ってくる途中で直接行った方が近い事に気付いてそのまま……。まさか皆、兄様の側から離れてるなんて知らなくて……手紙は、出したんですけど」

 つまりは情報の共有がしっかりと出来ていないために、を一人にしてしまったと。の行動も問題ではあるが、それを引き起こした原因が自分たちのミスにあると知って、その場には痛いほどの沈黙が流れた。

「側にいるって言ったのに」

 うそつき、と拗ねた顔を癒羅の肩口にこすりつける。癒羅はそんなの頭を、柔らかな手つきで撫でる。はその小さな手に気持ち良さそうに拗ねていた眦を和ませ、まるで御機嫌な猫のような表情を浮かべて懐いた。
 悠一郎や九郎は、ぽつりと零された言葉に胸を貫かれる。叱りつけるつもりで用意していた言葉を口に出す事も出来ず、痛む頭と胃をそのままに、三郎共々に対して小さく謝罪するしかなかった。



(今度から連絡は密に取りましょう)(そうだな。全員いないとか、ありえんぞ、本当に……)(兄様、寂しがりですからね……)







































































































2 触れた気がする






 あ、と空気にも乗らないほどの小さな声を、悠一郎は漏らした。
 それは小さな、けれどもとても大きな驚きを覚えたからだ。が、見たことも無いような穏やかな表情を浮かべていた。とても短い一瞬の出来事で、すぐに他の表情に塗り替えられてしまったが、それは確かに心地の良い温度を伴った柔らかな表情で。安らいでいるのだと、一目で知れた。
 九年。悠一郎がと共に在った時間だ。その間で目にした表情は、壊れて、虚ろで、温度を伴わないものだった。笑みを浮かべる事はあっても、それはこういう場面ではこういう表情を浮かべるべきだという、殆ど反射と言っていいようなもので、まともな感情が伴っている事は少ない。三郎を拾ってきてからは少しばかりマシにはなったが、それでもの中にぽっかりと開いた穴が埋まる事は無かった。
 だというのに、あの安らいだ顔。傷つき、ぼろぼろに引き裂かれたの心を、会って一月も経っていない少年が癒している。何年も側にいる悠一郎がなしえなかった事をいとも簡単になしてしまった少年に悠一郎は嫉妬を覚え、同時に泣きたくなるほどの感謝も覚えた。
 きっとあの子供は、があの戦場と血の海の中でなくしてしまったものを、大切に持ち続けているのだろう。忍術学園の五年生ともなれば、持ち続けるには大変で、苦しいものを。疲弊しきったの心を、癒せるだけの優しさと、慈しみと、とても柔軟な強さを。それはきっとが理解できないもので、だからこそ興味を引いて側に置きたがったのだろうけれど、がなくしてしまった、あるいは奥深くに埋もれてしまった心のとても柔らかな部分が本能的に求めた結果なのだろう。
 思わず良かったと、安堵の息を吐いてしまった。が伊作に対して行った非道な行為も、何もかもを空の彼方に追いやって。そして、僅かに生じる自己嫌悪。駄目な事は駄目だと言って、が悪い事をすれば叱り、褒めてやらなければならない場面ではきちんと褒めてやってきた。それは悠一郎の義務であり権利だ。今回の出来事も、本当ならば叱りつけて“癒羅”を“善法寺伊作”に戻し、学園に無事に帰してやらなければならない。けれども、のあんな顔を見てしまえば、そんな事、できるはずも無かった。結局の所、悠一郎も馬鹿という点で、弥次郎や魅羅と同じ穴の狢なのだ。
 が、幸せであればいい。それが、陵辱の痕も色濃い、小さな身体を腕に抱いた時からの願いだった。伊作の意思、という大切なものも、が幸せを得られるというのであれば、そんなものは吹けば飛ぶ塵ほどの価値しかない。
 悠一郎は癒羅と三郎とじゃれているを見ながらそんな己を自嘲し、同じくたちを見て微笑ましげに目元を和ませていた魅羅は、心底おかしそうにそんな事、と笑い飛ばした。

「小頭はうちで一番の様馬鹿ですもの」
「一番、か?」
「ええ。確かに小頭は様を叱ったり嗜めたり、まるで親のような態度を取りますけれど、結局そうしても様が本当になさりたい事や、欲しがるものを手に入れることを止めたりはなさらないでしょう」
「そう、だな」

 本当にがやりたがったり、欲しがったりする事を、悠一郎が止めることなどできはしない。誰よりもにイカレているという自覚が、悠一郎にはあった。

「でも本当に、いい顔をなさいます。癒羅ちゃんにはずっとあの方の傍にいていただきたいわ」
「ああ。……そこにあいつの本来の意志があれば、なおいいんだがな」
「……それは、少しばかり難しいのではなくて?」
「そう、だな」

 伊作がにされたことを思えば、伊作自身の意志での元に留まってくれる可能性など殆どないに等しい。だからこそ、はもう一つの人格を植えつけるなどという暴挙を犯したのだろうが。

「このまま、を望むのも、難しいだろうな」
「……そう、ですわね」

 忍術学園の教師は粒揃いと聞きますから。
 小さく零された言葉に、悠一郎は頷く。悠一郎が在籍していた頃も確かに教師陣は優秀な人間が揃っていた。学園長からして、伝説とまで言わしめた人物だ。その実力は高齢も相俟ってや悠一郎達よりは劣るだろうが、その分比べ物にならないほどの経験がある。一筋縄ではいかない事は解りきっていた。
 目の前に積まれた問題の厄介さに、悠一郎はぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜた。

「それにしても、何でよりにもよってうちを課題先なんかに指定したのやら……」
「ここが三郎の実家だからではないかしら」
「だとしても、ヤエザキは学園に敵対しなければ味方にもならない中立だ。しかもうちにはあのがいる。そんな場所に課題だからといって生徒を送り込めば、下手すれば敵対するってのに……何考えてんだかな、学園長、は……」

 呟いてから、悠一郎は不自然に口を閉ざした。魅羅の怪訝そうな視線を受けながらも、ぐっと眉間に皺を寄せる。悠一郎が学園に居たときから、あの学園長はそれはもう本人曰くの素敵な思いつきをしては周囲を騒動に巻き込んでくれていた。その裏に深い理由を抱えたものがあれば、物凄く下らない事が原因だった事もある。
 今回はどちらだろう。に翻弄されっぱなしの癒羅をちらりと見る。そして、即座に後者だと判断を下して肩を落とした。絶対に物凄く下らない理由だ。学園長が欲しがっている茶器を持っているかどうかを確認するとか、城で出されている美味しい菓子が何処のものかを探ってくるとか、そんなくだらないくせにやたらとリスクの高い依頼だったに違いない。そしてそんなくだらないくせに危険な忍務に巻き込まれてしまうのである。不運委員会とまで言われている委員会に所属する連中は。逆に、裏に潜む闇が濃ければ濃いほど、普段の不運はどこに行ったと聞きたくなるような強運を発揮するのである。
 悠一郎は寄せていた皺を伸ばすように、眉間を親指の腹で擦り、深々と溜息をついた。

「小頭……もしかして、何か思い当たる事でも?」
「いや、あー……物凄く、下らない理由、かもしれなくてな。……知りたいか?」
「……やめておきますわ」

 どこか疲弊してしまっている悠一郎の様子に、魅羅は視線を逸らしながらも首を横に振った。普段どれだけに振り回されていたとしても、殆ど疲れたような様子を見せない彼がここまでぐったりとする「下らない理由」など聞きたくはなかった。それがに何らかの影響を及ぼすのではない限り。しかしながら、が関わっていれば魅羅の意思など意に介さずに話し始めるのが悠一郎なので、今回彼が思い当たった事項は聞きはせずともいいものだろう。
 魅羅の拒否に悠一郎はだろうなと思うだけで肩をすくめ、目の前に広がる平和な光景を目に収めて、安堵と気苦労の入り混じった溜息をそっと吐いて見せた。
 


(ぶへっっくしゅんっ!)(おや、学園長、風邪ですか?)(ヘム〜?)(違うわ。ふむ、誰かに噂でもされておるのか。もてる男はつらいの〜)(はぁ……)(ヘム……)





















































































3 (ソレじゃないんだよ)





 オオムギ、甘草、クチナシ、麻黄、桂枝、芍薬、生姜。いろんな種類の薬草が並べられ、真剣にヤエザキの医療忍者の話を聞いている癒羅を、は床に寝転んだままの姿勢で見上げながら、胸に覚える既視感に目を細めた。何故だか、胸緩く締め付けられ、けれども温かくて、目の奥がじんわりと熱くなる。でもそれはけして不快ではなく、むしろまどろんでいるかのような心地の好さがあった。
 何だろう。二度、三度と瞬きを繰り返し、小首を傾げる。
 一度目を閉じ、また開いて、医療忍者を視界に納め、薬草をざっと視線で一撫でし、また癒羅を見つめた。そうして、室内に漂う様々な薬草の入り混じった香に懐かしい人を思い出し、僅かに安堵の入り混じった息を吐き出した。

――桜南さん。

 それはにとって、優しさと平穏と安らぎの象徴だった。桜南が殺されてから既に十年以上も経ち、もう既に顔すらもおぼろげではあるが、彼の纏っていた雰囲気や香は不思議と覚えていた。桜南も医者で、彼と共に住んでいた家や着物、果ては髪にまで、薬草の香が染み付いていた。時折凄い臭いを放つものもあったが、けして嫌なものではなかった。むしろそれが人の命を救えるのだと思えば、寝付くことも出来ないほどの臭いすらも、大切に思え、我慢する事が出来た。この部屋は、それに似ている。医務室なのだから当たり前なのだろうが、雰囲気までも似ているように感じるのは、真剣な顔で薬草と向き合っている癒羅がいるからだろうか。桜南も、薬草や患者に向かうときはあんなふうに真剣な顔をしていた。いや、患者に向かう時は安心させようとして笑顔を浮かべていただろうか。
 じっと見ていたら視線に気付いたのか、医療忍者との話が一区切りついたところで癒羅が振り向き、少し目を見開いて首を傾げた。

様?」
「ん〜……」

 なんでもない、とひらひらと手を振る。それに少しばかり納得のいかなそうな顔をしながらも、癒羅は一つ頷き医療忍者へと向き直った。
 はゆったりと目を閉じ、身体の力を抜く。真剣で、でも柔らかな調子の声色。漂ってくる薬草の香に、安らげる雰囲気。不安と安堵が入り混じった過去を思い出させるそれは、にとっては優しいばかりだった。そして、胸からこみ上げてくるじんわりとした、郷愁にも似た想い。
 癒羅は――伊作は桜南に似ているかもしれない。
 そう思い至って、口角に笑みを浮かべようとして、できなかった。ぎくりと、身体が強張り、心の中にどろりとした感情が渦を巻く。訳のわからない感情が心に波をつくり、は少しばかり混乱した。そうして、その波を鎮めるために、訳はわからないままに直前まで考えていた事を否定しにかかった。
 癒羅は、伊作は、桜南ではないと。似てはいるけれど、桜南ではないのだと。
 何故そんな当たり前のような否定で精神が平常の状態に戻っていくのかは解らなかったものの、それで戻ってきた体の感覚に細く長く息を吐く。そして、ころりと身体を反転させて、のまとう空気が強張ったことを察したのか、再び振り返りの様子を問うてくる癒羅へと背を向けた。 



(癒羅は桜南さんじゃない)(ただ似ているだけ)(当たり前の事だ)(なのに何故)(その思考はこんなにも心をかき乱す)









































































































4 言えば良いのに





「後数日も経たないうちに休みが終わります」

 そんな、忍術学園の生徒にとっては当たり前の事項を、三郎は至極深刻そうな顔をして膝を突き合わせている悠一郎に告げた。悠一郎はわかっていると、やはり過ぎるほど真剣な表情で重々しく頷く。
 それもこれも、全てはの側に置かれている癒羅――善法寺伊作が原因だった。はよほど気に入ったのか、癒羅を側近くにおいて片時も放さない。どちらか一方が離れていれば、もう一人はどうしたと長屋の者達に聞かれるほどに、共にある事が定着していた。わずか、ほんの数日で。もちろん、そこには嫉妬ややっかみがなかったとは言わない。けれども、癒羅と共にあるの顔を一度でも見てしまえば、そんな感情は温かなものへと変化した。の表情が、見たことも無いような柔らかな表情を浮かべていたからだ。

「私としては、伊作先輩が兄様の側にいてくれると嬉しいです」
「それは俺も同意する。あれは、いい顔をするようになった」
「はい……」

 喜び半分、嫉妬半分といった表情を浮かべながら、三郎は悠一郎の言葉に頷いた。あの空ろな人を温かなもので満たしてくれる、とても得がたい人を離すわけにはいかない。この機会を逃してしまえば、を癒してくれる人なんて現れないかもしれないのだ。伊作自身の意思をそっちのけにしてでも、彼をこの場所に――の側に縛り付けておきたかった。

「だが無理だろうな。見逃してくれるほど、あの学園の教師は愚鈍じゃない」
「はい。先輩が帰ってこないとなると、必ず確かめに来るでしょう」

 死んだのか、生きているのか。捕まったのか、逃げ出したのか。生きているとなれば、取り戻しに来る。非情な忍の世界にあって、忍を育てる場所でありながら、どうにもあの学園は人としての温もりを忘れてはいない場所だった。そうでありながら、優秀な忍が育つ稀有な場所。だからこそ、忍術学園に三郎を入れることを良しとしたのだが。

「私が学園に、先輩は殺されてしまったと言えば……」
「駄目だ。それだとお前が学園に居辛くなるだろう」
「それにヤエザキが忍術学園の敵対するものと捉えられる可能性もあるぞ」
「九郎さん」
「九郎先生」

 九郎がふらりと現れて、二人の側に腰を下ろす。その手には湯気を立てた湯飲みが三つ置かれた盆があり、三郎と悠一郎はそれぞれ礼を言いながら自分の湯飲みを手に取った。しばらく茶を啜る音だけが、静かな空気の中に響く。遠くで、忍やその卵たちが訓練する声がかすかに聞こえてくる。そこに時折悲鳴のような歓声が混じるのは、がその場にいるからだろうか。その側にいる柔らかな茶色い髪の持ち主を想って、重い溜息が落とされる。

「取れる手段なんていくつもない。最終的には、敵対するか、大人しく返すかの二つだけだ」

 きっぱりと言い放たれた言葉に、悠一郎は眉間に皺を寄せ苦虫を噛み潰したかのような顔をし、三郎は視線を落として口をへの字に曲げた。だが反論はない。それが真実だと、二人はよく理解していた。
 伊作を死んだ事にしても、癒羅という人格のまま留めておいても、行き着く先は学園との敵対という未来だ。そうなれば、三郎は学園に居ることは出来なくなる上、仲のいい友人たちと会うこともままならなくなる。それは極身近な不利益で、もっと拡大すると、忍術学園と敵対する事によって、今まで友好を築いていた国や中立を保ってきた国とも敵対する可能性が出てくる。いや、学園と背を向け合ってしまえば十中八九そうなるだろう。それは避けねばならない事態だった。たった一人の存在の為に、国を巻き込んでしまう訳にはいかない。

を優先したくても、足場が揺らいでしまえば意味がねぇ」
「つまりはどん詰まりですか」
「……くそっ」

 不機嫌そうに押し黙った三郎と、空になった湯飲みを叩きつけるように置いて悪態をつく悠一郎に、九郎は苦笑する。これが魅羅や弥次郎であれば、誰を巻き込もうと何を滅ぼそうとも、がよりよい状態になるのならば情け容赦なく実行するのだろう。けれども、ずっとこの国を護ってきた悠一郎や、この国で育ってきた三郎はそうはいかない。特に悠一郎は、この国を護る為に、嫌がるをその地位に縛り付けたという負い目のようなものがある。それが、が悠一郎を問答無用で側に置いておく為に態と発した問いによるものだと、解っていても。
 がこのまま何をおいても、癒羅と名づけた少年を側に置いておきたいと主張するのならば、ヤエザキ忍者隊はその願いを叶えるために動くだろう。ずたずたに引き裂かれた、の柔らかい心を少しずつ癒している少年を確実に得る為に命を懸けるだろう。城主たる若君とて、手を尽くすに違いない。あの、敵襲を退けた瞬間から、ヤエザキという国はを支柱としてしまった。それ故に。
 良くない傾向だ。けれども、それなくしてこの国の平穏は得られない。現状をどうにかできるとしたら、それは支柱たるだけだ。だから、九郎は沈黙を守り、目を閉じる。何を考えているのか、わかりやすくわかりにくい、可哀想な子供を想って目を閉じる。

――何も考えず、内に抱える願いを口にしてしまえばいい。

 無責任な言葉を、九郎は胸中だけで吐き出した。



(あーもー、どうしろと!?)(いっそのこと若様も巻き込んで……)(ゆーいちろー、さぶろー。くろーさんも何やってんのー?)(((……猫の捕獲法の相談?)))(ねこ? ねずみでも出るの?)


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