闇の守人〜眠れない夜〜
皓々と夜空に輝く月は、十五夜には僅かに足らない。
けれど程ほどの丸さになった月を、ナルトは見ていた。
今まで窓枠に切り取られた、四角く小さな空がナルトの『空』だったけれど、今は視界いっぱいに広がる空がそこにある。
そして、天だけではなく、地にも『空』はあった。
邸を抱く湖の水面に映るのは、満天の星空と、柔らかな光を投げかける白い月。
本物にも負けぬ輝きを放つそれは、今にも手が届きそうだ。
「春とはいえまだ冷える。風邪ひくぞ」
ぱさりと、上から柔らかな布が落ちてきた。
ナルトの視界が薄い緑色に染まる。
ぐいぐいと手元に布を手繰り寄せ、顔を出した。
薄らと月明かりでできた影がかかり、ナルトは上を見上げた。
そこにいたのは、濃紺の着物の上に黒い袿(うちぎ)を引っ掛けた自分の『保護者』。
漆黒の髪が、冷たい風に吹かれてサラサラと流れていた。
彼の頭の向こう側に、少しかけている月がある。
夜が、そして月の光が似合う人だと思った。
そのままじっとナルトが見上げていると、シカマルは小さく息をつき、ナルトが握ったままの袿に手を伸ばす。
それをナルトの肩にかけ、小さな身体を包んだ。
ふわりと袿に包まれたとたん暖かいと感じたことに、ナルトはずいぶんと冷えていたことを知った。
ぱちぱちと瞬くナルトに、シカマルは小さな溜め息をつく。
ナルトの隣に腰を下ろして、袿に包まっているナルトに顔を向けた。
「眠れないのか?」
ナルトがシカマルの瞳を見つめる。
逸らされず、真正面から向けられる深く透明な瞳に、ナルトは一度口を開けて、すぐさま閉じた。
言葉を発することを止めて、ただコクリと首肯する。
シカマルはそれに目を細め、「そうか」と。
昼間のように、ただ一言だけ口にした。
シカマルはそれ以上そのことを詮索することなく、ナルトと同じように天と地の『空』を眺める。
場に満ちるのは、気まずさでも居心地に悪さでもなく、沈黙の優しさ。
気遣うでもなく心配するでもなく、ただただ横にいるシカマルに、ナルトは視線を地上の『空』に向けたままふと口を開いた。
「……今まで、寝てたら、いつも殺されそうに、なってた……から。だから、眠れなくて……」
いつもいつも、何をされるか分からなかったから、神経を張り詰めさせて。
殺されないために、三代目以外に人がいるところでは眠らなかった。
この『保護者』がナルトを殺さないと解っていても、心がついていかず、身体に染み付いた癖は抜けない。
自分を受け入れてくれている『保護者』に、何だか申し訳ないような気がした。
「ごめんなさい……」
顔を伏せて、居たたまれない気持ちに思わず謝った。
ナルトの言葉を静かに聞いていたシカマルは、何も言わない。
先ほどとは違った沈黙が漂っていた。
「謝らなくてもいい。……俺も、そんな時期があった」
そっと俯くナルトの頭に手を乗せて、優しく撫でる。
その手に促されて、その言葉に驚いて、ナルトは顔を上げた。
初めて彼の口から、彼自身の事を聞いたから。
「四代目に引き取られた時――正確に言うと少し違うけどな。環境が変わって、人間不信にもなってて、良く知らない人間が傍にいて……眠ることなんてできなかった」
「人間不信……。オレと一緒……?」
「そうだな。人間嫌いでもあったが……。その時、お前と同じ年だった」
「三歳?」
「ああ。母親と、その義母――義理の祖母以外は信じられなかった。最初から四代目を信じていたわけじゃない。その頃四代目と共にいたのは義理の祖母がいたからだ」
そう、信じていなかった。
だから、眠れなかった。眠らなかった。
あの時四代目は、そんな自分をこの邸に引っ張ってきたのだ。
そして今、自分がナルトにしているのと同じように、夜の空を眺めている自分に上着を着せ、すっとその両手を自分の前に突き出した。
今でも、一言一句違わず、思い出せる。
あの時の、穏やかな笑顔と共に。
彼はそう、こう言ったのだ。
『覚えていてね。この手は君を、木の葉の皆を守るためにあるんだ。だから、決して君を傷つけたりはしないよ』
信じてとは言わないから、と。
覚えていて、と。
心の中に残っている、たくさんの優しい言葉たち。
ゆっくりと、瞬く。
己の手を見下ろして、ナルトに向かって差し出した。
不思議そうな光を浮かべた蒼い瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。
「ナルト、覚えてろ。この手は決してお前を傷つけはしない」
守るために、存在するのだ。
前はあの人を。
今は、ナルトを。
守るために存在する、この両の手。
シカマルはじっと己の手を見詰めるナルトを見て、瞳を細めた。
漆黒は深さを増し、穏やかに、そして優しく、柔らかく緩む。
小さなナルトの両手が、シカマルが差し出す手の指先をおずおずと握った。
「傷つけない?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
「……うん」
顔を上げて頷く。
ナルトは、シカマルの瞳がさらに深みを増したような気がした。
「眠れないのなら、部屋に結界を張ろうか」
「いい」
ふるふると顔を横に振る。
シカマルは小さく首をかしげた。
「……自分で張るか?」
また、ナルトは首を横に振る。
シカマルは一つ瞬きをした。
その瞳は何かを思案しているようで、どこか遠くを見ていた。
ナルトは握っているシカマルの手に力を込める。
また一つ瞬きをして、シカマルはナルトの頭をそっと撫でた。
そして徐に立ち上がり、ふわりとナルトを抱き上げる。
「何処行くんだ……?」
「部屋」
ナルトの問いに一言だけ返して、シカマルはすたすたと縁側から離れていく。
ナルトはとりあえず納得して、前を見詰めるシカマルの顔を見上げた。
暫く歩いて――邸は結構広いのだ――ある一室の前に立ち止まった。
ナルトは首をかしげる。
その部屋は、ナルトに与えられた部屋ではなかったからだ。
シカマルは障子を開ける。
真ん中には布団が敷かれていて、枕元には灯篭と二、三冊の本。
置かれている机の上や横には本や巻物、書類などが山積みにされており、設置されている大きな本棚の中には本や巻物がぎっしりと詰まっていた。
余りの本の多さに、ナルトは呆然とする。
そんな部屋の中に、シカマルは入った。
「シカマル……?」
「俺の部屋だ」
「シカマル、の……?」
「そう」
頷いて、ナルトをそっと布団の上に降ろした。
ナルトを包んでいた袿をたたんで枕元に置き、自分が羽織っていた袿も同様に置いた。
ナルトを寝かせて、己もその横に横たわる。
ふわりと掛け布団に包まれて、呆然としていたナルトははっと我に返った。
目を見開いたままで、肘をついて頭を支えているシカマルを見詰める。
「シカマル」
「寝ろ」
「でも……」
「いいから、寝ろ」
優しい手の平がナルトの目を覆う。
促されるようにして静かに眼を閉じると、その手はどかされ、繊細な指先がそっと髪を梳いた。
何度も何度も、梳かれる髪。
どこか冷たさをはらんだ、それでも優しいチャクラと。
まるでガラス細工にでも触れるかのように、丁寧に触れてくる指先の感覚が心地好くて。
うとうとと襲ってきた眠気に、ナルトは驚いた。
けれど閉じている目蓋を開ける気にはならず、そのまま眠気に身を任せる。
一枚一枚、薄いベールが覆っていくように、とろとろと溶け出す意識。
こんなにも穏やかに、何の心配もせずに眠りに沈んでいくのは初めてではないだろうか。
きっと、そうだ。
人が横にいるというのに眠れることを不思議に思いながらも、ナルトは沈んでいく意識の中、「お休み、ナルト」という無感情ではない穏やかな声を聞いた。
くうくうと寝息を立て始めたナルトに、シカマルはほっとする。
四代目はいつもほうって置いてくれたから、正直どうしていいか解らなかった。
だから、暫く考えた末にこうすることにして。
結果、ナルトはすぐに寝入った。
よかったと、思う。
このくらいの年の子どもにしては少し小さいのではと思ったのだが、それは寝不足も原因の一部なのだろう。
ナルトの話を聞いて、それが解った。
自分には四代目の他に義理とはいえ祖母がいた。
彼女は信じるに値する人物で、あの母を育てた人だったから。
それにひきかえ、ナルトには三代目しかいなかった。
だから自分が、彼女のような立場になれれば良いと思う。
そして、自分が与えられる精一杯の愛情を、ナルトに。
「おやすみ」
布団をかけなおして、自分も横になる。
木目の鮮やかな天井を見て、そっと目を閉じた。
『信じなくても良いよ。でも、覚えていてね。この手は君を、木の葉の皆を守るためにあるんだ。だから、決して君を傷つけたりはしないよ』
『守る、ため……』
『そう。そして、守るために強くなる。強くなりたいと思う。それが木の葉の力だと、僕は思っているよ。だからね、シカマル。君も、守りたいと思える人が見つかると良いね』
――あの時は沈黙でしか答えられなかったけれど。見つけましたよ、四代目。俺が守りたいと、思う人を……。
To be continued.
ちょっとばかし難産でした。
でも言わせたかった台詞を無事言わせることができて嬉しいv
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