28.カルラ



 何の問題もなく師弟としてやっていけそうな山羊座に、安堵の息が零される中、教皇が黄金聖闘士以外に退室を申し渡す。黄金の聖衣を身に纏う見目麗しい聖闘士達を名残惜しそうに見て去っていく人々を見送り、両開きの扉が重々しい音を立ててしまった途端、室内に満ちていた緊張感が鳴りを潜め、一気に場の空気が気安くなる。きょとりと、カールは瞬いた。

「楽にせよ。ここからは私的なやり取りとする」
「は、はぁ……」

 そんな事をいきなり言われても、とカールは戸惑う。狭い眉間に皺を寄せるカールに、フーガはからからと笑った。

「いきなりそんなこと言われても戸惑いますって、教皇。カールはこっち来たばっかなんすから。まぁ、それは置いといて。まずは自己紹介、とでもいきましょうか」
「うむ」

 ご機嫌な様子で話を進めるフーガに頷き、教皇は玉座に深く腰をかけなおして、傍聴の姿勢に入る。もちろん、必要があれば横から口を挟むつもりではいるが。

「それじゃあ、第一宮から。いいですか?」
「かまわないよ。私は牡羊座のランティス。よろしく」

 司会者よろしく話を振るフーガに、ランティスが相も変わら淡々とした表情と言葉で頷き名乗る。どこか人を寄せ付けなさそうなランティスに多少気後れしながらも、カールは言葉を返していく。それを七回繰り返しの番となったとき、彼女は仮面を外しニヤリと笑った。

「射手座のだ。よろしく」
「そして次期教皇候補でもある」
「それ嫌だって言ってんでしょうが。いい加減諦めたらどうですか、教・皇・猊・下」
「それこそ嫌じゃ。お前こそ諦めよ」

 と教皇の間で、バチバチと火花が散る。それに周囲はまた始まった、と苦笑し、慣れきったフーガは彼らのやり取りを放置して、次だ次と促した。人馬宮の隣は磨羯宮なのでとばし、先ほどから面白そうに瞳をキラキラと輝かせているエリアーデがニコリと笑う。

「アタシはエリアーデ。水瓶座よ」
「よろしくおねがいします。……あの」
「なぁに?」
「おとこのひと、ですよね、、かめんして……」
「こ・こ・ろ・は・お・ん・な・よ!」

 皆まで口に出す前に、エリアーデにがっちりと両肩を押さえられ、ずずいと詰め寄られる。一字ごとに区切られた言葉は元より、ドアップの笑顔は迫力満点で、カールはかくかくとまるで首振り人形のように頷いた。ばくばくと脈打つ胸を押さえる子供に、パーンはあれは恐ろしかろうと不憫に思って、大人気ない大人をじろりと睨め付けた。時にはランティスでさえたじろぐ山羊座の眼光も、隣宮のよしみで昔から親交のある水瓶座には全く効かない。ただニコリと笑って受け流すだけだ。
 司会進行役のフーガはそれすらも何時もの事と受け流し――事実日常茶飯事だ――いつの間にやらの隣へと移動していた魚座へと視線を振った。

「魚座アルバフィカ。……よろしく」
「よろしくおねがいします。……あの、さっきはほんとうにごめんなさい」
「もういいって言っただろう」
「はい、ごめんなさい…」

 アルバフィカにとって嫌な話――何せにまで笑われてしまったのだ――を蒸し返されて、アルバフィカは若干むくれて、眉間に皺を寄せる。それが怒っているように見え、カールは謝りながら意気消沈してしまった。
 なにやら子供達の間だけで通じているらしい会話に、大人達の興味津々という視線がに集中する。何故なら、アルバフィカはしゃべらないと決めたらよほどのことがない限り絶対に口を開かないし、フーガはとアルバフィカのどちらか片方が少しでも嫌がったらこれまた同じく貝の如くぴたりと口を閉じてしまうからだ。言え、と無駄に圧力をかけてくる何人かにものすごーく嫌そうにしながらも、ここで口をつぐんだら後がしつこいので、は早々に口を開いた。

「此処に上がってくる前三人で手合わせしてたんですよ。その時に会ったんですけど、アルバフィカと一緒に性別間違われました」
「おや」
「なるほど」
「またぁ?」
「あら、まぁ」

 あえてどれが誰とは言わないが、口々に言葉がこぼれる。けれどそこには驚きや呆れよりもむしろ笑いが含まれており、アルバフィカは口をへの字に曲げてしまった。あれを宥めるのは私の仕事だよなぁ、とはまるで他人事のように胸中で呟く。多分今日添い寝してやれば明日の朝には上機嫌だろうから、さして苦でもない所為だ。
 いたたまれなさそうなカールの頭を撫でているパーンの姿を眺めながら、も隣にある浅葱色の頭を二度、三度と撫でてやった。そんな二人の様子を相変わらずアフロディーテの腕の中に納まり、こっくりこっくりと船をこぎはじめていたルヴィオラが見つけ、己を支える狭い囲いの中で暴れ始める。下に下ろして欲しいのだ。
 「おいるー!」と言いながらジタバタする幼子に、アフロディーテは多少どころでなく残念に思いながらも、このまま抱いていては落して怪我をさせてしまいかねない――いや、もしかしたら傷つくのは石畳の方かもしれないが――ので、ルヴィオラの希望通り、下へと下ろしてやる。すると一目散に、幼子の大好きな“パパ”と“ママ”の元へと飛んでいった。

「ママ、ママ、ルウもなでなでして!」

 レッグパーツに覆われた足にぎゅむりとしがみつく子供とその呼称に、カールは目を見開く。そしてが気にした様子も無く、朱色の頭をぐりぐりと撫でる様に、首を傾げた。
 くすりと、男性の、けれども艶やかな声が笑った。カールが声の聞こえてきた方へと目を向けると、先ほどまであの幼子を腕に抱いていた麗人が歩み寄ってきていた。

「いつもの事だから気にしない方がいいよ。ああ、私はアフロディーテ。先代の魚座で、、アルバフィカ、フーガの師でもある。よろしく」
「よ、よろしくおねがいします」

 ニコリと笑って差し出された手を、カールは真っ赤になりながら握り返す。こんな、完成された豪奢な美貌を間近で見るのは初めてだ。本当に綺麗な人はどれだけ近くで見ても綺麗なのだと、ゆでる思考の中で思う。
 耳まで真っ赤に染めた子供の姿に「かわいいー!」と胸中で大絶叫をかますアフロディーテはもう少し子供に構いたいと全身で語っていたが、パーンに視線で依頼されたデスマスクの手によってぺりっとはがされて列の方へと連れられていく。
 ぶーぶーと文句を垂れ流すアフロディーテの脳内に、パーンの声が重低音で響いた。

――やらんぞ。
――いらないよ! それに私には可愛い可愛い三人の弟子がいるんだから! そりゃ子供は大好きだけど。

 正確にはいただがな、と心の中で突っ込みを入れながらも、パーンはアフロディーテの主張に頷いておく。早くも親馬鹿の兆候が見て取れ、彼らを観察していたエリアーデは、また隣人をからかうネタができた、とイイ笑みを浮かべた。これまた毎日が楽しくなりそうな予感である。
 カールは血が上って熱い頬をごしごしとこすって、師を見上げた。

「あの、あの子は?」

 指を差そうとして失礼だと気付いて慌てて握りこみ、視線だけで赤毛の幼子を指した。だけでなく、フーガやアルバフィカにも頭を撫でられ、きゃいきゃいと嬉しそうに声を上げるルヴィオラに、パーンは目を和ませた。
 自分達を見つめる二対の視線に、滅多に見せない優しい表情でルヴィオラを見守っていたが顔を上げ、ルヴィオラの小さな手を引いた。シャラリシャラリと涼やかな音を立てて揺れる黄金の羽が気になるらしく、に大人しく手を引かれながらも、興味津々だ。

「しゃらしゃら〜」

 高い声をご機嫌に弾ませて、片手をに、片手をアルバフィカに引かれているその姿は、不思議と仲の良い親子のようにも見える。

「ほら、ルウ。挨拶しろ」
「う? あいしゃつ?」

 くりっとした大きなラズベリーレッドの瞳が、カールへと向けられた。じっと自分を見つめる無垢な瞳に、カールの背筋がピッと伸びる。小さな頭が、ことりと傾げられた。

「だぁれ?」

 がくりと、カールの肩が落ちた。とアルバフィカの二人は苦笑を見合わせる。この子供は自分が構ってもらえない難しい話が嫌いなのだ。今回もきっと退屈を持て余して寝ていたか何かしていたのだろう。そんな彼らの心境なぞお構いなしに、ご機嫌な幼子はにこにこと笑っていた。

「ルウはね、ルびオラってゆーんだよ! しゅこーぴおんになるんだよ!」
「カール・ラーファエル・クレヴィングだ。わたしはカプリコーン。スコーピオンって、えっと、スーラさまの……?」
「ああ」
「そういえば、あの人どこに……」
「あそこあそこ」

 パーンが頷き、アルバフィカは首を傾げ、はその疑問に対し、深々とため息をつきながら、教皇の間の片隅を指差した。そこにはどんよりとした暗雲を背負い、座り込んで膝を抱えたスーラの姿が。

「え、ど、どうしたんですか、スーラさま」
「師匠から離れたルウの奴が自分のところに来なかったから凹んでんだよ」
「いつもの事だから放っておいてもいいよ」
「はぁ……」

 黙って頷くパーンに、消化不良という顔をしながらも、カールは何とか呑み込む。何となく、ありのままを受け入れなければ、ここではやっていけない気がした。

「やっぱ幼少時の経験は大事だな」
「経験と言うか、ルウのはまだ刷り込みだけど……どうしたの、ルウ」

 先ほどから妙に静かだと思えば、むぅっと唸りながら眉を顰め、むにむにと口を動かしている。アルバフィカの問いにも答えず、しばらくそうしていたかと思うと、じいっと上目遣いにカールを見上げた。

「カ…ル、ラ……?」
「カール・ラーファエル・クレヴィング」
「カーゆ、やはール……う゛ー」

 うりゅっと。正しく発音できていないのが自分でも解るらしく、悔しさのあまり今にもこぼれんばかりの涙が、その大きな瞳に溜まる。そしてぽろりと、大粒の涙がまろやかな頬に零れ落ちた。それでもルヴィオラは必死に口を引き結び、泣くまいと踏ん張っている。
 初めて見る自分よりも小さな子供の涙に、カールは大いに焦った。わけもなく、わたわたと両手を振り回す。

「あー、はいはい。悔しいなぁ、悲しいなぁ。泣いてもいいぞ」

 そしたら部屋の隅でキノコを生やしている保護者が飛んでくるだろうし。
 本当に泣き出したら他人に押し付ける気満々で、はルヴィオラの髪をがしがしとかきまぜる。けれど幼子は頬を真っ赤に染めながら、小さな頭を大きく振った。

「なかなーもん! ルウおとこのこ!」
「偉いね、ルウ」

 今度はアルバフィカが、優しく朱色の髪をすく。ルヴィオラは鼻をぐずぐずいわせながら、小さな拳で目元を拭いニパッと笑った。褒められたのが嬉しかったらしい。まだ涙の跡の残る頬で、ルヴィオラは再び挑むようにカールを見上げた。ぴくりと、カールの肩が震える。

「カー…ル、ラーはえゆ……むぅ」

 もう一度挑戦してみてもやはり正確に発音することができず、目を潤ませながらもぷくりと頬を膨らませた。ぴとりと、の足にはりつく。

「ままぁ……」

 上目遣いに見上げて、甘えた声を出す。こういう自分ではどうにもならない事態を前にした時、誰を一番に頼れば良い方へと転ぶのか、ルヴィオラは幼いながらに知っていた。だって師は自分に関する突発的事態が起こると、真っ先に“ママ”の家に駆け込むのだ。そして瞬く間に問題は解決する。だからルヴィオラは、今回も“ママ”ならばどうにかしてくれるはずだと、絶対的な信頼を持って彼女を見つめた。
 キラキラと、星が飛び出さんばかりに純真なラズベリーレッドの瞳に、は内心顔を引きつらせる。いったいどうしろと言うのだ。いや、呼びやすいようにして欲しいのだろうが、アルバフィカのように名無しだったのならまだしも、相手は苗字まで持っていると言うのに新しい名前などは付けられない。
 あくまでも表情を変えず、周囲へと視線をめぐらす。しかしアルバフィカにはただ困った顔を、フーガにはへられとしたしまりの無い笑みを返され、他の聖闘士は教皇を含め事の成り行きを面白そうに見守っている。同じように救いを求めるが如くを見つめる山羊座の子供は元より、キノコが生えているスーラは期待するだけ無駄だ。
 揃いも揃って使えない男達め。幼子の手前表に出しはしないが、小宇宙通信を舌打ちを聞かせるためだけに使い、仕方なく顎に指を添えた。自分やアルバフィカは“ママ”と“パパ”だから問題外だし、フーガは“フー”だ。師であるスーラは“ちちょ”だし、従者のカナリアは“かにゃ”。そこまで考えて、ようは言いやすく縮めてやればいいのだと結論付ける。最初の三文字は発音できているのだし。

「……カルラ」
「う?」
「え?」

 ルヴィオラが首を傾げ、カールが瞬く。はくいっと口角を吊り上げた。

「カルラでいいだろ。それだけは綺麗に発音できてんだし」
「し、しかしわたしにはちちとははからもらったなまえが……!」
「ルウが正式に発音できるまでの話だ。まぁ愛称だとでも思え」

 多分な。
 それなら、と言ってにつけられた名を承諾し、ルヴィオラがカルラカルラと笑顔で繰り返すのを苦笑しながらも受け入れている少年を見ながら、心の中で付け加える。きっとこのまま定着してしまうのだろうな、というのがの本心である。だってルウの他にも、この会話を聞いている面々がその名で呼ぶ気満々だ。アルバフィカとかフーガとか師匠とかパーンとかエリアーデとか。かく言う自身も、その名で呼ぶつもりでいた。その方が面白そうだから。
 楽しそうにじゃれあっている五歳児と二歳児を眺めながら、数年後はどうなっていることやら、とは笑みを浮かべ、アルバフィカとフーガは苦笑を見合わせ。

「これはこれで上手くいったか」

 ニヤリと、教皇は一人仮面の影でほくそ笑んでいた。



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 そんなわけで彼は以後カルラと呼ばれることに。


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