27.山羊座



「ここが……」

 ゆうるりと波を描きながら、まるで空へと向かって伸びているような階段。そして絵画の中から出てきたかのような白亜の神殿、古い形の衣服と鎧を見につけた人々。
 説明されてはいても実際目にした光景は想像を遥かに超えており、少年は言葉をなくしただ見入った。
 この頂点に、己が仕えるべき高貴な方がいらっしゃるのだ。どのような方なのだろう。
 少年は高まる期待に頬を染め、胸を高鳴らせた。





「はっ」

 掛け声と共にアルバフィカの懐へと入り込んだは、しまったと顔を歪めたアルバフィカに避ける隙を与えぬよう素早く掌底を叩き込んだ。逃げ切れないと悟ったアルバフィカはそれを寸前でガードし、少しでも衝撃を殺すために後ろへ跳ぶ。それでも攻撃は入り、は手ごたえを感じると同時にアルバフィカが吹っ飛ぶのを見た。彼はそのまま岩に突っ込んでしまい、物凄い衝撃音と共に砂塵が舞う。
 そこまで、というフーガの声が響く。
 砂石となってしまった岩の残骸をくずしながらアルバフィカが起き上がった。口の中に入った砂を吐き出し、服についた砂をはたき落す。同じく――彼よりもマシだが――砂塗れになっているの方へと歩み寄りながら、アルバフィカは悔しそうに顔をしかめた。

「また負けた」
「また勝った。と言いてぇ所だが、今の所成績は五分だろ」

 と僕で六・四だと思うけど。そう思ったが口にするのも悔しいので、口をへの字に曲げてむっつりと押し黙った。
 そのままツンとそっぽを向いてしまった。アルバフィカを可愛らしいと思いながら、は空を見上げ太陽の位置を確認する。手合わせを始めた頃と比べると、かなり西へと傾いていた。

「そろそろ帰るか?」
「ああ。ほら、行くぞフィー」

 髪の間に入り込んだ砂を荒い仕草で払っているアルバフィカの頭をはたく。頭に軽い衝撃を受けたアルバフィカは口先だけの文句を繰り出そうと口を開こうとして、の背の向こうから聞こえてきた幼い悲鳴に遮られた。十二宮の敷地内たるこの場所にはあるはずのない、子供特有の高い声だ。
 は仮面の下で顔をしかめ、振り向く。フーガとアルバフィカも、予想もしなかった闖入者を見た。
 三人の視線の先には、五歳ほどの小さな子供が大きな目を零れ落ちそうなほどに見開いていた。
 混じりけのない純粋な金色の髪に、澄んだ碧い瞳。将来女性受けするだろう甘い顔立ちは幼いながらも誠実さがにじみ出ている。先が楽しみな秀逸で真面目そうな容貌はのサドっ気をくすぐり、へぇっと面白そうに口角を吊り上げた。

「山羊座……」

 小さく、フーガが呟く。興味深げに子供を凝視するフーガに、そう言えば、と、教皇から召集命令が出ていた事を思い出し、納得した。それならば、関係者以外立ち入りを禁止されている十二宮に子供がいる事も不自然ではない。

「あの子が……」

 ポツリと、アルバフィカも言葉をもらす。呆然とも取れる顔をしているアルバフィカを一瞥し、視線を子供へと戻したは、その間にもドイツ語で何やらまくし立てていた少年が次に発した言葉に、思い切り噴出した。

「じょせいのあたまをたたくなんて、おとこのかざかみにもおけません!」

 ぶほっと。二人の声が重なり、一人の小宇宙が怒りで燃え上がった。ごっそりと表情が抜け落ちたアルバフィカの姿に、子供の声を聞きつけてやっと追いついた迎え役の白銀聖闘士が蒼ざめる。それぞれに違った反応を示された子供は、興奮に頬を真っ赤に染めながら、戸惑いと共に周囲の人々を見回した。

「カ、カール様っ!」

 もはや悲鳴と言っても過言ではないほどの白銀聖闘士の窘める声に、カールと呼ばれた次代山羊座はぷくりと頬を膨らませて己の正当性を主張する。

「わたしはまちがったことはいってません! じょせいにぼうりょくをふるうなど……!」
「あははははははははっ!!」

 さらに笑いを誘われて、フーガとは馬鹿笑いを響かせる。アルバフィカはというとより一層小宇宙を燃え立たせ、噴出した熱気に陽炎と薔薇の香が揺れた。ゆらりと掲げられた、土に汚れた白い指の先に、白い薔薇が現れる。衝動のままに笑い転げていたフーガはぎょっとして笑いを引っ込めた。

「ブラッディ……!」
「わーわーわーっ、やめろアルバフィカッ! いくら何でもそれはダメだ! 次代の山羊座殺す気か!?」
「放せフーガッ! この僕が女だとっ……!?」
「あはははははは、は、……っは、腹痛ぇ……!」

 今にも白薔薇を飛ばさんばかりのアルバフィカをフーガが必死に押さえ込む横で、は腹を抱えながら息を切らせる。仮面で巧妙に顔を隠しながら目尻に浮んだ涙をぬぐい、大きく深呼吸を繰り返して、笑われ続けて泣きそうになっている子供と、うろたえっぱなしの白銀聖闘士に向き直った。

「あー、笑った笑った」
「あ、あの……」
「ん?」
「わたしはなにか、おかしなことをいいましたか……?」
「いや、何も間違っちゃいねぇよ。女性は大切に扱わなきゃなぁ。ただ……」
「ただ?」

 くつりと、は再び咽喉を震わせて、子供の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「私は女、あそこで暴れてる外見美少女は正真正銘、まぎれもなく男だ」
「え……?」
「聖闘士には女も何人かいてな。その女聖闘士は仮面の着用が義務付けられている。教皇以外の人間が仮面をしていたら、それは大概女の聖闘士かその候補生だ。覚えとけよ、ガキ。外の常識はここでは通用しねぇぞ」

 ふんっと鼻で笑って、子供の額を弾く。かなり手加減された、それでも衝撃と痛みを感じた額を押さえながら、子供は目を白黒させて、の言葉を咀嚼していった。そして理解するにつれ、羞恥と目の前の少女に無礼を働いたことへの焦りや色々な感情が混ざり合って、全身をリンゴ以上に真っ赤に染める。碧色の瞳が、今にもこぼれ落ちんばかりに潤んだ。

「あ、う、あの、あの……」
「うん?」
「ご、ごめんなさい!!」

 必死とも言える謝罪の言葉に、は仮面の奥で面白そうに目を細め、アルバフィカはようやっと綺麗なくせしてえげつない凶器を消した。フーガと、白銀聖闘士の安堵の息が重なる。

「別に気にしちゃいねぇさ、私はな」
「……僕も。すぐに謝ってくれたし」

 子供の縋るような視線にそっぽを向いて、不機嫌そうにしながらも、アルバフィカは謝罪の言葉を受け入れる。少しだけ、子供の表情が和らいだ。

「さて、時間は大丈夫か?」
「え、は…あぁっ、カール様急いで参りましょう! 御前失礼致します、様、アルバフィカ様、フーガ様!」
「ほ、本当にごめんなさいっ!」

 白銀聖闘士に手を引かれて、慌しく駆けて行きながら、子供が懸命に振り返ってもう一度謝る。ひらひらと手を振り、は声を弾ませた。

「面白そうなヤツが来たな!」
「そう……?」
「面白そう、っつーか、いじりがいが有りそうっつーか。エリアーデが喜びそうだよなー」
「うん」

 女と間違われた事が尾を引いているのか、あの少年をが気に入ったことが気にくわないのか、アルバフィカはへそを曲げたままで言葉少なに応える。は先ほどの笑いがぶり返しそうになるのをこらえて、わしゃわしゃと砂の絡んだ髪を撫で回した。ぱらぱらと、砂粒が落ちる。

「ほら、拗ねてないでとっとと戻るぞ。黄金聖闘士勢揃いで新たな同朋を迎えなきゃならねぇんだからな」
「そうそう、傷の手当てと身支度もしなきゃなんねーし」
「わかってるよ」

 髪に触れられて手を引かれて、やっと機嫌を直し始めたアルバフィカは、引かれた手を引き返して、先頭を走るフーガの後を追った。






 天にも届くのではないかというほど、巨大で荘厳な両開きの扉が、長い長い階段の果てにそびえ立っていた。十二宮の最上に立つ女神の彫像にも息を呑んだが、この巨大な扉にも充分驚いた。己が生まれ育った屋敷と、父に連れられていった主人の城だけが『世界』だったカールは、この聖域に来てからというもの、驚きっぱなしである。
 この扉の先に、カールのこれから先の人生がある。緊張で渇く口の中で必死に唾液をかき集め、無理やり飲み込んだ。
 開門という声と共に、石のこすれる音が響き、重々しく扉が開く。その扉の向こう側から、黄金に輝く光があふれ出してきたような気がして、カールは目を細めた。
 縦に長い部屋の奥、一段高い所に、仮面を被った男性が座している。彼のまとう空気は叡智に富んでおり、長い年月とそれに伴う経験をその身に積んでいる事が伺えた。そして彼の元へと道を作るようにして並んでいる11人の黄金の鎧を纏った人たち。太陽の光を受けてキラキラと輝く鎧に、扉を開けた瞬間に溢れ出してきたかのように見えたものの正体を知った。そして彼らから一歩引いた所に、薄葡萄の髪を持つ絶世の美貌の持ち主と彼――仮面をつけていないので、あの少女の言葉通りならその認識で正しいのだろう――の腕に抱かれている場違いとも言える朱色の髪の、カールより幼い、本当に小さな子供。
 何故こんな所にいるのだろうと首を傾げながらも、カールは多くの神官や11人の黄金聖闘士達の視線が集まる中、白銀聖闘士に促され、謁見の間の中へと足を踏み出した。
 否応無く、カールの中の緊張は高まる。震える足を叱咤して、玉座の元へと近づく。そして、玉座の最も近い所につい数時間前に偶然にも見知った顔を見つけて、あっと声を上げそうになった。神聖なほどの静けさに包まれた広間に響きそうになる声は何とか形になる前に抑えたものの、驚きは素直に表に出てしまって折り、丸い目はさらに丸くなっている。
 フーガはそれを見て楽しそうににっこりと笑みを浮かべ、は仮面の下で口角を吊り上げた。アルバフィカは幼馴染二人の心底面白そうな気配に若干ぶすくれており、薔薇の蕾のような唇がきゅっと引き結ばれている。
 一段高い所から彼らの様子を見ていた教皇は、仮面の奥でくいっと片眉をはね上げた。どうやら事前に顔を合わせているらしい。山羊座の子供が聖域に入ったのはそう前の事ではないというのに、いつの間に。この顔見せで次期教皇としてのを印象付けようと計画し、そのためにいつも通り十二宮順に聖闘士達を並べる事無く新旧に分け、弟子を取る当の山羊座を除き新しい聖闘士達を傍に置いたというのに。早々にその計画が頓挫したらしき気配に、内心舌打ちをかました。
 一瞬、の背筋に寒気が走る。反射的には教皇を睨み、教皇は仮面を突き破って飛んできた射殺されそうなほど鋭い視線を受け流しながら、何故ばれた、と背筋に冷たい汗を流した。それでも何事も無かったかのように教皇は身じろぎ一つせず、目前まで歩いてきた子供に重々しく口を開いた。

「よく来た、次代山羊座の子供よ。私は教皇セージ。お前の名は?」
「……こうしゃくけにつかえしきしがちゃくなん、カール・ラーファエル・クレヴィングともうします」

 緊張に震え、かすれた声が答える。久方ぶりに子供の子供らしい態度を見た気がして――何せは例外だし、フーガとアルバフィカは少しは子供らしさが残っているものの、彼女に置いて行かれまいと必死で精神年齢を引き上げようとしている――教皇の口元が僅かにほころんだ。

「うむ。この聖域と女神のことについては、道中聞いておろう」
「はい。わたしのもてるすべてをもって、おつかえするしょぞんです」

 頬を紅潮させ、心底誇らしそうにそう口にする、教皇は鷹揚に頷いた。実は事前の教育という名のすりこみが成功して安堵しているだなんて事はおくびにも出さない。過去の苦い経験に、教皇は彼を迎えに行く役目の者が思わず引いてしまいそうな気迫で以って、女神の素晴らしさを教え込むよう言い聞かせていたのだった。
 幼い子供の宣言に、教皇の失敗例たるフーガは苦笑を浮かべる。ようやっと、まとも、と言える聖闘士が出てたのだ。教皇も嬉しかろう。
 信条を見透かされている教皇はフーガを横目に見、再び口を開いた。

「山羊座を守護星座とするお前には、現山羊座たるパーンを師とし、磨羯宮に住んでもらう事になっている。山羊座パーンよ」
「……は」

 しばしの沈黙の末、パーンがの横から踏みだし、子供の隣に跪く。相変わらず、見ていてかわいそうなほど表情がガッチガチだ。それでも身のこなしは武人らしくありながらも滑らかなのはもはや意地か。

「黄金聖闘士がそろいし暁には女神も降臨されよう。心して育てよ」
「御意」

 頭を下げる。そして頭を上げると、恐る恐る、隣に立つ小さな子供へと視線を移した。瞬間走る緊張に、ごくりと誰かが咽喉を鳴らす。泣くか、泣かないかという変な、それでもこれからの事を考えると超重要な事柄に意識が集まる中、ただ一人事態を理解していないルヴィオラだけが、アフロディーテの腕の中で退屈そうに大きなあくびをしていた。
 緊迫した空気に戸惑いながらも、カールはきゅっと口を引き結び、パーンの厳めしい顔を見上げる。そのあまりにも真っ直ぐな瞳に、子供ではなく大人の方が狼狽し、瞳を揺らした。

「よろしくおねがいします、パーンさま」
「……ああ、よろしく頼む」

 怖がりも怯みもせず、ただ真っ直ぐに己を見つめる子供に、パーンは安堵の気持ちと共に頬を緩ませ、子供の頭を撫でた。


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