25.ドリュアスの嘆き:壱



「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」

 出口で頭を下げるクラレットに手を振り、は十二宮を上る。
 歩くたびにシャラリシャラリと羽がなるのを耳で楽しみながら、そういえば聖衣を纏って教皇の間へ行くのは初めてではなかろうかと思い起こす。
 射手座の地位を正式に賜ってからも、教皇のまで書類を整理したり案件を片付けたりしていたが、聖衣では邪魔になる――何せあの翼だ――ので、新たに用意された法衣ばかりを着ていたからだ。
 最近は英才教育にも熱が入り、重要な分権を山積みにされたり会議に付き添わされたりでかなり忙しい。今回の呼び出しが何かは知らないが、派手に暴れてストレス発散できるタイプのものならば大歓迎だ。完成してきたグラビティ・ギガと、もうひとつの技も試してみたい事だし。
 しかしそれほど簡単な任務ではないだろう。黄金聖闘士にまで回ってくるのだから。

「でもあまり面倒なのは嫌だな」

 ぼそりと呟く。
 風で頬にかかった髪を払い、双魚宮を見上げる。何だかバタバタとした空気と共に、薄葡萄、浅葱、金赤の三色の頭が出てきた。
 聖衣を纏ったの姿に、フーガは目を丸くし、アルバフィカは顔を険しくする。聖衣を纏い十二宮を登ることの意味を良く知るアフロディーテは内心複雑ながらも、顔だけは聖闘士のものへと変えた。
 しかし動揺は隠しきれておらず、浅緑の瞳が揺れている。仮面の奥で、密かに苦笑した。

「師匠、通らせてもらいます」
「ああ……」
、任務か?」
「たぶんな」

 詳細はこれからだと肩をすくめる。
 気をつけてという声にひらりと手を振る事で応え、は羽の奏でる涼しげな音と共に階段を上った。
 金色の翼に覆われた背を見送って、アルバフィカは唇をかむ。もうすぐ聖衣を継承する事が決まってはいるものの、それでもやっぱり、との間に横たわる差に、焦りの感情を抑えることができない。仕方がないこととわかってはいても。
 目線を地面に落とし、拳を握り締めるアルバフィカの肩をフーガは苦笑しながら叩く。追いつきたいのに追いつけないその歯がゆさは、痛いほどよくわかった。

「これからだ」
「……わかってる」
「差し当たって必要なのは……」

 くるりと、弟子達は師を見上げる。二対の瞳に見つめられたアフロディーテは、にっこりと笑みを浮かべ、頷いた。






 荘厳な門の前には見張りが二人。
 の姿を認めると、既に通達が来ていたらしく、門番は一礼して謁見の間に続く扉を開けた。
 既に慣れた光景に軽く頷き、レッグパーツのかかとを高く鳴らして中へと入り、マントの裾を払って跪いた。

「射手座の、参りました」
「うむ。立ちなさい」

 互いに顔は隠れていてその内面は推し量る事しか出来ず、は特に何の感慨も沸かなかった――むしろ二百年以上生きている妖怪の考えがあっさりと知れる事の方がホラーだ――が、教皇は、聖衣を纏っての呼び出しに何の気負いもしていない事がわかる少女に、心底感心していた。
 聖闘士の中にあっても、この少女は特に異質と言える。だが、聖闘士や神に仕える闘士たちはえてして特異な存在であったし、聖戦を控えているこの世代にこうも肝の据わった存在があることは、それだけで大変頼もしい。期待以上に育ってきている己の後継に顔をほころばせ、この世界では大して珍しくもない奇怪な事件が綴られた書類の束を差し出した。

「任務の詳細はそこに書かれてある。今日か明日のうちにはその地に向かえ」
「御意」

 やけに量のある書類に仮面の奥で肩眉を跳ね上げつつ、は優雅な物腰で礼を取る。軍人と言うよりも貴族的な色合いの強いその身のこなしは、王侯貴族に対することもあるが故に身につけざるを得ない教養の賜物だ。
 この上ない親馬鹿ではあるが、師としては一流だったようだと、現魚座の項目に書き加えながら、早速準備の為に教皇の間から辞そうとしていたを呼び止めた。
 マントの裾と翼の先を揺らして、一瞬顔だけを向けた少女が身体ごと振り返る。

「何か」
「ハプスブルク家をマリア・テレジア皇女が継ぐ事になりそうだ。お前はどう見る」

 マリア・テレジア。
 オーストリアの女帝。マリー・アントワネットの母。
 オーストリア継承戦争かと唇だけで言葉をなぞり、目を細める。マリア・テレジアが王位に吐いた事で始まった戦争で、多くの国を巻き込んだものとなったはずだ。その結果、肥えた農業地帯と石灰・銅などの鉱産を持った工業地帯でもあるシロンスク――シュレジエンを失った。
 この時間軸でもそうなるのか、それともマリア・テレジアが快勝するのだろうか。星見をすればある程度の動きは予測できるのだろうが、それでは面白くないので、滅多な事ではは意図を持って夜空を見上げる事はしない。
 けれど、これだけは言えた。

「そうですね……。女性が王位につくことを理由に、領土の狙う国も出てきましょう。戦争は避けられないかと……オーストリアから依頼でも来ましたか、その件で」
「いや。……だがもしそうだったとしたら?」
「当初から聖域に手助けを求めるのでしたら、所詮それだけの器だったと言う事でしょう。王位など早々に手放した方が本人と国の為かと。受ける異議はないと思います。もし聖域が介入するとしたら、もう少し先の話でしょう。今ではありません。あってはならない。違いますか?」
「まさに」

 聖域はただの武装組織ではない。聖闘士は女神を守るため、そして彼女の正義を体現するためにある。時折国や戦争に介入する事もあるが、あくまで組織を守るための自衛手段だ。
 小宇宙を用い、あるいは利用し、自ら干渉することは決してあってはならない。もし力を貸す場合、絶妙なさじ加減が必要となる。その辺りは教皇の手腕の見せ所だ。例外はままありはするが。

「それでは」

 もう一度優雅に腰を折り、は教皇の間から出て行く。
 そのどこか慇懃無礼な態度を歯牙にもかけず、教皇は己が後継の出来に満足した。


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