25.ドリュアスの嘆き:弐
場所はプロイセン王国――今で言うドイツのあたりの――森林地帯だ。
プロイセンは後にオーストリア継承戦争でシュレジエンを手に入れるはずの国である。現在はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が王位についているが、持病の水腫が悪化しているらしく、代替りも時間の問題だろうと達は見ていた。
本来このような情報は大体において遮断されてしかるべきものなのだが、常人レベルの警戒網ではやはり聖域の間諜を遮る事は出来ないらしい。情報が得たい放題である。
対して、聖域には女神の加護があるために、関係者でもない限り聖域に入ることは出来ないので他国と比べて警戒がゆるい。一般人が入ってくることなど万に一つの可能性でしかないのだが、それにしたってこれでは穴が開きすぎだろうと、聖域の防諜体制の現状を知った時、が思わず頭を抱えた事は記憶に新しい。
今現在はの指揮によって改められてはいるが、何分旧体制が長々と続いていたために意識の切り替えが上手くいかず隅々までいきわたっていない。だがしかし、それも計算の内。これからびしばしと教育を施して小さな穴から一つずつ埋めていけば良い話だ。
時間はそれなりにかかるだろうが、教皇やらそっち方面に明るい聖闘士連中や神官に手伝ってもらえば、かなり短縮できるだろう。
多忙な教皇には鬼のような話だが、のモットーの一つは「立ってるものは親でも使え。それが教皇でも使える人間は酷使しろ」である。実際射手座就任前のドタバタでは実行に移していた。
が「私の手足となってガンバレ」と仮面の奥でイイ笑顔を浮かべたとき、その対照となる者たちは悪寒がしたとかしなかったとか。
それはさておき、今回の任務。予想したとおりになりそうでは嫌々資料を読み進めていた。
ことの起こりは二ヶ月前。いつものように森に入った男が、いつまで経っても戻ってこない事から始まった。他にもあったのかもしれないが、はっきりと確認されたのはこの時が最初である。
一日たち二日たち、心配した村の男が、いなくなった男を探して森に入ったが、これまた帰ってこず、その後同じように森には一男も戻ってこない。
男だけではなく、女もまた同様で、行方不明者は既に全ての被害者を合わせて100名弱にも上るという。
そして行方不明者が出た村に住む聖域の関係者がこの異常事態に気付き、聖域に連絡し、既に青銅と白銀の聖闘士が何名か派遣された。彼らの中には行方不明者も出ず、調査は順調のように思われた。
「が、三度目に森に調査に入ったっきり帰ってくることはなかった、か」
教皇から渡された調書やら途中報告書やらを放り出し、小さく息を吐く。森に住み着いた賊の類かとも思ったが、どうやら違うようだ。聖闘士崩れが係わっているのでもない。
むしろそうでなければいいなと思っていたから嬉しいが、来る途中に件の森を除いてみた限り、厄介事の臭いがぷんぷんしていた。
単純に叩いて終わりって事にはならないだろう。だからこそ、黄金聖闘士が派遣されてきたのだが。
仮面を外してこめかみをもむ。失敗させる気は微塵もないが、厄介事にかなりの労力を必要とするだろう事が目に見えており、頭が痛かった。
「射手座様、食事の用意が整いました」
「…今行く」
扉を叩く音と共に聞こえてきた緊張気味な男の声に、は仮面を付け直しながら応えた。
教皇から任務を言い渡された後、はクラレットの手を借りて必要なものを手早く纏め、任務地であるドイツの村に来ていた。
初めての任務ということもあり、クラレットが始終心配そうにしていたのが酷く印象に残っている。一番騒ぎ出しそうな師匠を筆頭とした双魚宮の住人が随分と大人しかった事が意外であったが、射手座を選定した日から徐々にではあるが変化してきた周辺の環境の一部だろうと、はあまり気にしていなかった。むしろ、あの溺れそうになるほどの過保護さを思えば喜ばしい限りだ。諸手を挙げて歓迎した。
実際のところ、対等の立場に立つまではと奮起し、今まで以上に修行に打ち込んでいるフーガとアルバフィカに付き合い自粛しているのと、あの日の前日に巨蟹宮の主に窘められたからで、内心は皆心配でぐるぐるしているのだが、そんな事をが知るはずもなかった。
とにもかくにも、皆一様に心配だと語る目に見送られて連絡のあった聖域の協力者の元へ来たのだが、やはりというか何というか、最初は不安と言うか怪訝な顔をされてしまった。
ばっちり表に出された感情を読み取ってしまったに、彼らは即座に頭を下げてきたが、無理もない事だと手を振り気にしていないことを伝えた。
黄金聖闘士射手座のと名乗る事を許されているとはいえ、の肉体はまだ八つ。まさか彼らもそんな子供が来るとは思っていなかっただろう。背に背負った聖衣箱がなければ、信じてもらえなかっただろう事も想像に難くない。
呼べば来るのだからいらない、と突っぱねたに、押し付けるようにして聖衣を持たせてくれたクラレットに感謝しなければ。
優秀な従者に機嫌を良くしながらも、あまりにも幼いといくら黄金聖闘士とはいえ、間に人を挟み、こなさなければならない任務はあまり向いていないと教皇への報告に付け加える事を心に決める。
出来ない事もないが、場面によっては使い分ける必要があるだろう。まぁ、その辺りはあの狸ジジイもわかっているとは思うが。
しかし、それならそれで何故私が、と聖域に来た時から何度となく繰り返してきた言葉を口にしていたのだが、それに関しては協力者の家に迎え入れられてから気付いた。
は幼い。故に教皇はの黄金聖闘士としての地位を確固たるものにするために、白銀や青銅が失敗した任務の後任に就けたのだろう。どうせ本人に聞いてもそらっとぼけるか、意味深な笑みを口元に浮かべるだけで答えてくれないのだから、問いただすなどと言う無駄な努力はしないけれども。おそらく、この推測は間違ってはいまい。
「何だか年を取る毎にあの妖怪もどきの思考に近づいていっているような……」
だんだん妖怪もどき、もとい教皇の考えが読めてきているのがその証拠である。何の冗談だ。トリップして転生してしかも記憶つきで黄金聖闘士になんかなってしまっている、少々どころかかなりぶっとんだ経験を否応なしに積んじゃってはいるが、人間を捨てている気はないし、これからも捨てる気はない。光速で動けるけど。素手でクレーターを作ったり出来るけど。絶対…たぶん、もしかしたら。
「……そうだといいがな」
聖闘士やってる以上望みは薄いが、思うだけならタダ。誰も文句など言わない。
「何か仰いましたか、射手座様」
「いや、行方をくらましたものが無事でいるといいと思ってな。多少の怪我ならば、私がどうにかできるだろうし」
うっかり口にしてしまっていたらしい言葉に、不要と思いつつも余所行きの口調と愛想笑いでフォローを入れる。
笑顔の方は仮面で見えなくとも、大事なのは雰囲気だ雰囲気。
案の定、余裕の見て取れる射手座の少女の言動に協力者の家族の大黒柱は目を和ませ、少々情けない顔をして頷いた。
とんでしまった思考を誤魔化すための台詞であったとしても、一応それは本音の一部である。もっとも、その対象は森周辺の村の住人ではなく聖闘士たちの方だが。聖衣や聖闘士の数はただでさえ限りがあるのだ。迷惑極まりない聖戦があるのが十数年先の事とはいえ、このようなところで聖衣や技をなくされては困る。もっとも、聖闘士たちの生存率はかなり低いかもしれないが。
そんな打算的な考えを仮面で遮り、新たに追加された報告書をぱらりとめくった。
「それで、現在森は封鎖されている状態なのだな」
「はい。しかし、忠告を信じず度胸試しに密かに入ろうとするものもいるようで……」
「何つー無謀な……」
あれか。駄目だと言われれば余計にやりたくなる天邪鬼の心理か。黄金聖闘士(私)が出張ってくるような事態だというのに避けるどころか自ら赴くか。何と迷惑な。
額を押さえて唸るに、男は自分がやったわけでもないのに非常に恐縮してしまった。
「申し訳ございません」
「……あなたが謝る必要はない。ただ、これ以上犠牲者を出さないためにも、森に入る者がいないよう、しっかりと見張りを付けていただきたい。近隣の村や町にも通達を」
「はい」
「私はこれから森へ……」
男が神妙な顔をして頷き、が皆まで言う前に玄関の扉が物凄い勢いで開かれ、顔から血の気を引かせた村人が飛び込んできた。
嫌な予感が、ひやりとの首筋を撫でる。
「大変だ! ヘンリックの所のガキが森の中に入って行ったって……!」
頭が痛い。
絶望的な表情を浮かべる男達を横目に、は額に青筋をこさえておろかな勇者に罵詈雑言と言う名の賞賛を浴びせるのだった。
ちょっとした豆知識(?)
オーストリア継承戦争の際のプロイセンの王はフリードリヒ1世の息子、フリードリヒ2世。
彼の正妃はエリーザベト・クリスティーネ(後にフォン・ブラウンシュヴァイク=ベーヴァンと続く)で、美しく信仰心厚く善良な人柄で、夫の好みに沿うために頑張った奥さんでしたが、まったく顧みられなかったといわれています。
何てもったいない……!
ちなみに同じ名前の方(最後がヴォルフェンビュッテル)が一人。
この方は彼のマリア・テレジアの母君で、プロイセン王妃の母方の伯母に当たるそうです。
つまり、彼女とマリア・テレジアは従姉妹同士になるわけですね。
ヨーロッパの王族は複雑に婚姻関係を結んでいますから、把握するのは大変です。かくいう私も把握してません。
あともう一人エリーザベト・クリスティーネさんはいますが、この人は彼女の姪っ子です。
なんでこんなに同じ名前ばっかりつけるんでしょうね……。
|