25.ドリュアスの嘆き:玖



「つ、疲れた……」

 ベッドの上に突っ伏し、吐息混じりに呟く。その声はぐったりとしており、まるで覇気というものがなかった。
 しかしながらそれも仕方ない事だろう。あのドリュアスとの戦闘後に待ち受けていたのは、男の棺の再びの埋葬に、犠牲者の身元確認及び埋葬と言った雑事だった。犠牲者の身内の多くの者が泣き崩れ、礼を言われたりなぜもっと早く来てくれなかったのかと詰られたり、当然の如く犠牲者の埋葬を手伝ってくれると思っている村人にそれは仕事の内に入ってねぇと思いながらも、聖域の印象を悪くするわけにもいかないので嫌々ながら――けれどそれは決して表には出さずに――手伝ったり。それはもう予定外の気力体力を使ってしまった。今日一日で。
 まぁ、一人の欠けもなく発見できたのは良い事なのだが。一人の欠けもなく。
 その中には、五十年ほど前に殺され、あの木の根元に埋められていた女性も含まれていた。さすがに全ての骨を回収することは不可能だったが、頭部や腰といった大きな部分は残っていたので、集められるだけ集めて、今は男の墓の隣で眠っている。この女性の骨を埋葬するに当たり、男の罪が白日の下に晒されることになってしまったが、これはもう仕方のないことだ。とりあえず、男の墓にはご愁傷様と手を合わせておいたが。まぁ、これで男と同じような罪を犯す者は今後しばらくはこの森周辺では出てこないだろう。
 収穫としてはそんなものか。
 は本日何度目かのため息をつく。そしてうとうとと目を閉じ、夢の中へと片足を突っ込みかけた時、ふと感覚に何かが引っかかった。それが何なのか、は知っていた。重いまぶたを押し上げて、パンと顔をはたき意識を覚醒させる。そして、近くに放り出してあった仮面を掴んだ。





 森の中の空気は清く澄んでいた。木と葉と土のむせ返るような香りも、厳かな静けさも、つい先日と同じ道を辿ったときと変わりはない。けれど、森を蔽っていた重苦しいような空気は消え、密やかに女神の聖鳥たる梟の鳴き声や、虫の鳴く声がの耳を打った。より濃い、生命の息吹が、森の中には満ちている。

『アテナの聖闘士』

 涼やかな声が、頭の中に響く。肌に触れる生命の気配に感じ入っていたは、はっと意識を引き戻し、燐光を放つ木へと視線を投じた。
 キラキラと光が寄り集まり、葉を冠した乙女の姿が現れる。その表情に憂いと苦悩の影はなく、柔らかな笑みを湛えていた。

「ドリュアス殿」
『貴女は嘘つきですね。破壊しかできぬなどと……まさかあのように、あの子を救って下さるとは思いもよりませんでした』

 くすくすと笑いながら、そうを詰る声は柔らかい。は仮面の奥で目を伏せる。

「偶然です。ただ運が良かっただけに過ぎません。それに、彼女の木は根こそぎ……」
『それでも、あの子の魂を開放してくださった。礼を言います、アテナの聖闘士』
「礼など……」

 頑なに礼の言葉を受け取らないに、ドリュアスは困ったような笑みを浮かべ、小首を傾げた。

『納得できませんか?』
「納得……そう、なのかもしれません。あまりにも、終わりがあっけなさすぎて」
『それを見越して、棺を持ってきたのでしょう』
「多少は。しかしそれは最善の予想でしたので、正直、もう少し手間がかかるものだと思っていました。けれど彼女はあまりにも純粋だった」

 取り込んだ人の魂も、ドリュアスであった彼女自身も。純粋すぎて、一人の男への愛に狂ってしまうほどに。その心の動きは、想像することは出来ても、全く以って理解しがたいものだ。
 それは、がまだ一度も、そういう意味で人を愛したことがないからだろうか。いや、とは首を振る。きっと、愛していても、彼女の想いを理解することなど出来まい。それほど純粋でもなければ、己の感情に素直になりきれるような性格ではないことを、はよく知っていた。けれど、それでも、咽喉に小骨が引っかかったような不快感を感じるのは何故だろうか。
 ぐっと眉間に皺を寄せ、大きく息を吐く。そうして、は胸の中に湧いてきたその不快感を押し殺した。今は目の前の精霊と話している最中だ。意識を切り替えなければ。

「しかし、私がどう感じたとしても、もうこの件は終ったこと。私の取った行動が貴女のお気に召されましたのならば、それでよかったのだと思うことに致します」

 己の中で決着をつけ、感情と共に薙いだ小宇宙と、落ち着いた声音でやっとドリュアスからの礼を受け入れたに、ドリュアスは穏やかな表情でそっと頷いた。

「それでは、御前失礼致します」
『待ってください』

 優雅で隙のない物腰で礼をとり、マントを翻して去ろうとしたの背に、ドリュアスの制止の声が投げかけられる。まだ何かあるのかと振り返ったの顔には、仮面で隠れて見えてはいなかったが、早く帰って寝たいという思いがありありと浮んでいた。しかしそんな考えを露ほども仮面の外に出す事はせず、体ごと美しき緑の乙女へと向き直る。

「何か?」
『これを』

 首を傾げるの前に、ドリュアスはその蒼白い両手を差し出す。訝しそうにドリュアスの手の中を覗き込んだは、そこにあった物に目を見開いた。に差し出された繊手。その掌の上には、赤ん坊の拳ほどの大きさの琥珀が鎮座していた。黄色い透明な楕円形の石の中には一輪の花が含まれているだけの、混じりけのない美しい宝石だ。どこかで感じた事の有るような波動を持つそれに、は瞬き、ドリュアスを見上げて視線だけでその存在を問うた。

『あの子が、貴女に残して逝った物です。長き苦しみからの解放の礼にと』
「…礼ならば、既に頂きましたが」

 礼を言う、と満ち足りた笑みと共に。どこか呆然とした響きを持つ少女の声に樹木の精霊は優しく微笑んだ。

『あの子は心から感謝していました。どうか受け取ってあげてください』
「はぁ……」

 一度礼を受け入れたからには固辞するのも失礼に値すると思い至り、複雑な心境のままに曖昧な返事をし、大粒の琥珀を受け取る。小さなの手の中にあるそれは余計に大きく、なおかつより一層美しく見えた。審美眼がそれほど確かでなくてもわかる。これは超がついてもまだ足りないほどの高級品だ。が持っていていいような代物ではないし、殺すつもりで行動していた人間に与えるにはかなり過分ではなかろうか。
 ずしりと手中に収まった宝石に戸惑っているを尻目に、その原因となったドリュアスは至極満ち足りた顔をしたかと思うと、『では確かに渡しましたよ』と言うなり、樹に溶け込むように消えてしまった。
 言いたい事を言って、無責任に消えていったドリュアスに、やはり神は――彼女は精霊だが――自分勝手でわがままな存在だと、某作品で某キャラが口にしていたような感想を胸中で漏らす。そして万感の思いがつまったため息を盛大についたのだった。






 森から借りている部屋へと戻り、泥のように眠って。
 しっかりと前日の疲れを取ったというのに、もう帰るだけという段階で村の人間にしつこいくらい引き止められてしまい、余計な体力を消耗してしまった。もう何度目か分からぬほどのため息をついてテレポートで聖域へと帰ってきたは、女神神殿まで続く長ーい階段を見上げて、仮面の下で顔をゆがめる。
 切実に癒しが欲しい。見るだけでも疲れてくる十二宮を前に心の中で呟く。しかしながら、が求めるその癒しの対象は十二宮の一番上を住まいとしており、癒しを求めようと思えばそこまで上らなければならない。そして己の守護宮に帰るためにも。まぁ、任務の報告をしなければならないので、嫌でも双魚宮の上にある教皇の間まで上っていかねばならないのだが。
 
「はぁ……」

 嫌だ嫌だと心の中で愚痴っていても何の糧にもならない。これも渡さねばならないし、と荷に入れるのも不安で持て余し気味に懐に突っ込んだ大粒の琥珀を聖衣の上から押さえ、心持ち気を引き締めて階段へと足をかけた。
 帰還の挨拶を宮に残っていた何人かの人々と交わし、淡々とは上へと上がっていく。
 ちょうどシエスタに入ったくらいの時間帯なのか、下と比べて静かな十二宮は、強くなってくる日差しの中、よりひっそりと静まり返っていた。それは女神の治めるべき聖域であることもあり、あの森の荘厳さを僅かに思い起こさせるような静寂であったが、この場所はあの森と比べて、生命の気配がとても薄い。草と土の湿ったむせ返るような匂いもなく、ただ乾いた風と、遠く潮の香りが鼻をつく。けれどそれは、が五年という短くも長い時間の中で馴染んだ香り、そして気配だ。
 意識せずとも生命が肌へと触れてきたあの森は生気に満ち満ちてはいたが、溺れてしまいそうなほどのそれは少し息苦しくもあった。故には、肌が、心が馴染んだこの場所に安堵する。
 ほっと息を吐いて、は一度足を止め、人馬宮を見上げる。宮の中で忙しそうにくるくると動き回っていたクラレットがの帰還に気付き慌てて出てこようとしたが、教皇の間へ直行するので出迎え無用の旨と、持って帰った荷だけを置いていく事を小宇宙通信で告げた。すぐに了承の返事が来ては一つ頷き、そしてふと思い出したように一つ仕事を付け加える。

――ああ、風呂の用意も頼む。ちょっと熱めのお湯で。
――はい、かしこまりました。

 少しばかりその声が弾んでいることに気付いたのか、応えるクラレットの声は微笑を含んでいた。そんなにあからさまだっただろうか。それとも、あの従者の細やかさ故に気付いたのだろうか。他愛のない疑問に小首をかしげながら、は最後の踊り場へと足をかける。
 すると、神殿の形を模した双魚宮の入り口から、未来の同僚の中では今最も馴染み深い小宇宙の持主が飛び出して来た。浅葱色の癖毛がふわりと風になびいて、柔らかな軌跡を描く。愛と美の女神アフロディーテに祝福を受けたような愛らしい――数年後には間違いなく師と並ぶかそれ以上の絢爛たる美貌の持ち主へと成長するだろうが、今はまだそう表した方がしっくり来る――花のかんばせを歓喜に輝かせて、一直線にへと走りよった。
 それは飛びつかんばかりの勢いであったが、少年は少女の手前で急ブレーキを効かせ、数歩ほど距離を置いて止まる。

「ん、と……」

 大きく息を吸い込んで、それでも言葉が出てこないのか、ぱくぱくと口を開閉する。そんな少年の後ろからはのんびりと金赤色の頭をした年上の弟弟子が歩いてきていた。が視線を向けたことに気付いたフーガがひらりと手を振るさらに後ろでは、絶世の美貌を持つ師が、眉間に皺を寄せた巨蟹宮の主に口をふさがれ羽交い絞めにされてもがいている。
 全く以って変わらない日常の風景にくすりと笑みを零して、は仮面を取り、未だ言葉を探している少年へと先に言葉を贈った。

「ただいま、フィー」
「……っおかえり、!」

 薔薇色に染まった頬に浮かべられた心底嬉しそうなアルバフィカの笑みと、口々に続いた迎えの言葉に、今更帰って来たことを実感した。






「……以上です」

 白いマントを石畳へと流し、片膝を付いて礼を取りながらの報告に耳を傾けていた教皇は、朗々とした声がそう言葉を締めくくるのを、歓喜と悲哀、半々ずつで聞いていた。歓喜は、新しく黄金の聖衣を受け継いだ少女が、完璧と言っても過言ではない形で任務を終えて来たことに対して。そして悲哀は、彼女以前に任務に就いた聖闘士たちが命を落していたことに対して。
 予想していたこととはいえ、若く未来ある者たちの死は、教皇の心を哀惜の色に染めた。玉座に就き、教皇と呼ばれるようになって二百年以上経つが、自らが与えた任務によって同胞たる子供達がその生命を散らしていくことに慣れる事は無かった。長い時間の果てに感情を制御する術は随分と上手くはなったが、それだけだ。重い教皇の仮面の奥で、確かに出来た引っかき傷に気付かぬフリをしながら、ひとつ大きく深呼吸をした。

「ご苦労であったな。して、殉じた者達は」
「遺体は下の雑兵どもに預け、丁重に弔うよう命じておきました。聖衣はここに。破損はいくつかありますが、修復可能な範囲であると、素人ながら判断いたしますが」
「幼き頃より牡羊座の元に出入りしていたお前の言だ、そう間違ってもおるまい。相分かった。報告書は後ほど提出するように」
「は……教皇?」
「何だ、もう下がってよいぞ」
「いや、あの、これはどうすれば……」

 の手元に大粒の琥珀を残したまま執務室へ去ろうとした教皇が、珍しくも戸惑いに声を揺らす射手座の子供に首をめぐらせる。まだまだ小さな少女の掌の上で、神聖とも言える輝きを放つ宝石に目を細め、口角を吊り上げた。

「それはお前がドリュアスの乙女より賜ったものであろう。お前の手元に置いておくが道理」
「しかし、私には過分です」
「ならばそれにつりあうよう己を磨くのだ。よいな、それはお前の物だ。それに……」
「……それに?」

 意味深に言葉を切る教皇に、嫌そうに顔をしかめながらも、は続きを促した。

「望まぬ者の手に渡れば、どのような呪いが降りかかるか分からぬであろう」

 それはどちらにですか。
 イイ笑顔で――見えなくとも予想できる――言い放つ教皇に、内心クソジジイと罵りながらも、怒るだけ労力の無駄だと感情を受け流す。
 それすらも見透かしているだろう教皇――と書いて妖怪と読む――のご機嫌な様がうかがえる背中と手元に残った大粒の琥珀を見比べ、どうやって保存しよう、と新たな問題に頭を抱えるのだった。




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あとがき

 や、やっと、おわ……!!!
 長かった、長かったですのことよ! 始めた当初はこんなに続くとは思いませんでしたよ、これっぽっちも。
 もう何ヶ月経ってんですか、これ始まってから……(チェック中)……三月頭……半年!?
 はわわわわわわ……えと、あの、なんていうかその、申し訳ございません。(平身低頭)
 次からは新しい展開というか続きに入っていきますので、これからもよろしくお願いいたします。
 もう展開に悩む中篇なんかやりたくない……。


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