25.ドリュアスの嘆き:漆
若い娘が徒歩で、男がナイフ一本で行動できる範囲など、そう広いものではない。ドリュアスがさした方向にある集落は、今も昔もあの村だけだ。必然的に、娘も男も村の住人、と言うことになる。しかも美しい娘を殺してまで手に入れようとするものなど、そう多くもないだろう。富か権力か、はたまた彼女以上に美しい娘か。思いつくものならばそんなところだ。あの、特に豊かとは言えぬ村ではたいしたものではないだろうが、多少の私腹を肥やす事ならばできるだろう。
「でも理由付けとしては弱い、か」
人一人殺す理由としては、こじつけっぽい気もする。
二、三度頸を横に振り、は手にした日記帳を音を立てて閉じた。インクに少しばかり汚れた指先で前髪に絡んだ埃を落し、息をつく。一晩寝ても頭の中はさほどすっきりはせず、靄とちょっとした苛立ちが見えぬ網をかけていた。
目の前に山と詰まれた日記帳を睨みつける。ドリュアスの話を聞いた翌日、は村長に頼み、歴代の村長の日記帳をあるだけ見せてもらっていた。あまり当てにはしていなかったが、幸いにもここ100年分は残っていたらしい。もちろん所々は抜けているが、何となく、この山のどこかに求めているものはある気がした。にはそれだけで充分だった。聖闘士の勘は意外と侮れないものである。
「本当にこの中にあるのかよ……」
ぶつぶつと、文句を言いながら少年は両手で支えた数冊の日記帳をの座る机の上に置いた。重そうな音を立てて、上に乗っていた2、3冊が落ちる。ひょこひょこと揺れる金髪の持主と崩れた山のひとつに視線をやり、は新たに追加された文から一冊手に取る。そしてその倍ほどの山を指し示し、無慈悲にも片づけを命じた。
「多分な。そっちはもう片付けとけ」
「多分かよ…ってもう読んだのかっ!?」
目の前に積みあがる、持って来た山の二倍はある本の数に、呆然とする少年を尻目に、は流し読んだ一冊を山に追加した。信じられないほどの読破スピードに、少年は山の増殖具合に納得しながらも頬を引きつらせた。その心は、
――聖闘士って、聖闘士って……!
である。
ここにフーガやアルバフィカ、他の聖闘士がいれば、「いや、それ一般的じゃないから」とその認識を訂正してくれたのかもしれないが、、生憎彼の前にいるのは一人。はその表情から少年が何を考えているのかは大方の予想は付いたが、その認識にわざわざ訂正を入れるのは面倒だと関心を投げ捨てた所為で、少年の中での聖闘士の基準は彼女になってしまった。哀れなのは彼女と一括りにされたその他の聖闘士である。
「ほら、キリキリ働けよ。そのために来たんだろうが」
「わかってるよ……」
深々とため息をついて、ヨハンは積みあがった山の一つを腕に抱え顎で支えて、保管庫へと入っていった。その間にも、はもくもくと日記を読み進め、本の山の嵩を増やしていく。
こうして後先をほとんど考えず、調べる事だけに気を傾けられるのは、正直言ってかなりありがたいことだった。ドリュアスを約束した、と言う事もあるが、昨日の女の様子を見る限り、あまり猶予は無さそうなのである。あまり時間をかけてはいられない。昨日、面倒と言いつつ助けた自分と、彼を自分の手伝いにとよこしてくれた彼の母親に感謝せねば。そうそう、ついでに少年にも。
「これぞまさに情けは人のためならずってな……ん?」
ペラリと頁を捲りながら、口ずさむようにことわざを転がしたとき、やっと探していたものらしき文章が出てきた。ニヤリと、口角を吊り上げる。それによると、ある日村で一番美しい娘が突然姿を消し、その恋人であった男の嘆きようは言葉に表せないほどだった、とある。記されている年月日は、約五十年ほど前のもの。これだと、の直感が告げた。
じっくりと、はその日記を読み進める。
娘は帰ってこず、若者の憔悴は激しかったが、元から彼に想いを寄せていた村長の娘が手厚く看病し、じき立ち直ったとあった。表面だけを見れば綺麗な話のように思えるが……。
それ以上は突っ込んで書いてはいない手記を流し読む。その後、娘は若者と結婚し、村長の跡を継いで幸せになったらしい。行方不明になった娘の事は、それ以上は書かれてはいなかった。ならば、その男の手記は、と、は本の山を探った。
が。
「……ない?」
片眉を跳ね上げ、さらに山をかき回し、確認する。しかし、やはりそれは存在しなかった。
「おーい、これが最後だ、ぞっ!?」
新た日本の束を抱えて戻ってきた少年の手にあるものを、PKで全て引き寄せる。宙に舞った本に少年の短い悲鳴となにやら抗議の声が聞こえてきたが、気にも留めず、日記を書いた人物の名を確かめていった。しかし無い。見事なまでにすっぽりと抜けている。
「……なぁ、これが最後って言ったよな」
「あ、ああ。それで終わりだぜ」
本当に全部読んだのかよ、半日もかけずに100年分も読破するなんて信じらんねぇ……。
ぐったりと悪態をつく少年を右から左に流し、は唇を引き結ぶ。一番欲しいと思っている部分だけが、綺麗に消え失せているなんて。意図的な作為が、そこに見えた。それが他人の手か、はたまた日記を書いていた当人かは知れないが。しかしこの場合圧倒的に後者の方が可能性としては高い。廃棄された日記は燃やされたか埋められたか。とりあえず、人の目に付くところに無い事は確かだ。
まずい、行き詰った。
は深々とため息をつく。別に力押しで解決できないわけではないが、相手は人間の魂と同化し、頭に元とついていてもドリュアス。もしかしたら呪われてしまうかもしれない。破壊でもって救済をと言ってきたのはドリュアスの方なのだから、もし呪いにかかったとしてもどうにかしてくれるかもしれないが、言ってみれば他人に色恋沙汰。そんなものでとばっちりを食いたくはないし、呪い自体、どんな状況であれかかりたいものではない。
どうする、と艶やかな濡羽色の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、思考の海へと沈もうとした。
「なぁ」
「……何だ」
視線と共に意識を引き上げ、少年へと向ける。
己の行動を邪魔され、若干険のある目つきと声になってしまい、仮面越しでもの機嫌が悪くなった事が知れた。少女の纏う鋭いまでの気配に、少年はびくりと肩を震わせ、一歩引いてしまう。けれどそれ以上は根性で何とか踏みとどまり、意気込むように背筋を伸ばした。
「オレのじいちゃんがさ、多分だけど、何か知ってると思う」
「どういう事だ?」
「探してるのって50年くらい前の奴のだろ? オレのじいちゃん、確かその頃の村長とは友達だったって言ってたから……」
「すぐに案内しろ!」
椅子をひっくり返さんばかりに勢いで立ち上がるに、少年は首振り人形のようにこくこくと頸を縦に振った。
「奴の日記ですか……はて」
見た目70弱ほどの老人が、白くなった髭を撫で付け、皺の奥の目を細めて考え込んだ。少年の祖父は見た目にも思慮深く、どこか短絡的なところのある少年とは似ても似つかない。それは年からきている、経験を積み重ねたが故の落ち着きかもしれないが。
そっぽを向く少年を一度ちらりと横目に見て、は老人の答えを待った。
「死んだ後に燃やして欲しい、と遺言されてはいましたな」
「では、今はもう無いと?」
「いいえ、その有無を問われるのならば、残っております。しかし……」
「しかし、何ですか」
「昔から、村長の記した日記を元に、問題への対処法を決めていたので、残ってはいるのです。しかし遺言を尊重すべきだという意見から、その日記も共に葬ってしまいましての。幸か不幸か、当時はこれといった荒事もありませんでしたので」
「つまり、墓の中、という事ですか」
「このような事になるのでしたら、慣例に従って残しておくべきでしたな」
墓の中。その事実に内心頭を抱えていたは、老人の言葉を右から左へと聞き流す。
よりにもよって墓の中。ああ何故初めての任務でこうまで面倒なものに当たらねばならぬのだろうか。
はこの時、己にこの仕事を割り振った教皇に殺意が芽生えた。が、しかし、おかげで日記の有無と在り処、そしてその日記には人に知られたくない後ろぐらい何か、が書かれていることは分かったのだ。それで良しとしようじゃないか私。
沸々と湧き出る苛立ちをそう己に言い聞かせて宥め、老人と少年に礼を言い、家を出る。少年はついてこようとしたが、の「もういい」という台詞に、不承不承ながらも頷いた。
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