25.ドリュアスの嘆き:陸



 すいと、浅葱色の髪をなびかせて、アルバフィカは空を仰いだ。そのままじっと、雲が流れていく蒼穹を見つめる少年に、先を歩いていたフーガは振り返り首を傾げる。

「フィー、どうした?」
「うん……」

 生返事である。視線の先に何かあるのかと、花浅葱の見上げる先を辿ってみても、突き抜けるような気持ちのいい青空と、薄く陰のついた真っ白な雲があるばかりで、何にそれほど気を取られているのか、見当もつかない。それでもしばらく、同じように空を見上げたままでいると、「声が」と小さな声で呟いた。

「声?」
「うん。誰のものかわからないけど、声が聞こえたような気がした」
「……か?」

 つい先日、初めて任務にあたり聖域を発った少女に何かあったのでは、と、脳裏を掠めた嫌な考えに、顔をしかめ声のトーンを落して、囁くような大きさで尋ねた。アルバフィカは、そこに潜む期待を裏切る事無く首を横に振った。フーガはほっと息をつき、胸を撫で下ろす。

じゃない。でも、女の人の声だった」
「何て?」
「助けて、って」

 穏やかではない。アルバフィカが誰の声を拾ったのかは定かではないが、それが誰のものであっても、物騒な事に変わりはなかった。眉間に皺を寄せて口を引き結ぶフーガをよそに、アルバフィカはただじっと、声が聞こえてきた方向を見つめる。
 奇しくも、その方向にはが現在赴いている任務地が合ったりするのだが、その事を知りもしないままに。





 ここが本当に、あの、昼間に足を踏み入れた森と同じものなのだろうか。
 そう真剣に考えてしまうほどに、その場所は空気が違っていた。葉と木と土の香りがむせ返り、夜の冷たい大気は透明に済んで厳かな静けさを湛えている。その空気を壊してしまわぬよう、静かに歩を進めていたは、そっと深呼吸を繰り返した。
 肺の中に神聖な空気が満ち、酸素とヘモグロビンが結びついて、全身に血が通う。魂の奥でそっと、温かな小宇宙が燃えた。それに反応して、射手座の聖衣が輝きを増し、背に流れる羽が静寂の隙間に滑り込むように、しゃらりと控えめな音を立てる。
 森の暗がりを縫うようにして木々の合間を抜け、は何かに導かれるようにして、ある一本の気の前で立ち止まった。世闇で今は分からないが、おそらく灰褐色をしているだろう樹皮の立派な楢の木だ。どっしりと、大地に根を張ったその木は、他の木とは様子を異にし、淡い燐光に包まれていた。
 それはキラキラと周囲に散らばり、またすぐに集まって、ぼんやりとした光の集合体から、徐々に人に似た形を露にしていった。楢の葉を関した、緑の髪の乙女が、そこにいた。

「私を呼んだのはあなたですか、ドリュアス殿」
『はい。応えていただき、感謝します。アテナの聖闘士』

 頭の中に直接響く声。これはいよいよ、推測が事実に変わりそうである。は仮面の奥で目を細め、細く息を吐き出した。

「やはり、昼間のアレは……」
『はい。わたくしのきょうだい。かつてドリュアスであったもの』
「今は違うと?」
『人の魂と交じり合い、存在の本質を変えてしまったアレは、もはやドリュアスとは呼べませぬ。人の血肉を贄とし、生き長らえているアレなど……っ』

 震える声は、悲しみと憤りに満ちていた。人の身であれば涙でも零していたかもしれないドリュアスを見つめ、そっと目を閉じた。
 ドリュアス――そう呼ばれる彼女達は、楢の木の精である。宿主の樹木と共に生まれ、命を共にし、その木が枯れたり伐採や火災で死んだりすると、ドリュアスも一緒に死んでしまう。故に木を齧るネズミを恐れ、己が木に危害を加えようとする人間を嫌うのだ。時には斧を手に襲い掛かってくる事もあるという。
 ギリシャ神話には、こんな話も残っている。
 テッサリアの王子エリュシクトーンはある日、女神デメテルに捧げられた楢の木を切ろうとした。その樹木に宿るドリュアスはその暴挙を止めようと、木を切らぬよう懇願したが、王子は全く意に介さず、止めようとした部下を殺してまでその木を切り倒してしまった。
 この事を深く恨んだドリュアスはデメテルに彼を彼を罰するように訴え、結果王子は何を食べても飢え続けるはめになり、ついには自らの身体すら食べつくして死んでしまったという。
 この話でも分かるように、彼女達は怒らせれば怖いが、それ以外では人前に滅多に姿を現す事のない大人しい気質を持つ存在なのだ。の心当たりと引っかかりは、ここにあった。しかし、このドリュアスの話を聞き、ようやく納得が行った。

「して、ドリュアス殿。あなたは私に何を望んでおられます」
『救いを……』

 救いときたか。
 は仮面の下で顔をしかめた。それは言葉にするのはたやすく、実際に齎すには難しいものの上位に入る代物だ。

「あいにく私は破壊する事しかできませんが」
『かまいません。どうかあの子を、あの歪んだ生より解放してください。それが、人にも我らにも、救いとなりましょう』

 どうか、と哀願する美しきドリュアスに、は目を伏せたまま諾と言葉を返した。

「その代わり、何が起こったのか教えて欲しい」
『……長い、話になります』





『もういくつの季節が巡った事でしょう。覚えてはおりませぬが、随分と昔の事です。わたくしの妹……そう、あのドリュアスであったものです。彼女がまだ、我らの同胞と呼ぶ事が出来た頃、この森に、ある一人の人間の男がやってきました。手に斧を携えた男は、あの子にそれを振り下ろそうとし、あの子は己が木を守るべく姿を現しました。男は信心深い性質だったのでしょう。あの子の言を受け入れ、この森の木々を一つとして傷つける事無く、出て行ったのです』

 地に腰を下ろし、じっと耳を傾けていたは、片膝を抱えなおしそこに顎を乗せた。

「大して珍しくもない話だ」
『はい。これは神代より続いてきた事。しかし、それがきっかけだったのです。今思えば、とても重要な。止めていれば、諌めることができていたなら……』

 ゆるやかに首を横に振り、悔恨の海に深く沈んだ声色で。それはまるで懺悔のようであった。
 目の前のドリュアスの、同胞への愛情と過去への哀情に揺れる告白に、は緩やかに目を瞑り、何があったのか当たりをつけながら、続きを促した。

『詮無い事を言いました。あの子は、こともあろうに、その男に恋してしまったのです。しかし我らは人とは相容れぬ身。男はあの子の心も知らぬまま、他の娘と夫婦となり、あの子は日々をないて過ごしました』

 これもまた、よくある事だ。異なる種族間の恋には、悲劇が多く付きまとう。ドリュアスの恋も、このままで終っていれば、そんな話の中の一つに収まっていた事だろう。だが、この哀しいドリュアスの物語には、続きが存在した。
 は閉じていた。目を開き、獲物を狙うネコ科の肉食獣のように、キュウッと目を細める。

『それで終っていれば良かったのです。ですが、それから何十もの季節が過ぎたある日……』

 ドリュアスは、そこで何か恐ろしいものでも見たかのように声を震わせ、両の手に顔を埋めた。

『あの日、一人の美しい娘が、森の中に入ってきたのです。娘は誰かを待っている風情でした。その娘の薔薇色に染まった頬の幸せそうなこと。人目で、恋をしていると分かりました。あの子は当然娘に興味を持った。そして男は娘のもとへとやってきました。娘の顔は喜びに輝き、これで娘の恋は叶うのだと、あの子は喜びました。叶わぬ恋に身を焦がしたあの子は、娘に己の姿を重ねたのでしょう。ですが、……嗚呼、口にするのもおぞましい。男は、喜びに染まった美しい娘を手に持ったナイフで刺し殺したのです。娘は絶望に顔を歪めて死んでいきました。何故とうわごとのように何度も繰り返した声を、よく覚えております。そして男は、事もあろうに、あの子の木の根元に娘を埋めたのでう。そうして男は去り、あの子は……』
「絶望に染まった魂と混じりあい、その存在を歪めた、か」
『はい』
「何があったかは……」

 わからないか。その問いかけに、ドリュアスは静かに首を横に振った。最初から期待をしていなかったは小さく息を吐く。
 例の女の言葉からある程度の予測をつけることが出来たとしても、教皇への報告の事もある。知らねばならぬ事はまだあった。まずは娘を殺した男の行方か。
 内心めんどくせぇと頭を抱えていると、どこか遠いところを見ていたドリュアスが、そのたおやかな腕をすいと持ち上げ、ある一方向を指差し『ただ』と口を開いた。

『男が去ったのは、あちらです』

 は目を見開く。
 彼女が指差した方向には、今世話になっている村が存在した。



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ちょっとした豆知識(?)

 エリュシクトーンは『土地を暴くもの』という意味を持ちます。

 ドリュアスはオルフェウスとエウリュディケーの話――冥界に妻を迎えに行く琴座の神話にもある話です――にも出てきます。
 ほかならぬエウリュディケー(意味は広き正義)がそのドリュアス。彼女の死を悼んだドリュアスが、彼女が死んだ原因となった男アリスタイオス(養蜂家の租と言われている)を恨み、彼の蜜蜂を全滅させたという話もあります。

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