25.ドリュアスの嘆き:伍



 何なのだ、アレは。
 屋根の上に腰を下ろし、夜空に散らばる星々を眺めながら、は胸中でごちた。
 昼間、一人の人を抱えて攻撃を避けながら空を飛ぶことを面倒がった――それ以前にその行為が危険極まりないのだが、の優先順位は前者の方が高い――がテレポートで村に帰ると、村人の歓声と安堵の為のすすり泣き、そして感謝や驚愕といった感情に迎えられた。
 その中に、テレポート酔いか乗り物酔い貸した子供を放り出してから今まで、の脳裏を終始占めていたのは、冒頭のような疑問だった。いや、厳密に言うと、知りたいのは例の女の正体ではなく、そうなるに至った過程だ。女の正体が何であるか、という根本的とも言える問題には、確かめてはいないので未だに推測の域は出ないものの、その答えに心当たりがあった。

「また私から奪っていくのね……か」

 昼間の女の言葉を呟く。おそらく、今回の事態の鍵は、そこだ。これは明日にでも調べる必要があるだろう。本当は今すぐ調べたいが、もう夜は遅い。それに、急いては事を仕損じる。
 一つ厄介ごとが片付いたと思ったらまた新たな問題が出てきた事に頭をかき、大きなため息を盛大に吐き出して、は顔の横に垂れる一房の髪を指先ではねた。

「あ、こんな所にいた!」

 ああもう面倒臭い、と仮面の下でぶつくさ呟いていると、くすんだ金色の頭がひょっこりと現れて、そんな言葉を発した。声変わりを迎える前の高い少年の声だ。その声に、昼間耳元でわめかれた事を思い出し、は眉間に皺を寄せる。
 少年はの放つ、微妙に黒くなり始めたオーラに気付く事無く、何故こんな場所にいるのだと愚痴を零しながら、必死に屋根の縁にしがみついていた。
 どうやらのいる所まで来ようとしているようだが、少年の動きは非常に危なっかしく、今にも落ちてしまいそうである。軽々と上ってきたは、たかが屋根の上に上がるというだけで何故そんなに苦労するのか本気で一瞬わからず、気付いた次の瞬間、思わず米神を押さえてちょっとばかり凹んだ。聖闘士が人としての領域から、一歩二歩どころでなくかけ離れた存在であるという認識が、頭から抜け落ちていた。いや、周囲がそんな人間ばっかりなので、それがの中では普通になっていたと言うべきか。
 げに素晴らしき順応性だ私。けれど、いくら聖域につめていることのほうが多いとはいえ、結局のところ人の間で生きなければならないのだから、世間一般で言うところの常識を忘れてはいけない。そう自分の心の中で言い聞かせ、米神を揉んでいると、「うわっ!」という悲鳴が耳に届いた。
 ついと視線を向けてみると、頑張って屋根に上ろうとしていた少年の姿は消え、ちょこんと必死に屋根の縁に縋りつく指先だけが見えていた。おそらく、見えていないところでは身体が宙に投げ出され、ぷらぷらと風に揺れている事だろう。
 昼間といい、今といい、何と無謀な。
 ため息を吐きつつ、は人差し指をくいっと曲げてPKを発動させる。少年の身体はゆっくりと浮き上がり、屋根の上へと着地した。
 
「あ…ありがとう、助かった……」

 目をぱちくりさせて、礼を口にする少年に、はただ肩をすくめた。そっけないの態度を気にする事も無く、少年は四つん這いになって慎重に屋根の上を移動してくる。そして、人一人分空けたところに腰を下ろした。
 二人の間に、沈黙が横たわる。は端から会話をする気が無いだけだが、少年の方はというと、どう話を切り出すか言葉を捜しているようだった。うろうろと視線を彷徨わせ、やがてゆっくりと口を開く。

「あのさ、昼間の事、なんだけど……」

 闇に染まる森と、煌く星々から視線をそらす事無く、ただ意識だけをそちらに向けて、は一応耳を傾ける。

「まだ、礼言ってなかったから……その、さ、助けてくれて、ありがとう」
「それが私の仕事だからな。……用はそれだけか? ならさっさと帰れ。夜の戸外は危険だ」

 取り付く島も無い返答である。少年はむっと顔をしかめるも、ここで怒鳴っては追い返されてしまうのが目に見えていたので、咽喉の辺りまで上がってきていた文句をぐっと飲み込み、代わりに用意して来た言葉をぶつけた。

「聞きたい事があるんだ」
「何を」
「昼間の、あの女は何なんだ? それに、あんたたちも……さっきの力だって」

 暴れだしそうな感情を押さえ込んでいるためか、徐々に言葉がくぐもってくる。は横目にそれを見て、小さく息を吐いた。

「知らない方が心安らかに生きていけると思うがな」
「オレはもう巻き込まれてる。立派な当事者だ……そりゃ、巻き込まれたのは自業自得だけどさ」
「……自覚はあるのか」
「怒られたんだよ、母さんに」

 照れているのか、唇を尖らせてそっぽを向く少年に喉の奥を鳴らして笑う。確かに帰ってきて地面に少年を放り出した時の、彼に親の喜びと怒りは凄まじいものがあった。入っていって、帰ってきた者はいないという森に入って、無事に生還できたのだから無理もないのだろうが。
 素直に拗ねた様子を見せる少年を横目にひとしきり笑うと、は目を細め、夜の森を見据えた。

「私達は聖闘士だ」
「セイント……」

 唐突に始まった話に、少年は鸚鵡返しに単語を口にする。それは、西にある島国の言葉で聖人を示す言葉であると、少年は教会で聞いたことがあった。

「女神の為、己が身を槍となし盾となし戦う者の事だ。私の前に来た奴らもな。階級は下だが」
「アテナ……階級が下って……?」
「アテナはギリシャ神話の戦女神だ」
「……実在、するのか?」
「するらしい。私はあったことはねーがな。信じるのか?」

 笑い混じりに尋ねるに、少年はどこかげっそりとした表情で、引き寄せた膝に顔を伏せた。

「あんな目に会えば嫌でも信じるしかねぇだろ。あんたもなんか、見たまんまのガキにはみえねぇし」

 階級の話も納得できる。
 くぐもった、疲れたような声に、はただ肩をすくめ、黒々と濃く色を染めた空へと視線を投げた。
 どこまでも澄んだ空気は、美しい夜を更に美しく見せ、星を輝かせる。これは革命前だからだろうと勝手にあたりをつけ、あと百年もすれば、この美しさなど欠片ほどしか残らないのだと思うと、何とも残念な気持ちになる。とはいえ、その頃には自身も生きてはいないのだろうが。
 人間の寿命が――羊を始めとする麿一族は除外するとして――それほどないということもあるが、それ以前に聖戦、対ハーデスという巨大で傍迷惑な壁がそびえ立っているのだから。嗚呼面倒臭い。
 そんな横道にそれたことを考えていると、顔を伏せていた少年の視線が、の横顔に当たった。そういえば、話の途中だったか。

「あと、あの女の正体だったな。一応見当はついているが、確証がない」

 だから言えない。
 そう言うと、少年は何か言いたそうな顔をして何度か口を開閉し、小さく「わかった」と口にした。
 聖闘士について何も知らないが故にそういうものだと結論を下し、無理やり己の心を押さえ込んだ感がありありと伝わってくる。もしかしたら、昼間のの威圧が今もまだ効いているだけかもしれないが。
 別にそういうものでもないのだが、勘違いするに任せておく。本当にただ、確証がないだけに口にしたくないのだ。
 心当たりはあるが、どうにも解せない。
 どうしたものかと、眉間に皺を寄せると、ふと何かが、の感覚に引っかかった。


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