25.ドリュアスの嘆き:肆



 女への恐ろしさと光のまぶしさに固く目をつぶっていたヨハンは、いつまでたっても女の指が己に触れてこない事に、もしや先程の光で女が消えたのでは、と、期待半分にそろそろとまぶたを上げた。が、その期待はあっさりと裏切られた。
 恐ろしいほどに妖艶な女は、変わらずそこに存在している。しかし、女と彼との間には、一人の少女が立っていた。
 黄金の鎧をその身にまとい、背に巨大な黄金の翼を負った華奢な後姿。けれど、その背は不思議と大きく見える。

「ひかり……?」

 何が起きたのか瞬時に理解する事ができず、呆然とした思考の中で、ただ助かった事だけを感じ取り、小さく呟く。ほとんど反射的に唇からこぼれ出た呟きであったが、それはひどくヨハンの内にすとんと降りてきた。
 少女は肩越しに振り返り、ヨハンを一瞥する。ちらりと見えた横顔には、白い、不思議な光沢を持つ仮面。
 見覚えのあるそれに、ヨハンは驚き、目を見開いた。あの、村長たちが迎え入れた、十にも満たぬ少女だ。

「ど、して……」

 どうしてここにいるのか。どうやってこの場に来たのか。その、翼のある鎧は何なのか。それを当然のように纏ってここに立つ君はいったい何者なのか。
 訊きたい事は山のようにあり、ぐるぐると脳内で暴れまわっていたが、緊張でからからに渇いた咽喉から何とか搾り出せたのはそれだけだった。声も酷くかすれていて聞き取りづらい。
 けれど、そんな少年の呟きを、少女の耳はしっかりと拾っていた。痛いほどに、自分を凝視する視線も感じる。が、それに応える気は全くといっていいほど無く、気持ちがいいくらい綺麗に無視していた。
 自分から危険な場所に足を踏み入れた馬鹿の相手をする事が面倒だというのも一因だが、今はそんな場合ではなかったからだ。
 ずっと感じていた、森中に広がる、どんよりとした小宇宙。そして、空中にいたを襲ってきた小宇宙と同じものを、目の前の女から感じ取っていた。
 間違いなく、この女が異変の原因だ。

「不幸中の幸い……いや、怪我の功名か?」

 不敵な笑みに、目だけを鋭く輝かせ、おそらくは異形であろう女を射抜く。
 女の方はというと、般若のような形相でを睨みつけていた。その目には憎悪が鈍く底光りをしている。先程のような、最愛の人を前にしたような甘さは、欠片すら見えない。
 美人が怒ると怖いねぇ、と誰にとも無く、場違いな台詞を茶化すように呟いて、鋭い眼光もそのままにすっと目を細め、静かに戦闘態勢を整える。とは言っても、にはこの場で決着をつける気はなかった。背後の荷物をかばいながらの戦闘は、正直言って今のの実力では少々きつい。
 三十六計逃げるに如かず、である。それも少し難しそうではあるが。
 じりじりと、間合いとタイミングを計るに、女は眦を吊り上げ呪詛を唱えるかのように低く言葉をつむいだ。

『女……おんな、オンナ……!! 私から、奪っていくのね、また、私から……!』
「また……?」

 女の言葉に引っ掛かりを覚え、仮面の下で怪訝な顔を作る。
 思わずこの場で考え込みそうになったが、目前で高まり続ける小宇宙に意識を引き止められ、足を半歩後ろに引いた。
 背後の少年――そもそもの原因だ――が、ひいっと情け内悲鳴を漏らし、恐怖に震える。
 その気配はの神経を逆撫でしたが、いちいち構ってはいられないこの状況。一つ密かに舌打ちをかまし、また半歩後退った。

『渡さない渡さない渡さない! その人は私のものよ!!』

 絶叫と共に、の心臓めがけて土を纏った木の根が襲い掛かってくる。
 背後の少年に気を回しつつ攻撃を弾き返し、は顔を顰めた。本体が側近くにあるためか、一撃の重さもスピードも上空で相手をしていたときの比ではない。逃げるにしても、これはいよいよ不利だ。
 このクソガキが。
 この少年のおかげで異変の根源に見える事が出来た事も全てうっちゃって、心の中で何度目かになる少年への悪態をついた。
 準備も何も出来ないままに、不利な状況でラスボスと戦わなければならなくなったのは全てこの愚かなる勇者の所為だ。怪異に巻き込まれた――自業自得だ――少年にしては災難な事ではあるが、は心の底から本気である。
 苛立ちのままに、は根を払い、一瞬で来た隙を見逃すことなく小宇宙を燃やし、胸の高さで腕を一閃させた。

「ハンティング・アロー」

 腕が薙いだ場所から、幾筋もの光の矢が出で、ランダムな軌跡を描きながら女へと向かう。その矢は防御へと回った根に突き刺さり、高密度な小宇宙が爆ぜた。
 粉塵を巻き上げて役目を果たした光の矢に唇を歪め、それが宙に舞っている隙に、は少年に走りより有無を言わさずに担ぎ上げる。
 自分よりも一回り以上小さな少女が取った行動に、ヨハンは度肝を抜かれて目を見開いた。

「はっ、ちょ、何……!?」
「煩ぇ、黙ってろ! しっかり掴まってろよっ」

 すっとんきょうな声を上げるヨハンの尻を叩き一括して黙らせ、は膝をばねのようにたわませ、勢いよく地面を蹴った。
 PKも小宇宙も総動員させて、小枝や葉に当たってかすり傷をいくつも――主にヨハンが――作りながら、一気に森の上空まで浮き上がり、軽くなった空気を肺の中に満たした。
 シャンと、黄金の翼が音を立てた。

「な、なん、飛んで……はぁっ!?」
「耳元でわめくなやかましい。村に戻るぞ。これは決定だ反論は聞かん」
「う、あ、あぁ……」

 地を這うような低い声で断言され、ヨハンはどもりながら頷く。言いたい事は崩れそうなほど山となってヨハンの中に積みあがっていたが、欠片も出てこなかった。
 あまりにも少女に迫力がありすぎて。
 そして、あの異様な女との攻防を目の当たりにしたヨハンには、彼女に逆らう気力など欠片も湧きすらしなかった。


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