25.ドリュアスの嘆き:参



 不用意に森に入ってはならない。森を傷つければ森の神が怒る。
 それは昔から村に伝わっている言葉だった。
 けれどその言を破り森の中に入ったところで、道を忘れてしまえば迷う以外、何か怒る事は無かったし、気を傷つけた所で災いが降りかかるということも無い。
 信心深い年寄り達はその言い伝えを忠実に守っているが、彼らよりも下の世代の者達にとって、それは既にただの言い伝えでしかなかった。
 この、説明のつかない行方不明事件が起こるまでは。
 とたんに村は騒然となり、どこからか、古風な防具をつけた男達がやってきて森の中へと入ったが帰ってこない。
 あの男達がどういう素性の者なのかは知らなかったが、こういうことに関する専門家であることだけは教えられていたため、その彼らが帰ってこないとあって、それまで言い伝えを信じていなかったものたちも森を畏怖の目で見るようになった。
 そしてその件を解決するために送られてきた人物を、村長たちが迎え入れたと言うが、誰もその姿を確認した者はいない。ヨハンのほかには。
 防具をつけた男達と同じような箱を持ち、村長に迎えられたのは、奇妙な仮面をつけた年端も行かぬ少女だった。あれはまだ十にも達していないのではなかろうか。馬鹿馬鹿しい、とヨハンは思った。
 彼女の何倍もある大の男が帰ってこなかったというのに、あんな小さな少女に何ができると言うのか。それに言い伝えは所詮言い伝えだ。何を恐れる必要がある。行方がわからなくなった者も、迷ったか事故にあっただけ。もしくは、森を隠れ蓑にしてどこかへ逃げたのだろう。何を恐れる必要があるというのだ。
 自分に言い聞かせるようにして、ヨハンは一歩一歩森の奥へと足を進める。けれどその背には、冷たい汗が幾筋も伝っていた。
 ヨハンは幼い頃から森を遊び場にしていた。村の誰よりも、森の中の道に詳しい自信がある。だからこそ、今の森の空気のおかしさにも気付いていた。
 重く、ねっとりと肌に絡み付いてくるような不快な感覚。触れた場所から命が流れ出していきそうな、吸い取られているような、そんな気がする。体力は充分すぎるほどあり、それほど動いているわけでもないのに息は上がり、汗が流れる。進むごとに肩に何かがのしかかってくるようで、ヨハンは足を止めて大きく息を吐き額を拭った。
 近くにある木の幹に手をつけ、目を眇めて森の奥を眺める。まだ、ヨハンが遊び場にしている領域の半分ほどの場所だという事に気がつき、深々と息を吐いた。体力の消耗具合からして、もっと進んでいるような気がしていたのだが。

「くそっ」

 胸に沸き起こった苛立ちに小さく悪態をついて、木を拳で軽く打つ。それを区切りに小休憩を終らせ、ヨハンは再び足を動かし始めた。





「ああ、もう、余計な手間を増やしやがって……どこにいやがる、クソガキが」

 黄金の翼をはためかせながら、周囲に人がいないのをいいことに、苛立ちを隠しもせず荒れた言葉遣いで吐き捨てる。射殺さんばかりの視線で持って緑の生い茂る大地を見下ろし、は羽で大気を強く打った。
 森の中に入ってしまった無駄に勇気を持った少年の知らせを耳にした後、はすぐに聖衣を身に纏い家を飛び出した。目的は勿論少年の捜索だ。
 しかしながら、土地勘も無いが何の準備もなしに森に踏み込んだところで、待つ結果は前任者の轍を踏む事だけだろう。それに、の小宇宙が森の中にいる何かを刺激しないとも限らない。その可能性を考えて、が取ったのは空の道を行く事だった。
 聖衣を纏った黄金聖闘士の小宇宙が感知されていないなどと甘い考えを持っているわけではなかったが、正面から突っ込むよりも幾分かマシなはずだ。
 森の中ほどの上空で止まり、意識を研ぎ澄ませながら、森の中の異変を探る。常人の目にはほぼ何の変哲も無く見えるが、の目には暗く澱んで見えていた。森中に、重く粘着質な小宇宙が漂っている。執着と言うものを形で表したらこうなるのではないだろうか。正直言って、こんな中に足を踏み入れたくは無い。そうも言ってはいられないが。
 きゅうっと猫tのように目を細め、色が最も濃くなっている一点を見つめる。しかしすぐに目を見開き、空中で身を翻した。
 ブンッと低い唸りを上げて、先程までがいた場所を茶色い何かが貫く。
 の優秀な動体視力が捉えた、素早い動きをするそれは、土がこびりつき節が目立った木の根だった。
 土ぼこりを巻き上げながら休む間もなく、根はをしとめんと次々と襲い掛かってくる。そこにはあからさまな殺意が存在していた。
 確実に急所を狙ってくるそれを時には避け、時には打ちながら、は先程から煩いほどその存在を主張している本体を叩くために機会を待つ。
 また伸びてきた太い根をたたき落とし、いざ本体に迫ろうとしたとき、の耳が一つの悲鳴を捉えた。





 それ、を認めた時、ヨハンが覚えたのは欲でも恍惚でもなく、焼きつくような恐怖だった。
 豪奢に波打つ金色の髪、澄み渡った空のようなブルーの瞳。鼻梁はすっと通り、赤く染まった唇はぷっくりとしている。一つ一つが美しく整ったパーツが、白磁の肌を持つ小さな顔に絶妙なバランスで配置されていた。
 薄い布越しにくっきりと見える肢体は見事な凹凸をしており、男ならば視線をそらすことなく目の前に立つエロティックな女に、現状も忘れて生唾を飲み込んだ事だろう。だが、少年が感じたのは恐怖だけであった。
 額に脂汗を浮かべながら、ヨハンは視線をそらすことすら出来ずにじりじりと後退る。目を離したその瞬間に、食い尽くされそうな予感がした。

『あなた』

 玲瓏たる声をゆらめかせ、うっそりと、女が笑う。
 その白い繊手を差し伸べながら、一歩二歩と歩み寄った。
 ヨハンはその分だけ、恐怖に震える体を抱えながら距離をとる。

『嗚呼、あなた……やっと来てくださったのね。私、ずっとずっと待っていたのよ』

 逃げるヨハンにも構わず、女は笑みを深めどこかうっとりと呟いた。
 美しいブルーの瞳はヨハンを見ているようでいながら、誰か別の人物を映しているらしく、焦点があっていない。そこがまた恐ろしく、ヨハンはガチガチと奥歯を鳴らした。
 また一歩後ろに下がったところで、背が木の幹に当たり、退路を絶たれた事に気付いたヨハンはヒッと息を呑む。

『さぁ、参りましょう。約束を……』

 白く細い指が目前に迫る。
 溜まらず、ヨハンは叫び声を上げた。

「う、うあぁぁあぁあぁぁぁ!!! 来るなぁぁ!!!!」

 恐怖一色に彩られた、魂の底からの叫び。
 その渾身の叫びに引き寄せられるかのように、黄金に輝く一条の光が、女とヨハンの間に矢のように降り注いだ。


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