19.もう一人の射手座:壱
クレオン家当主、ペリクレス・クレオン。
それがの射手座継承にいちゃもんをつけてきた連中の頭の名前だ。
クレオン家というのは古来より女神を崇め、聖域を支援してきた由緒正しき家系で、聖域の経済の一角を支えているが故に、発言力影響力共に強く、聖域にとって疎かにできない相手である。厄介な事に。
だからこそ、教皇も彼らの言を無視する事ができなかったのだ。が射手座である事を、聖衣が認めているにもかかわらず。
そしてこの男の息子が、の代わりにと射手座に推された少年である。で、彼の名前というのが。
「シジフォス……?」
「うん。シジフォス・クレオン。僕達よりも五つ年上の十三歳。……、知ってるの?」
「いや」
驚きを露にするに、もう一人の射手座候補の調査報告をしていたアルバフィカが僅かに顔を歪める。
今までほとんどずっと一緒にいはしたが、それでも彼の知らない交友関係や情報網を、彼女は持っている。
それを素直にすごいと思ってはいるが、面白くないと感じているのもまた事実だった。しかも相手は今現在をここから追い出そうとしている男である。
面白いはずも無かった。
即座に否定されたとしても、がその紫紺の瞳を一瞬とはいえども揺らしたと言う事もまた気に入らない。
むくれているアルバフィカをよそに、は心持ち鼓動を早めた心臓を押さえ、細く長く息を吐き出していた。
シジフォス。
本来ならば、射手座の地位を正式に継いでいるはずの男。
この世界のどこかに存在している可能性は予測してはいたが、まさかこんな所でその名前を聞くなんて思わなかった。こんなに近くにいるなんて。
何故彼を選んでくれなかったのだと心の中ではぼやきつつも、聖衣を譲るつもりの無いは続きを促す。
ぐるぐるしているアルバフィカに苦笑していたフーガが、浅葱色の頭を撫で口を開いた。
「性格は至って真面目でプラス思考。女神への忠義も暑く、人望もなかなか。この辺りは全く父親に似てねーな。一応物心ついたときから聖闘士としての訓練は受けてるらしい。師が結構高齢なんで、その聖衣を受け継いで白銀聖闘士になるつもりだったそうだから、今回の件には戸惑ってる、と」
「本人にその気は無かった、と?」
「みてーだな。見たところ本人の意思を総無視して、シジフォスの奴に射手座の適正があるって知った周囲が勝手に盛り上がってるだけだ。がまだ八歳の女だって事もそれに拍車をかけてるみてー。黄金は他と違ってどうこうなるものでもねーってのに」
「聖闘士じゃねー奴には言ったってわかんねーさ」
深々とため息を吐くフーガに、は肩をすくめる。
ぐるぐるしながらも話だけは聞いていたアルバフィカも、首を縦に振って同意した。
黄金聖衣は他の聖衣と違い意思を持つ。そうして己で身に纏う者を選ぶが故に、聖衣と聖闘士の間には絆とでも言えばいいのだろうか、強い繋がりが存在するのだ。まぁ、纏うものの心根が聖衣の意思にあまりにもそぐわなければ、あっさりと離れていってしまうのだが。
しかしそれは口で言って解るような類のものではない。まして、聖衣を身近に感じるものでなければ尚更だ。これはやはりきっちりと片をつけねばなるまい。付け入る隙が無いほどに。
「ねぇ、フーガ。どうしてそこまで詳しいの?」
「そういえば」
かなり内側まで踏み込まねば解らないような事だ。紫紺と花浅葱の二対の瞳が見つめる先で、フーガが得意げに笑った。
「そりゃ本人に直接訊いたからな」
「はぁ!?」
「本人って、フーガ、お前……」
愕然とする二人に、フーガはがしがしと頭をかき視線を彷徨わせた。
「あ〜、実は闘技場で何度か組んだ事が合ってさ、人柄も知ってたもんだから、どーしてもアイツがこんな手段を選ぶとは思えなくて……」
「で、自分で確かめに行った訳か」
「フーガらしいと言えばらしいけど……」
若干疲れたような顔して額を押さえると、の敵なのにという不満を隠そうともしないアルバフィカ。
フーガはその二人の反応にただ苦笑しただけだった。
しかしフーガが件の射手座候補の少年に会いに行ったのは、それだけではなかった。
もし本心からの居場所を奪おうと考えていたのなら、もしくは例のクソ野郎どもの傀儡となる事を良しとしていたのならば、達が手を下す前に、秘密裏に消してしまおうと思っていたのだ。フーガの代の射手座は、以外認める気は無い。そう、小指の爪の先すらも。
それではの計画が破綻してしまうのはわかりきっていたが、この問題提起の大前提が彼の存在なのだから、そこを叩いてしまえばいいとフーガは考えたのだ。
幸いな事に、シジフォスは今回の件に干渉しておらずフーガの合格基準を満たしていたので、今後とも良い友人でいられるのだが。
こんな事を裏で考えていたことがに知れれば叱られてしまうかもしれないが、フーガはこんな自分に満足していた。教皇もそれでいいと言う。彼女の意思を尊重し、それを実現する事も大切な事だが、全く違う視点から物事を見て彼女に降りかかる火の粉を払ったり、手助けする事も必要なのだ。
そしてそれは自分が担うべき役割であると、フーガは早くも自負していた。
冷たい顔を笑顔でフーガは押し隠す。もっとも、にはばれているかもしれないが。
「で、の方はどうだった?」
「毒物の回収の方は順調だ。幸いな事にまだ誰一人として被害には遭ってない。流入経路の割り出しもまあまあだな。ただ、尻尾の方はもう少し時間がかかりそうだ」
「間に合う?」
「間に合わせるさ」
小首をかしげるアルバフィカに、は強気な笑みを浮かべる。
彼らの中での期限というのは、が当初口にしていたシジフォスとの公開試合の日だった。
大雑把に計画を立てた後至極迅速に動いた達は、まず教皇に話を持ちかけた。無駄に権力を持つクレオン家の扱いに頭を悩ませていた教皇は、ハイエナを一掃できるかもしれないこの提案に一も二も無く乗ってきた。故に、教皇からクレオン家へ既に通達が行っているのだが、毒物の流入はなかなか止まらなかった。
常に最悪の事態を想定して動いているので、慌てることなく、速やかに対処できているから問題は無いのだが。
「もう一波乱有りそうだな」
目を細めて呟くに、アルバフィカとフーガは表情を引き締めた。
「ええいっ、どうして上手くいかんのだ!」
顔をどす黒く染めた男が拳で机を叩く。
室内に響き渡った打撃音とガラスの割れる音に、戸口に張り付いて中の様子を伺っていたシジフォスは首をすくめた。
「たかが、たかが小娘一人始末するのになぜこうも手間取る……!」
「ペリクレス様、そうお声を高くされますと……誰かに聞かれでもしたら事です」
「ごほんっ……わかっておる」
びりびりと戸口を揺らしていた音波が潜められ、シジフォスは顔をしかめながらも、再び耳を寄せた。しかし依然として表情は苦いままである。
ペリクレス、そう呼ばれた男は、シジフォスの父その人だ。彼は己の息子に射手座の素質がわずかなりともあると知ると、息子をその地位につけるために色々と手を打っていた。
しかし教皇は決して首を縦に振らず、数年としない内に射手座の正式な後継者が出てきてしまい、もうそろそろその地位を継承するという。たった八つの、東洋の血を引いた小娘が此度降臨する女神に仕えると言う栄誉を賜れるなど、ペリクレスには許せたものではなかった。
古来より女神に、聖域に仕えてきたクレオン家の沽券に関わる。
「密に流した毒物も全て不発……犠牲者は誰一人として出ておらん。あの小娘は安穏と双魚宮で暮らしておる……忌々しい事だ」
毒……! シジフォスは息を呑む。しかも聞いている限り無差別ではないか。
シジフォスは己の父親が、何やら不穏な動きを取っている事を知っていた。しかし問い詰めてみても父ははぐらかすばかりか、知らぬ存ぜぬを通し、決してしっぽをつかませる事は無い。
だからこそ、こうして盗み聞きとも言える行動を取っているのだが……。
正々堂々を良しとし、女神の聖闘士としてそうあれと育てられてきたシジフォスには許し難い事であった。
室内の会話はまだ続いている。中に踏み込み、父を問い質したい気持ちをぐっと抑え、シジフォスはその話を聞き取るために耳を澄ませた。
「して、教皇の意見は変わらんのか」
「は……あの少女が射手座である事は変わらぬ事実。しかしそれが納得行かぬと言うのならば、公開試合を行い聖衣の選択に従う事、と。どうなさいますか」
「ふん、どうするも、教皇は既にそのつもりなのであろう」
「はい、触れも出ているようです」
「ならば諾と返しておけ。所詮八つの小娘、あれの敵ではないわ」
「しかし、あちらには黄金聖闘士がついておりますが……」
「だとしてもアレが負けるとは思えんが……ふむ」
手を打っておいて損は無い。
ペリクレスは机の引き出しの中から掌に乗るサイズの、けれども中身のたっぷりとつまった袋を取り出し、机上に投げ置いた。
金属のこすれるくぐもった音と、投げ出された際の重く机を叩く音が、シジフォスの耳に飛び込む。
「これを雑兵どもにばら撒いておけ。条件付でな」
「かしこまりました」
衣擦れの音がする。
しこでシジフォスが気にしていた内容の話は終わり、彼はそっとその場から離れた。人気を避けて家の外に出、シジフォスは猛然と走り出す。
目指すは十二宮。
父が何か、また卑怯な手を打ったことを警告しに行かなければ。
ひたすらに突き進む彼の頭の中は、そんな使命感でいっぱいになっていた。
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