19.もう一人の射手座:弐


 騒がしい。それは直接耳に入るような喧騒ではなかったが、の耳にはしっかりと届いていた。
 いや、第六感が感じ取ったと言った方が正しいのかもしれないが、とにもかくにも、の気を落ち着かせない。
 最初は無視していたも、次第に五月蝿くなっていくそれにいい加減煩わしくなり、ため息と共に立ち上がった。

「ママ?」
「今日はここまでな、ルウ」

 自らも腰を上げ、足にペタリと張り付いてくるルヴィオラの朱の髪をくしゃりと撫でる。
 今日はずっと一緒に遊んでくれると思っていたルヴィオラは大きな目を零れ落ちそうなほどに見開き、ぷくりと頬を膨らませた。
 大好きな人の足をギュッと抱きしめる。

「や! ルウ、ママといっちょ!」
「ルヴィオラ、私は下に行かなきゃならねーんだけど……」
「やーっ! いっちょ!」

 ラズベリーレッドが涙で歪み、更にしがみついてくる幼子に、どうしたものかと仮面を玩ぶ。
 甘やかす気は毛頭無いが、師が出かけて寂しがっていたルヴィオラに遊んでやると言った手前、厳しく対応するのは理不尽だ。
 決着のつきようも無いにらめっこをしていると、天蝎宮従者のカナリアがやんわりと助け舟を出してきた。

「人馬宮様、差し支えないようであれば、次代様も連れて行っては下さいませんでしょうか」
「差し支えねえ……無いと思うが……」

 期待を込めて見つめてくる子供の瞳に、さして危険も感じないはため息を吐いて首肯した。

「んじゃ、一緒に行くかルウ」
「いっちょ!」

 ぱっと笑みを浮かべて、小さな手をに伸ばす。
 まだ一人で十二宮を上り下りできない幼子を抱き上げて、仮面をつけた。

「マーマ。ルウ、ちょれやっ」
「嫌でも、これつけなきゃ顔見た奴全員消さなきゃいけねーからな。ルウは言い子だから我慢できるよな。できなきゃ置いてく」
「うゆ……ルウいいこらも……いっちょ」
「はいはい」

 首筋に縋りつくルヴィオラの背を軽く叩いてあやしながら、天蝎宮から外へと向かう。
 姉弟とも、母子とも言えるような様子の二人の後姿を、カナリアは微笑ましく思いながら見送った。

「さ、お掃除お掃除」

 散らかし魔がいないうちに何とかしてしまおうと、カナリアは俄然張り切り袖を捲くった。



 
 一方、達のほうはというと、あちらこちらに興味を向ける幼子を落とさないように上手く支えながら、長い階段をものともせずすたすたと下へと向かって降りていた。
 そして巨蟹宮に差し掛かったときに、彼女達の小宇宙を感じ取った宮主が奥のほうから出てくる。
 彼はニヤリと笑みを浮かべた。

「よう、、チビ」
「こんにちは、デスマスク様」
「ちーじゃなーよ! ルウらも!」
「へいへい」

 ぷくりと脹れるルヴィオラの頭を、デスマスクの大きな手がわしわしと撫でる。人に構われるのが大好きなルヴィオラは、きゃーっと歓声を上げにしがみついた。

「お前チビ連れてどこ行くんだ?」
「ちょっと下まで」
「おいおい、この時期にか?」
「十二宮から出るつもりはありませんよ、今はルヴィオラも連れていますし。そこまで命知らずじゃありません。ただ、少し煩いもんで」
「煩い……? 俺には何も聞こえねぇが……」

 耳を澄ませて怪訝な顔をするデスマスク。はルヴィオラを抱えたままで、器用にも肩をすくめて見せた。

「耳に聞こえるような類のものじゃありませんよ。そうですね……予感、みたいなものでしょうか」

 もしくは、聖衣と共鳴している時のものに近いかもしれない。ただし、今聞こえている声は涼しげなものではなく、警戒と警告を発しているような金属的なものではあるが。
 デスマスクは予感ねぇと呟き、顎を指先でなぞる。再びが口を開こうとした時、キンッと空気が震え、小宇宙が揺さぶられた。
 は何の迷いも無く人馬宮を振り仰ぎ、その宮から黄金の尾を引く流星を見つける。あれは間違いなく、射手座の矢であった。
 双子座の聖衣の頭部を見つけた時と被る光景に、は一瞬顔を引きつらせる。

「射手座……?」

 また厄介ごとじゃねーだろうな、あのクソ聖衣。聖衣が聞いたらそれこそ泣き出しかねない事を胸中で呟き、デスマスクと顔を見合わせた後で駆け出した。
 射手座の矢は破魔の力を宿す。けれど、の中では武器として使う以外は厄介事を運ぶものとして認知されていた。双子座の黄金聖闘士を迎えることが出来たのはいいが、聖衣の異状を発見した時の事がアルバフィカのトラウマになってしまったのがいい例である。
 そんな訳で、は射手座の弓矢にあまり良い印象を抱いていない。
 原作ですら活躍という活躍はしていないし、役に立つ所を見た事があるのはエピGでの短編と嘆きの壁に穴を開ける時くらいのものである。
 本当に役立つのか否か疑われている弓矢の片割れは、達がちょうど白羊宮を出ると同時に地面に突き刺さった。
 フーガと、見知らぬ、けれどどこかで見た事のあるような少年の間に。





 特に用が無い限り、十二宮に足を踏み入れる事はできない。
 その事を思い出して十二宮の前で足踏みしていたシジフォスの前に、友人である次期双子座のフーガが現れたことは僥倖であった。
 彼が次の射手座となるべき少女と師を同じくしている事を知っていたし、自分の言葉を信じてくれるだろうことも知っている。
 彼と共にいた少年――少女かと思ったが、仮面をつけていなかったので少年だと判断――に何故か敵意を向けられる中、シジフォスは盗み聞いた父とその側近の話を語った。
 それほど長くも無い話を全て吐き出したとき、十二宮の上方から飛来した何かが、シジフォスと彼らの間に、凄い音と共に突き刺さる。
 太陽の光を弾き返し黄金に輝く矢にシジフォスは目を見開き、フーガと少年は諦観と共に息を吐いた。

「これは……」
「またか……」
「まただね……射手座の聖衣の基準て何……?」
「それは私が知りてぇよ」

 少年の呟きに、新たな声が割り入る。上方からの声に振り仰いで見れば、赤い髪の小さな子供を抱えた少女と、蟹座の聖闘士が白羊宮の前に佇んでいた。
 赤毛の子供を蟹座に預けた少女は、艶やかな濡羽色の髪をなびかせ階段を下りてくる。彼女の仮面の左頬に射手座の星座が刻まれている事に気づいたシジフォスは、息を呑んで彼女を見つめた。
 父があらゆる手で持ってその就任を妨げている、正当なる射手座候補生の少女だ。

……」
「お前、十二宮から出るなつっただろ」

 少年が焦り、フーガが苦さを浮かべて少女――を迎える。けれども彼女は淡々と返すだけだった。

「デスマスク様が見てる前で何かしようとするバカがいるかよ」
「それもそうか」
「でも気をつけて、
「わかってる」

 少女は手をひらりと振って返事をし、彼らの間に突き刺さっている矢をPKで引き抜いた。

「…シジフォス・クレオン」

 語尾が少し上がる。けれどその声は確信していた。
 シジフォスは何故か緊張を覚え、幾分か硬い動きで頷く。
 しばらくじっと、それこそ観察するかのような視線でシジフォスを見ていた彼女は、至極あっさりと彼から意識を離した。興味は既に別の所に移っているらしい。
 呆然とするシジフォスをちらりと見て、フーガは口角を吊り上げた。

、あちらさんが動いたってさ」
「今度は買収だって」
「そうか」
「そうか…って」

 あくまでも淡々と対応する少女に、シジフォスは愕然と呟く。己の命が狙われているというのに、どうしてこうも冷静でいられるのだろう。自分よりも五つ下の、たった八つの少女が。
 シジフォスの呟きに、は再び彼の方を見た。仮面越しだというのに、その視線だけは強烈な力を持ってシジフォスを刺し貫く。けれど、人形めいた印象を残すのは何故だろうか。

「想定の範囲内だ、慌てる事もねーだろ。……お前、私との公開試合の話は聞いたか?」
「あ、ああ……」
「ならその事だけを考えてろ。余計な事はするな、考えるな」
「余計って……君の命がかかってるんだぞ!?」
「だから?」
「だからって……」
「私が消えてたら得をするのはお前だろう。何故そこまでムキになる」
「何故って、こんな卑怯な手段で黄金聖衣を手に入れても嬉しくも何とも無いからに決まってるだろう!?」
「真っ直ぐなこって……行くぞ、フィー」
「うん」

 聞き取れないほど小さな声で呟かれた言葉は聞こえなかった。
 ブルーの髪の少年が身を翻した少女を追いかける。背筋がピンと伸びたどこまでも清々しいその背中には、言葉をかける隙すらも無く、シジフォスはただ彼女を見送った。
 のペースについていけないシジフォスに忍び笑いを漏らしていたフーガは、物言いたげな顔で口をもごもご動かしている友人の肩をぽんと叩いた。

「フーガ……」
「だーい丈夫だって。想定の範囲内だって言っただろ? もう既に対策は施してあるから」
「そう、なのか……?」
「そうなんです。だしなー」

 抜かりはありません。
 まるで自分の事のように自慢げに笑みを浮かべるフーガに、シジフォスは再び幼子を腕に抱いて十二宮を上っていく少女の後姿を見つめた。





「あのガキ、例の……?」
「クレオン家の嫡男です」
「ちゃー?」
「一番上の男の子って事だよ」

 デスマスクの腕の中から身を乗り出すルヴィオラを受け取りながら、とアルバフィカはそれぞれの疑問に答える。
 しがみついてくる小さな子供の背を叩きながら、は目を細めた。まさかシジフォス自身が、己の父を告発しに来るとは思わなかった。本人にその気は無いのかもしれないが、それは密告に他ならない。
 それだけ、公明正大で気持ちの良い人物なのであろうが。

「正反対……っつーか癇に障る……?」

 相手にしていたらストレスがたまりそうだ。あっちは自分を八つの小娘としか捉えていなさそうだし。
 その呟きを捉えたアルバフィカとルヴィオラは首を傾げ、彼女の言いたい事が良く解るデスマスクはのこの奥でクツクツと笑った。

「確かにお前とは合わねーかもな」
「デスマスク様もそう思いますか」
「俺も合わねーからな、ああいう馬鹿正直な奴は。射手座がお前で良かったよ」

 くしゃりと髪をかき乱す。そういう相手とも当たり障り無く付き合おうと思えば付き合えるくせに、と面倒見の良い巨蟹宮の主を見上げながらも、は雰囲気だけで悪戯っぽく笑って見せた。

「私も蟹座があなたで良かったと思いますよ。頼りにしてますよ、オトーサン?」
「おと……いや、いいか。好きなだけ頼れ我が娘。で、何をすりゃいいんだ?」

 よくわかっていらっしゃる。
 小難しい話に移りかけ、構ってくれそうにない事を本能で嗅ぎ取ったルヴィオラがアルバフィカの方へと手を伸ばし移動する。
 それでも興味はあるのか、じっと達を見つめていた。

「このまま厳戒態勢を維持。ただ、公開試合の前日までで結構です」
「それだとが危ないんじゃ……聞いた限りだと人数も少なく無さそうだし」
「故意に誘い込むんだから多少の危険は承知の上だ。それにフィー、お前、私が雑兵ごときに負けるとでも?」

 仮面で顔は見えないが、きっとこれ以上ないくらい不敵な表情を浮かべているのだろうと容易に想像がつく、自信に溢れた声だ。
 黄金聖闘士を名乗るのに遜色の無い実力を身につけたからこその射手座就任なのである。それを聖闘士になれなかった雑兵どもがどうこうできるとは思えず、アルバフィカは首を横に振った。
 は強い。それは彼女と共に育ってきた彼らが誰よりも良く知っていた。それでも心配する事をやめられる訳ではなく、アルバフィカは眉間に皺を寄せた。

「あーそうそう。前日にもし襲われたとしてもお前らや師匠たちは手出し禁止な」
「何で!?」
「うやっ!」

 アルバフィカが上げた大きな終えにルヴィオラが驚き、耳を押さえる。

「あああ、ごめんね、ルウ。…、何で僕達は動いちゃダメなの?」
「聖闘士の私闘は禁止だから」

 それを黄金聖闘士が率先して破ってどうする。

「それならは?」
「私は免罪符があるからな」
「免罪符……?」
「ああ、なるほどな。それなら誰も文句なんざ言えねぇな」
「あ、そっか」

 ニヤリと口端を吊り上げるデスマスク。アルバフィカも“免罪符”の正体に感づいたのか、合点がいったと頷く。
 何を話しているのかは解らないけれど、とりあえず自分が間に入る事が出来ない事だけはわかったルヴィオラが、むくれての髪を引っ張った。

「ママー?」
「はいはい、天蝎宮に帰ったらまた遊んでやるから良い子にしてな」
「パパも! いっちょ!」
「ルウが良い子にしてたらね」
「ルウ、いいこ!」

 はしゃいでアルバフィカの首筋にかじりつく。
 世話下手な蠍座と、彼らに大層懐いている次代のおかげで年々幼子のあしらい方が堂に入ってくる恋人の弟子達に、デスマスクは失笑を禁じ得ない。これでもう少し年が開いていれば、外見を注視しない限り完全に親子である。
 ひとしきりチビを交えて戯れた後、少しばかり気分が高揚したらしい少女に、デスマスクは少し気になっていた事を聞いてみた。

、あのガキに勝つ見込みは?」
「馬鹿にしてます?」
「いや」
「あいつよりもむしろ父親の方ですよ、厄介なのは……。ま、全ては当日を御覧じろってとこですかね」

 絶対に尻尾を掴んで引きずり降ろしてやる。
 紫紺の瞳がキロリと物騒に光るのを、デスマスクはまるっきり他人事として無責任に応援した。


NEXT