18.問題発生


 八つになった。
 すぐに年が明けて、アルバフィカの誕生日を迎えて春が来て。
 草木が芽吹き、瑞々しい緑が両腕を広げ色とりどりの花が蕾を開くようになった頃、が正式に射手座を継ぐことが決まった。
 決まったのだが、やはり東洋人の、しかも女なぞに神聖な、それも黄金聖衣を渡すなど……と言い張る者達が現れた。聖域は何故か東洋人への風当たりが強く、いずれは出てくるとは思っていたので、はそれほど驚きはしなかったのだが。
 彼らは古来から聖域を支援し、幾人も聖闘士を出している家柄で、今現在空きに空いている黄金聖闘士の座を狙っていた。
 達が埋めている席以外のものを狙えば確率も上がるだろうに、どうやら丁度良い年頃の聖闘士候補生が射手座にしかいないらしく、渡してなるものかとばかりにいちゃもんをつけてきたのだ。
 滅茶苦茶一方的な好敵手となっている少年が射手座になれる可能性はいかほどか。気になって教皇に聞いてみたところ、聖衣次第ではあるが既にと共鳴し主と認めているために、万に一つといった感じらしい。つまり、ほとんど有り得ないと。

「まぁ、がいなければ話は別だが」
「そりゃそうでしょう。で、それあいつらも知ってんですか」
「勿論だ。説得は出来なかったから十二分に気をつけろよ」

 このクソジジイ。
 しれっと言い放った教皇に、は仮面の下で青筋を立てた。いくら説得に必要な事項だとは言え、それでは問答無用で命を狙われるではないか。
 これまでに何度も権威やら権力を笠に着ていた連中の短慮さと狡猾さを大量に見て知っているために、そういう奴らがどういう手段を使って来るのか、容易に想像がついた。

「対策は?」
「一応講じてはいる。しかし万全とは言いがたいな。黄金聖闘士を始めとした十二宮の者達には既に伝えてあるが、決して一人で行動するでないぞ」
「わかってますよ。でもやむをえなく雑兵や他の候補生、または聖闘士に襲われた時は?」
「掟は守れ。聖闘士が、と言うのは考えたくも無いがな」
「同感です。貴重な人材失うのもねぇ……。そんじゃ、失礼します」
「帰りは……」
「この警戒態勢の徹底した十二宮で何が起こると。それに外ではアルバフィカとフーガが待ってますので」
「ほう」

 教皇は口元に面白そうな笑みを浮かべた。まるで今回の騒動を予め知っていたかのような用意周到さである。

「星でも読んだか?」
「人の口に戸は立てられないんですよ」
「なるほど」

 の不思議なほどの情報網から、既に不穏な話は伝わっていたらしい。
 この少女が危機的状況に陥る可能性が極めて低い事を改めて実感し、教皇は苦笑と共に少女を送り出す。
 そして彼の家をどうするかと、思い巡らすのだった。




、教皇は何だって?」
「射手座の地位を狙ってる奴がいるから気をつけろって」
「あの噂は本当だったのか」
「らしいな」

 愛らしい顔をしかめながら、アルバフィカは呟く。それを軽く肯定して、は壁に背をつけて待っていた二人を促した。
 アルバフィカが一歩前を行き、フーガが背に回る。必要ないかもしれないが、一応の用心だ。

「で、どうするんだ?」
「双魚宮でな」
「了解」

 ここで口にすべき内容ではないと、は口をつぐむ。アルバフィカもそのことは気になるのか、背後の会話に反応し、の言葉に小さく頷く。
 双魚宮までに、他と比べると短い階段を下ると、美しい顔を固く強張らせた師が回廊の前に立ち尽くしていた。
 当の本人と他の弟子達よりも深刻な顔をしているアフロディーテに、は呆れ半分にため息をつく。

「師匠、何してるんですか」
が出て行った後に教皇から通達が……」
「さっき聞きました。心配しなくても大丈夫ですよ」
「でも……」

 眉間に皺を寄せ口を引き結ぶ師に、は苦笑を浮かべ、手を引いて双魚宮の中へと入った。これではどちらが年上だかわからず、フーガとアルバフィカは顔を見合わせて苦笑し、彼らの後に続く。
 不安を前面に押し出している師をソファに座らせたは、どうしようもない子供を相手にしているような気持ちで薄葡萄の髪を撫でた。
 教皇から知らせが来てからずっと落ち着かない様子を見せていたアフロディーテにはらはらしていたロゼは、二人のその姿にほっと胸を撫で下ろす。

「ロゼ、ハーブティーを。鎮静効果のあるものが良いかな」
「はい、次代様」

 安堵の笑みと共に頭を下げた従者を見送り、二人は反対側のソファに腰掛けた。
 溺愛しているに慰められて多少は浮上したのか、師はいつものように表情を崩し仮面を取っ払ったをぎゅうぎゅうと抱きしめている。も慣れたもので呼吸を確保しつつもアフロディーテの好きなようにさせていた。
 いつものペースに戻りつつある空気に、アルバフィカもフーガも笑みを浮かべる。

「皆様がた、お茶が入りましたよ」

 トレーの上に湯気の立つカップを四つのせたロゼが、ソファの間にあるローテーブルにそれを配膳する。
 リラックスした笑みで礼を言うアフロディーテの腕の中で、は怪訝な顔をした。
 時折ロゼの手伝いで厨房に入り手伝いをする事のあるは、飲食物や食器を含め棚の中身を把握している。しかし、このハーブティーは見たことが無かった。首筋をチリリと予感が焼く。

「ロゼ、これどうした?」
「ちょうど昨日の事でしょうか、懇意にしている神官の方からいただいたのですが……」
「ふ〜ん……」

 するりと師の腕の中から抜け出して、カップを手に取り匂いをかいだ。強すぎる事の無い、清々しいハーブの香りの中に隠れて、かすかな薬品の香りが混ざっていた。やはり、と目を細める。

「ロゼ、今すぐその茶葉全部捨てろ」
「……わかりました」

 一人事情を知らされていないロゼは不思議そうな顔をしながらも、の冷えた表情に疑問を挟む事無く即座に従った。
 お茶を入れるよう頼んだアルバフィカは息を呑み、自らもハーブティーの匂いをかぐ。注意せねば解らぬほど、微かなものではあるが、それは確実に害意を伴っていた。
 フーガも同じように鼻を近づけ、わずかに口に含む。舌の上を、弱い炭酸のような刺激が走った。暢気な表情が崩れ、不機嫌に歪む。

「毒、だね」
「それも一般人でも一時的に身体を壊す程度の、すっごい弱いやつな」
「まだ殺すつもりはねぇんだろうよ」

 そう言っては毒入りのハーブティーを行儀悪く音を立てて啜る。それにぎょっとして、アルバフィカはに縋りその手からカップを取り上げた。フーガがそれを受け取り遠ざける。

!」
「どーして飲むかな、毒入りと知ってて!」
「効かねぇだろうが、このくらい」
「それはそうだけど!」
「こっちの心臓が持たねーんだよ!」

 幼少の頃から毒に身体を慣らし、今ではほとんどの毒物が効かなくなっている事を知ってはいても、大切な人がその身を害するものを口にしたという事実は非常に心臓に悪いものがある。
 ばくばくと嫌な高鳴り方をする心臓に手を当て絶対にやめろ、と口うるさく言い聞かせてくる二人にどこかくすぐったさを覚えながらも、こんな時一番に騒ぎ立てそうな師が静かな事に気付き、ふと振り向いた。
 瞬間、顔を引きつらせる。
 絶世の美貌からは見事に表情というものが抜け落ちており、その代わり、というべきか。浅緑の瞳は壮絶な怒りと殺気が混ざり合い、ギラギラと光を帯びていた。
 背後からは、何やらどす黒いどろどろしたものが湧き出ているような気もする。
 につられて師へと視線を移したアルバフィカとフーガともども、思わず後退った。が教皇に連れて行かれた時よりも、アルバフィカが泣かされた時よりも、その怒りも表情も凄まじいものだった。怖い。
 そこへ、茶葉を捨てに行っていたロゼが戻ってきて顔を出した。何と、タイミングの悪い。

「……ロゼ」

 淡々とした、けれども海底を突き抜けて冥界に突き刺さりそうなほど低い声が己の従者を呼ばう。

「は、はいぃ……!」
「お前にこの茶葉を渡した神官は誰だ」
「き、教皇の間のアウロス神官です!!」
「教皇の間の、アウロス……」

 八つ裂きにしてやる。
 声には出さなかったが、アフロディーテの形の良い唇ははっきりとそう動いた。
 さすがのも血の気を引かせ、今にも教皇の間へと突撃を仕掛けそうな師にひしと縋りつく。我に帰った弟弟子二人もそれに続いた。

「師匠、ちょっと待った!」
「止めるな! 可愛い娘に危害を加えられて黙ったいられるほど私は温厚じゃない!」
「それは温厚って言いませんって」
「フーガ、突っ込みどころはそこじゃないだろう! 師匠の気持ちは良くわかりますけど、それだけは駄目です!」
「神官に手を出したらいくら黄金聖闘士でも……いや、黄金だからこそ厳罰に処されますよ!」
「厳罰が怖くて聖闘士なんかやっていられるか!」
「言ってる事が滅茶苦茶っすよ、師匠」

 喧々囂々と押し問答を繰り広げながらアフロディーテを押し止めようとするものの、大人と子供では力の差がはっきりとしており、抵抗も空しくずりずりと弟子達は引きずられていく。しかも怒りが加わっている事もあってか、いつもよりもパワフルだ。
 激情に駆られ、弟子の声すら聞かない麗人に、は深々とため息を吐きすっと師から一歩遠のいた。
 静かに拳を握り締め構えるが何をしようとしているのか瞬時に理解したフーガとアルバフィカは、師がこれ以上進まぬように全力を込めて静止にかかる。
 怒りで目の前が真っ赤になっているアフロディーテは全く気付いていない。今の内である。
 は地を蹴って跳び上がり、一気に小宇宙を高めた。

「幻朧拳!」

 背後からまともに技を受けたアフロディーテが崩れ落ちる。
 その光景にロゼが悲鳴を上げたが、すぐにが幻覚を見せているだけなのですぐに起きるとフォローを入れ、アルバフィカとフーガに師をソファに運んでもらう。
 握っていた拳から力を抜き、その手を見つめて、初めて使った技が成功した事への安堵と、ある意味猪突猛進な師への呆れを複雑に混ぜ合わせた息をついた。
 ロゼが心配そうに見守る中で、ソファに身を横たえた麗人は、低くうめき声を発して薄くまぶたを押し上げた。
 倒れてからまだ数分ほどしか経ってはいないのだが、アフロディーテはひどく気だるそうに視線をさまよわせ安堵の息を吐くロゼを視界に入れると、たっぷり十数秒は停止した後で跳ね起きた。

「ここ双魚宮!? さっきまで確かに教皇の間であの神官を……」
「少しは落ち着きましたか、師匠」
「うん。アイツを八つ裂きにしたら少しスッキリ……あれ、にしては感覚が」

 じっと己の手を見つめる。どうやらがかけた幻術の中で、宣言どおりロゼに毒入りのハーブティーを渡した神官を八つ裂きにしていたらしい。
 それも魔宮薔薇を使わず素手で。
 本当に容赦ねーなー、おい。
 胸中で突っ込むの横で、フーガが引きつりながらも師に笑いかけた。

「師匠、師匠。満足してるところ水差すようで悪いけど、さっきのそれ幻だから」
「幻……? あ、の幻朧拳」

 あれほどまでに精巧な幻に一つ思い当たり、最愛の弟子を見る。はその視線を受けこくりと頷いた。
 すると先ほどまでは般若のようであった師の表情はとろけるようなそれに変わり、どす黒かった背後には大量大輪の花が咲いた。完全な弟子溺愛モードである。

「幻朧拳、使えるようになったんだね! すごい!」
「アリガトーゴザイマス」

 再びぎゅむぎゅむと抱きしめてくる師に棒読みで返す。けれど今度はすぐにその腕の中から抜け出し、不満顔の師匠と向かい合った。

「師匠、言っときますが、ロゼに毒入りの茶葉を渡した神官は何も知りませんからね、多分」
「何で?」
「例え首尾よく私を殺せたとして……」
!」
「例えば、の話だフィー。死ぬ気は無い」
「……うん」
「話を戻しましょう。たとえ私を首尾よく殺せたとしても、その証拠が残るようなやり方では、奴らの身内から黄金聖闘士を出す事は出来ません。むしろ厳罰に処されます。それは向こうもわかっているはず。そんな彼らが、こんな簡単に尻尾を出すようなまねをすると思いますか?」
「いや、思わない」
「そうでしょう。どうせあの神官に渡るまでに何人か間に挟んでますよ」
「でも、それだと途中で誰かに飲まれる可能性もあるだろう?」
「だからあちらさんもその程度って事か」
「周囲に無差別に、でも死者が出ないように被害を撒き散らしてを追い詰めるのが目的って事、かな?」
「だろうな。現に、あの茶には双魚宮に住む者を害するほどの毒は入っていなかった」

 現黄金たる師よりも、共にいる時間の長いフーガとアルバフィカの方がの思考をトレースするのが早い。口々に正解をはじき出し、彼らの師は多少の悔しさと共に弟子達の鋭さに舌を巻いた。
 だてに教皇とその補佐として教育を受けているわけではない、と言う事が窺い知れる。
 けれどそれも彼らがの手伝いをしたいが為に身に着けたものだ。の影響力の強さに、アフロディーテは改めて驚きを覚える。

「できればから辞退してほしい……ってか?」
「でも聖衣が認めなければ黄金聖闘士にはなれないだろう」
「行き着く先は結局のところ暗殺だ。聖闘士になれなかった一候補生が消えようと誰も気にしねーから、その時にはやりたい放題だろうさ」
「僕は気にする!」
「俺は気にする!」
「私は気にする!」
「ロゼもです!」

 異口同音で三人に否定され、ハーブティーに毒が混ざっていたと知って青ざめていたロゼにも頷かれて、は一瞬目を見開いて、珍しくも本当に嬉しそうな素の笑みを浮かべて見せた。

「うん、知ってる。この十二宮外でって意味だ」
「そうでもないと思うけど」

 十二宮の外でも――主に女性中心に――人気があることを知っていたアルバフィカは、口の中で小さく呟く。それにが「何か言ったか?」と反応したが、何食わぬ顔で首を横に振っておいた。この十二宮以外で、が何かに気をとめる、というのは何だか嫌だった。十二宮内ならば諦めもつくというのに、不思議と。人はそれを独占欲という。

「しかしまぁ、そうは問屋が卸さないってのが現実ってもんだ。私もこの五年を無駄にするつもりはねぇし、射手座交代劇は連中の妄想の中までにしてもらおうぜ」

 策士然とした黒くも頼もしい笑みに、フーガは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、アルバフィカは愛らしい花を咲かせた。

「具体的には?」

 わくわくしているらしい師が身を乗り出す。首を突っ込む気満々らしい。

「まず最初に奴らの尻尾を掴む。その後は……」
「その後は?」
「奴らの射手座候補と一対一の真剣勝負といこうじゃねーか」
「なるほど」
「確かに、いくら厚顔無恥な狸でも、公衆の面前で勝負がついちゃー、文句なんか言えねぇな」
「で、その後に握った証拠を突きつけて狸は失脚。の安全も確保される、という事か」

 いいね、と美しい顔にイイ笑顔を浮かべるアフロディーテ。
 可愛い可愛い弟子であり娘でもあるの命を狙った事は許し難いが、どんな拷問にかけ肉体的精神的苦痛を与えようと鬱憤を晴らす事などできないのは明白なので、この際に全てを任せてしまう事にした。
 ただし、しっかり自分もその計画に加わる気でいるが。それにどうせなら。

「ねぇ。デスマスク達にも手伝ってもらおうか」
「勿論そのつもりです師匠」

 立っているものは例え教皇であろうが酷使しろ、というのがの格言だ。
 日々強かになっていく己を軽く賞賛しながら、笑顔の裏で着々と計画を練っていく。
 の辞書では、計画の失敗や敗北と言う文字は極太の油性ペンで黒々と塗りつぶされていた。


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