17.クレモナにて:壱
十八世紀。それは貴族・王族が中心の時代。
つまり、聖域の外交――資金の問題や戦力の塊である聖域を守るため等に必要らしい――相手も当然の如く貴族王族で、彼らを相手にするためにはそれなりの教養が必要となる。
白銀以下の聖闘士ならば早々彼らの相手に回されることも無いので、教養もそれほど力を入れる必要はないのだが、聖域の威信を示すため、時には外交もこなさなければならない黄金聖闘士はそうも行かない。
幾多の言語にダンスやオペラやハープシコードやオルガン、バイオリンを始めとした弦楽器、木管楽器等の音楽的素養、そして機知に富んだ話術を必要とする。
人によって得手不得手があるために選択する事は出来るが、基礎だけは全員が叩き込まれるのだ。
それは達も例外ではなく、むしろ幼い頃から始めておけば収得も早いだろうという事から、やけに早期にその教育は始められていた。
「長期任務、ですか」
ドレス姿でくるんと優雅なターンを決め、は首を傾げる。その顔には無粋だという理由で仮面が外され、不思議そうな表情が露になっていた。燕尾服姿で交互にの相手をしていた二人も、顔を見合わせる。
「うん。一ヶ月くらいイタリアのクレモナの方にね」
クレモナ。地名を聞いてもあまりピンとこず、弟子達は首を傾げる。その様子に可愛いーととろけるような笑みを浮かべながら、アフロディーテはイタリア北部のロンバルディア州のポー川沿いにある都市で、現在はオーストリアの支配下にある場所だと語った。
頭の中に大雑把な地図を描きながら、大体のあたりをつけ頷く。
「まぁ、気をつけて行ってきて下さい」
「余裕があったらお土産よろしく、師匠」
「僕達はその間いつものように巨蟹宮に行ってればいいんですよね」
三者三様に今の格好にあった礼を取る。小さな紳士と淑女の姿に機嫌よく頷きかけ、彼らの師ははたと動きを止めた。
次いで勢い良く首を横に振る。
「違う、そうじゃなくて! 君達も私と一緒に行くんだよ、クレモナに!」
教皇の許可ももらってある。
まだ聖闘士にすらなっていない子供に手伝えるような、もしくは子供が必要な任務なのかと、三人組は視線を交わす。が、彼らの師匠はあっさりとそれを裏切ってくれた。それも至極師匠らしい、脱力するような理由で。
「だって一ヶ月も顔が見れないなんて……! そんなの耐えられる訳無いだろう!」
「師匠……」
「らしいなぁ……」
「うん。師匠だね」
が頭を抱え、フーガが呆れたような笑みを浮かべながらも外界へ出られるという期待に鬱金の瞳を光らせ、アルバフィカは苦笑した。
そんな弟子達の様子には目もくれず、我が道を行く師匠は満面の笑みで続ける。
「その間の修行は瞑想とPK中心で、教養は音楽中心ね。荷造りはもう終わってるから心配ないし。ロゼ!」
「はい、双魚宮様。準備はこちらに」
ほえほえの笑みを浮かべたロゼが、同型色違いのトランクと、そのすぐ傍に置かれたバイオリンケースを指す。彼の腕の中には外出用の衣装がしっかりと用意されており、その周到さに息をつくしかなかった。
かくして、魚座師弟はイタリアのクレモナに繰り出すのだった。
クレモナという町は、ミラノとヴェネツィアの間にある小さな街だ。サン・ドメニコ広場にはバイオリンの工房が立ち並び、街中は弓が弦をこする音を中心とした音で溢れていた。
「だからバイオリン、ね」
ようはいい音や音楽に触れて耳を養え、ということだろう。師がそこまで考えていたかどうかは定かではないが、教皇があっさりと許可を出した意図はこれで大体予想できた。べつに師に粘り負けたというわけではなかったらしい。
それもそうだ。教皇は既に二世紀以上生きている妖怪といってもいい存在で、それこそその十分の一ほどしか生きていない師は本当にただの小僧でしかないだろう。
二階の窓から身を乗り出し街中を見下ろしていたは、冷たく乾いた空気を吸い込み室内に目を向けた。
豪邸とはいえないが、大人一人と子供三人で住むには大きすぎる屋敷が、今回の宿泊先だった。
達は二階にある三部屋をそれぞれにあてがわれており、の部屋を真ん中に、一番奥がアルバフィカ、手前がフーガといった具合である。
部屋の中にはクローゼットとベッド、それにドレッサーがあり、姿見が壁にかけられていた。サイドテーブルにはランプが一つ。そして本棚には、楽譜が数種とイタリア語の本がいくつか。
シンプルすぎて可愛げの無い部屋だと師はぼやいていたが、にはこのくらいが丁度よった。ごちゃごちゃしすぎていると目が疲れる。
ベッドには子供のには随分と大きかったが、きっと夜になれば丁度よくなるだろう。両隣の弟弟子が必ずもぐりこんでくるのだろうから。今では三人で固まって寝るのが習慣になっていた。
それも聖闘士になるまでの事だろうと、いろいろと思い悩んでいるらしい師に対し、は思っているが。
トランクの中身を片し小さく息をつくと、戸を叩く音と共に浅葱色の頭がひょっこりと顔を出した。
「、準備できた?」
「おう。フーガは?」
「もうちょっとだって」
開けっ放しだった窓を閉め、バイオリンケースを持って扉に向かう。アルバフィカの手にもバイオリンケースが握られており、彼の格好が普段と違うことも相俟って、良家の子息然としたものである事に改めて感嘆する。
そういうもドレス、というかスカートなのだが。
裾を踏まないようにゆっくりと歩いていると、隣に並んでいる少年の視線を感じ、顔を上げた。
アルバフィカの顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「何だ?」
「ここにいる間はずっとそのままだよね」
「そのまま? ……ああ、仮面の事か」
花浅葱がじっとの顔を見つめている事に気付き、顔に手を当てた。外に出るとあって、は素顔を晒している。最近頓に仮面を外す機会が多いような気がする。裸を見せるより屈辱的だという事実は何処へ行ったのだろうか。もっとも、は裸を見られる方がよっぽど嫌だが。
「仮面舞踏会以外で仮面なんか外で付けられねぇからな。ここにいる間はこのままだろうさ」
「そっか」
にこにこと笑みを浮かべるアルバフィカはひどくご機嫌だ。
アルバフィカはこの同門の少女の紫紺の瞳がとても好きだった。普段は呆れや苦笑といった色を滲ませはしても、決して揺らぐことはなく硬質な光を宿し常に冷徹なのに、心からの笑みを浮かべたり、彼女にとっての庇護の対象を前にすると、深いアメシストが鮮やかに柔らかな焔へと変わるのだ。
聖域に莫大な金と引き換えに売られるようにして連れてこられたとき、周囲の空気に圧倒され酷く怯えていたアルバフィカに向けられた大人びた笑みと瞳の柔らかさを、今でも鮮明に覚えていた。
きっと幼い頃の記憶がどれだけぼやけても、それだけは最期の瞬間まで忘れないだろう自信がある。
そんなアルバフィカの思いを知らず首を傾げるの手を引き、アルバフィカはフーガの部屋の戸を叩いた。
ちょっとした豆知識(?)
作中出てくる「ハープシコード」というのは、フランス語ではクラブサン、イタリア語ではチェンバロ、クラビチェンバロとも言います。
ピアノもこの時代には既にB.クリストフォリの手によって開発されていたそうですが、それが広まり移行したのは18世紀後半から19世紀にかけてのことです。
それまではこのハープシコードやクラヴィコードが主流でした。
J.S.バッハはピアノには否定的であったそうです。
だからといって、演奏されていないわけではなく、1747年にフリードリヒ大王より与えられた主題で、ピアノで即興演奏を行ったとか。
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