17.クレモナにて:弐


 師・アフロディーテの今回の任務はやけに規則正しく、朝出かけて夜には必ず帰ってきていた。
 達も、朝から昼にかけてはバイオリンを持って外に出、昼食を終えてシエスタを堪能したあと、瞑想とPKの修行をし、夕食は三人で作り食べたあとは勉強をするという生活サイクルが出来ている。
 そんな生活にすっかり慣れたある日の事、達はサン・ドメニコ広場でバイオリンケースを開けていた。
 今現在練習中なのはパッヘルベル作曲、三つのバイオリンと通奏低音のための≪カノンとジーグ・ニ長調≫だ。この曲のカノンの部分はパッヘルベルのカノンとして有名であるため、どこかで必ず耳にした事があるだろう。
 はパッヘルベルがほんの三十年ほど前に死んだばかりだと知らされ、少しばかり驚いた。まさかこの時代にいたとは思わなかったのだ。は知らなかったが、この時代はバロック音楽の後期で、有名な音楽家ではJ.S.バッハやヴィバルディがまさしく生身で存在する時代である。






「んー、指が上手く動かねぇ」

 フーガが弦を押さえていた左手に息を吐きかけながらぼやく。アルバフィカもどうやら同じ意見のようで、首を縦に振りながら手をこすり合わせていた。
 そんな中、ただ一人平然とした顔をしているを、鬱金の瞳が恨めし気に睨む。

「な〜んでは一人涼しい顔してんだよ。他人事だと思って……」
「実際他人事だろうが。私の指は良く動く」
「いいなぁ」
「全くだ」

 ちろりと、少年二人は視線を交わしてにんまりと悪戯を思いついた時のような笑みを浮かべ、二人と同じようにバイオリンをケースの中に置いたの手を掛け声と共にはっしと掴んだ。

「えいっ」
「おりゃっ」
「ひっ」

 氷のように冷たい手に両手を掴まれ、は短い悲鳴を上げた。そこから両手を救出しようと試みるも、よりも力のある二人にガッチリと掴まれていてはそれもかなわない。
 顔を引きつらせてもがくに対し、その冷たい手の主達は掴んだぬくもりに幸せを感じ頬を緩めていた。

「あったけ〜」
「あったか〜い」
「私は冷てぇよ! は・な・せ!」
「「やだ」」
「ハモるな、腹の立つ!」

 手の先から鳥肌が這い上がり、身体を震わす。は暑さには多少なりとも耐性があるが――何せ前世では地球温暖化が声高に叫ばれている、蒸し暑くアスファルトの照り返しも激しい場所に住んでいたのだ――逆に寒さは全くと言っていいほど無かった。それでどうしてギリシャの、それも石造りの住居で普通以上に生活できているかというと、それはの絶え間ない努力の結果だ。
 珍しく本気で嫌がるに、二人は再度顔を見合わせる。の嫌がる事は絶対しないと宣言しつつ、それでも今その手を離さないのは、それだけ二人の手が冷え切っており、彼女の手が温かかったからだ。

「ねぇ。何でこんなに温かいの?」
「そうそう。俺たちゃこんなに冷えてるってーのに」
「小宇宙燃やし続けてるからに決まってんだろうが!」

 冷えた身体でぴとりとくっついてきそうな勢いの二人に、は身を引きながら声を落として叫ぶ。

「コス……むぐっ」
「小宇宙〜? んなことできるのか?」

 思わず叫び出しそうになったアルバフィカを両手で押さえ込み、フーガは目を丸くして声を落とす。ようやく取り戻した手をすり合わせながら、は眉間に皺を寄せた。

「できる。っつーか、現に今私がやってんだろうが。必要最低限だけ燃やしてるから注意しなきゃわからんだけの話だ」

 苦い顔で語るに、フーガは顔を歪めてうめいた。それにはとても微細な小宇宙コントロールと持久力を必要とすることで、フーガにとっては苦手な部類である。いくら小宇宙を視認できるといっても、それとこれとは全く別の話だった。
 フーガは小宇宙を体得するのは早かったが、細かいコントロールが苦手で、なかなかヒーリングを覚える事が出来なかった。そして未だに苦戦している。
 その隙にフーガの手から逃れたアルバフィカは、目を閉じてゆっくりと己のうちの小宇宙を燃やしていく。傍目には全く変わらないように見えるが、集中したフーガの目にははっきりと黄金の煌きがその身を覆う様が見えた。
 確かに注意して見なければわからない。

「ずりーぞ、二人とも」

 頬を膨らませるフーガ。はさっきの仕返しとばかりに鼻で笑って一蹴した。

「はっ、悔しかったらとっととヒーリングできるようになってみろ。黄金聖闘士がノーコンだなんて恥ずかしくて目もあてらんねーよ」
「〜〜〜っ! くそっ、ここにいる間に絶対収得してやる!」
「頑張って、フーガ」

 誰よりも認めて欲しい人に馬鹿にされた事に羞恥と悔しさを覚え、フーガは顔を赤く染めながら息巻く。と同じように、逆の順序で小宇宙を収得しコントロールを得意とするアルバフィカは、無邪気な笑みと共に声援を送った。
 絶対に見返す! と決意も新たに拳を握るフーガに立派立派と適当に相槌を打ちながら拍手を送り、は弓を拭ってヘアーを緩め、バイオリンを片付け始めた。
 アルバフィカが空を見上げると、太陽はかなり高い所にある。
 明後日の方を向いているフーガの服を引いて現実に引き戻してから、急いで二人も少女に倣った。そして少年達を待つことも無くとっとと帰路へとついてしまったを追いかける。

「待って、!」
「一人でさっさと行くなってば!」

 結構必死に呼び止める声に、は一瞬口元に笑みを刻んでから振り向く。
 少しだけ、今はもう会う事の出来ない異世界の家族を思い出し、心を僅かに寂寥が掠めて通り過ぎた。

「本っ当にマイペースなんだもんなぁ」
「でもそうじゃないとじゃないよ」
「そうそう。これが私だ、諦めろ」
「ちぇー。……!?」

 一瞬、ほんの一時だけ強い視線を感じ、三人は一斉にその方向を向く。あまり褒められた事ではなかったが、殺気や悪意といったものはかけらたりとも感じなかった。
 しかもそれでいて、驚くほどその視線には何らかの情が過ぎるほど強烈に篭っており、聖闘士候補生達の神経に荒々しく触れたのだ。
 常人と比べると良すぎるほどの反射と視力でその視線の主を探すも、既に立ち去っているのか、見つけ出す事は出来なかった。
 周囲にいるのは、彼らと同じく楽器を携えたものや、子供やかくしゃくとした老人だけだった。ぱっと見、聖闘士候補生――それも黄金――の神経に触れるほどの者がいるとは、正直思えない。

「何だったんだ、今の……」
「敵ではねーな、多分」
「うん。でも何か、すっごく強烈だった」

 思い切り顔をしかめ、先ほどの視線について唸りながら考え込む。皆それぞれに真剣ではあったのだが、彼らは成長期の子供。刻一刻と迫ってきている昼食の時間を前に、フーガの胃が空腹の具合を主張し始めた。

「……こんな所で考えても仕方無ぇ。とっとと家に帰って飯にしよう、飯に」

 少々呆れた様子を見せるに、フーガがへらりと笑みを浮かべる。しかしそう言うも、かなり腹が空いていた。フーガのように音を立てたりはしないだけで。
 の促すままに、笑いながら従い家路へとつこうとしたとき、ふとある人物がアルバフィカの意識の端に引っかかった。
 先ほどのもの比べものにならないくらい小さな気配ではあるものの、やけに鮮やかな意志の強さは似ている。
 思わずもう一度振り返った先にはたった一人の老人がいるのみで、アルバフィカは首を傾げる。
 老人……まさかそんな事はあるまい。己の内に湧き出た疑問を否定し、アルバフィカはに呼ばれるままに駆け寄り、あっさりとその出来事を記憶の中へとしまった。
 その予想が当たっており、視線に篭った強烈過ぎる意思の真意を三人が知るのは、これより数日後のことである。


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