17.クレモナにて:肆


「本当に良かったのかなあ」

 勉強の手をふと止め、アルバフィカが呟く。フーガはその声に顔を上げ、その原因となったは一人黙々と勉強を続けている。
 何と言えばいいのか反応に困っていると、がその姿勢のままで口を開いた。

「良いんだろ。あの人も孫って人も感謝してたし」

 あの後、老人の言った通り、工房に残していったバイオリンが届けられたのだが、その配達人というのが、の言う通り彼の老人の孫だったのだ。とはいっても、老人も年かさで、孫ももう中年に差し掛かっていた。
 どうやら達の手に渡った三挺のバイオリンは、老人以外にもそのいく先をそれはもう心配されていたらしく、驚くほど感謝されてしまった。まあ、あれだけの名器ならば仕方のない事かもしれないが。

「まぁ、もう受け取っちまったしなあ」
「何を受け取ったんだい?」

 天井を見上げて呟くフーガに、背後から美声が問いかける。三人がそろって振り向くと、薄葡萄の髪の美人――彼らの師が不思議そうな顔をしてたっていた。
 師の帰宅に気付かなかったという失態に、は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「……お帰り、師匠」
「お帰りなさい」
「お帰り〜師匠」
「ただいま!」

 花開くような笑みを浮かべ、アフロディーテは椅子に座ったままのとアルバフィカを両腕で抱きしめた。
 可愛い弟子達の頬に交互にキスを落とし、期待に輝く師の頬にアルバフィカとは苦笑を見合わせた後、お返しのキスをする。それに満足したアフロディーテはもう一人の弟子にも同じように帰宅の挨拶をし、フーガの隣の指定席に落ち着いた。

「それで、何を受け取ったんだい?」

 もう一度先ほどと同じ質問をする師に、弟子達は顔を見合わせて一瞬で意思の疎通を図り、机の上を手早く片付け、それぞれに件のバイオリンを呼び寄せた。
 机の上に並んだ大小六台のバイオリンケースに、アフロディーテは目を見開く。

「バイオリン? ……! これはまた、すごい美人達だね」

 ケースを開け出てきたバイオリンに、鑑定眼の確かな師は息を呑んで絶賛する。そしてその日、日中にあった出来事を三人で補足し合いながら報告した。
 アフロディーテは、それに真剣な顔をしてを見据える。


「……何でしょう」
「知らない人に付いて行っちゃ駄目でしょう!」

 くわっと目を見開き声を荒げる。

「その人が危ない人だったらどうするの!」
「でも師匠、うぬぼれるわけじゃありませんが、聖闘士にかなう一般人がいるとでも?」
「一般人ばかりとは限らないだろう」
「事前に小宇宙は探りましたし、危険は全く感じませんでしたから。それにアルバフィカもフーガもいましたし」

 いかな候補生とはいえ、いずれは黄金の地位を受け継ぐのだ。今の時点でさえ白銀や青銅の候補生達とは一線を画する彼等ならば、もし敵に遭遇したとしても、迎え撃つ事はかなわずとも、三人いれば逃げ出す隙を作る事くらいはできると自負している。
 言外に頼りにしていると言われたも同然である少年達は、その喜びを満面の笑みへと変えた。頬を紅潮させて少女の言を肯定する二人に勢いをそがれたアフロディーテは、可愛いなぁもう、と心中でこぼしながらため息をついた。

「まぁ、君達にかなう奴もそうそういないとは思うけど……本っ当に気をつけてよ。君達に何かあったら、私は、私は……っ!」

 言っている内に気が高ぶったのか、浅緑の瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔をする麗人に、アルバフィカは慌てて席を立ち、膝の上に上って頭を撫でる。フーガも横から手を伸ばし、小さな子供を撫でるように慰めていた。
 そんな状態の師に既に慣れてしまい、一人動かないをアフロディーテは何かを訴えるかのようにじっと見つめ、その意図を正確に読み取り、捨てられた犬のような目に負けたは、胸中ででっかいため息をつくと椅子から降りて渋々師へと歩み寄る。
 アルバフィカと同じように膝の上によじ登ると、アフロディーテは喜々としてそのしなやかな腕で、これでもかというほど愛して愛して愛しまくっちゃってる弟子三人を一緒くたに抱きしめた。
 むせ返るような薔薇の芳香に埋もれながら、そういえばあの老人の名前を聞いていなかった事を思い出す。
 その時はまあ良いかと思ったのだが、後に、作られたバイオリンには製作者の名が書かれていることを思い出し、確認したが、ラテン語で書かれた Antonius Stradivarius Cremonenfis というサインを見つけ、驚愕のあまり茫然自失し、立ち直ると同時にその腕の確かさに心底納得するのは当然のことと言えるのであった。








あとがき(?)&ちょっとした豆知識(?)
 大体1737年の11月から12月にかけてを想定しています。
 最後の文章で老人の正体は解るかと思いますが、ええ、彼です。
 今現在、オークションに出すと、数億の値が付くバイオリンの製作者、アントニオ・ストラディバリ氏。
 彼は93歳まで生きて上記の年の12月18日にお亡くなりになり、サン・ドメニコのバシリカに埋められるのですが、教会は現在は解体されており今現在彼の遺骸は失われたままであるそうです。
 ストラディバリ氏はその生涯で、推定1100挺ものバイオリンを作ったそうです。現存しているのはその約半分の約650挺。
 そして得に優れているものは1715年のものだと言われています。
 その他にもギターやヴィオラ、チェロ、ハープなども製作したとか。


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