17.クレモナにて:参


「いてぇっ」

 ビィン…という音と共に、バイオリンの一番細い線――E線が切れて宙を舞い、強かにフーガの頬を打った。子供の柔らかな皮膚はぱっくりと裂け、血が出ている。
 周囲から小さな悲鳴が上がるが、それ以上の怪我を負うことが既に当たり前の事となっている三人は、奇妙なくらい――本人達にとってはごく当たり前――に、至極冷静にその怪我に対処する。
 アルバフィカがのバイオリンを片付け、は清潔なハンカチを取り出して彼の頬に押し当てた。

「あ〜びっくりした」

 のヒーリングの小宇宙をハンカチ越しに感じながら、フーガは数度瞬く。ほどなくしてハンカチをどけると、血の跡が少し残り、薄く皮膚が裂けた状態で治癒は止まっていた。公衆の面前ではこれが限界だ。
 そこのところを師からも言い含められ良くわかっているフーガは、その治療の絶妙さ加減にニカリと笑う。

「傷が浅くて良かったな」
「おう。ありがとな」
「別に。…換えの弦も持ってきてねーし、今日はもう帰るか。フィー」
「うん」

 唇の端を吊り上げるに、相変わらず格好良い姉弟子だと思いながらフーガはその提案に頷き、バイオリンをケースに入れる。いや、入れようとしたのだが、横から伸びてきた手にさらわれてしまった。
 驚いてその手を追うと、どこか気難しい顔をした一人の老人が、じっとそのバイオリンを見詰めている。年は七十代から八十台くらいだろうか。このサン・ドメニコ広場では良く見かける顔の内の一人だ。
 アルバフィカはそのバイオリンを凝視する老人の瞳が、この間の酷く強烈な気配を持って自分達に向けられた視線に酷似している事に気付き、目を見開いた。そういえば、その後で見かけた老人もこの人物だったはずだと思い至る。
 驚きは驚きでも、フーガとは違う視点でのものだと気付いたが、アルバフィカに小宇宙で呼びかけた。それに、多分ではあるがこの間の視線持ち主である事を伝える。
 も僅かに目を見開き、次いで探るように目を細め身長に老人を観察した。だがしかし、これといって殺気や悪意なんてものは感じなかったし、身体を鍛えているという風体ではない。小宇宙とて、一般人のそれと同じものだ。
 どうやら聖域の関係者――もちろん襲ってくる敵含め――ではないらしいと結論付けて、肩の力を抜いた。
 一般人ならばどうとでもなる。最低限の警戒心までは解かないまでも、傍にいると身が引き締まるような空気がなくなったことに安堵しながら、アルバフィカもそれに倣った。
 老人はそんな三者三様の視線の中、とっくりとフーガの弦の切れたバイオリンと、片付け途中の二人のものを観察し、皺に埋もれた瞳をとアルバフィカの方へ向ける。

「君達のバイオリンも、これと同じものか?」
「そのはずですが……」

 怪訝な顔で返すに、老人は一つ頷く。そしてフーガのバイオリンを手にしたまま、老人は一言「ついて来なさい」と言って歩き出してしまった。
 フーガとアルバフィカが困惑と共に顔を見合す中、は紫紺の瞳をキラリと光らせ、己のバイオリンケースを持って一人すたこらとその後を追う。
 危険などかけらも感じなかったし、何よりあの老人の力強い意思を秘めた目に興味を引かれた。それに、どこかで見たことのあるような、あの老人の手も気になった。
 迷いの無い足取りで老人の後をついていこうとする少女に、少年二人は慌てふためき、急いで彼女を追う。ひらりとスカートの裾を翻して颯爽と歩くさまは背筋がピンと伸びて美しく、いつもよりも生気に満ちて見えた。
 何だかいつも、自分達はこの背中を追いかけているような気がする。置いていかれたくは無いという、強い想いと共に。


 しばらく歩き、着いた場所はひっそりと静まり返ったバイオリンの工房だった。材料となる木や弦、そして接着に使われるニカワがあふれ、独特のにおいに満ちていた。
 興味の赴くままに木屑を踏みしめ工房内を見回しながら、は一人ごちた。

「“職人の手”だったか」

 どこかで目にした事があって当然だ。扱っているものが違っている事もあって、手についた傷やら形状自体は全く別のものではあるのだが、受ける印象は牡羊座の手のそれと酷く似通っていた。
 フーガのバイオリンを直してくれるのだろうか。そう思っていたのだが、老人は手に持っていたバイオリンを作業台の上に置いて、奥の方へといってしまった。その際に、とアルバフィカの手からバイオリンを取り上げて、一緒に台の上に置いてしまう。
 なぞでしかない老人の行動に、率先して老人についてきたも困惑してしまった。三人は似たような表情で顔を見合わせる。
 ほどなくして、老人はその手に三挺のバイオリンを手に戻ってきた。そのフォルムは心なしか達のものよりも優美に見える。飴色の美しい肢体に見入っていると、老人はずいっとその美人達を子供達に突きつけた。反射的に受け取った三人は、老人を見上げる。

「弾いてみなさい。弓はこれを」

 まるっきり断れない空気である。聖域に来てからというもの、諦めて流れにまかせるという事を覚えたは、促されるままに弓に松脂を塗り、バイオリンを構えた。曲目は、と聞くと、何でも良いと返される。調弦は既に終えているらしく、すぐにでも演奏可能なようだ。
 一呼吸置いて、弦に弓を滑らせる。そうして流れ出た一音目の美しさに、は目を見張った。少年二人に渡されたバイオリンの音色もいつも以上に美しく、老人の職人としての腕の確かさを、それは如実に表していた。
 しかし老人は納得がいかないようで、首を横に振るとバイオリンと弓を三人から取り上げて、また奥に引っ込んでしまった。そしてまた違うバイオリンを持ってくると、達に引かせ、首を横に振ってはそれを取り上げる。
 その動作を何度か繰り返し、達がいい加減疲れてきた頃に、先ほどよりもいくらか厳しい――真剣なといった方が良いだろうか――顔つきをした老人が現れた。その手には、今までとは趣の異なるバイオリンが握られていた。何というか、一言で言えば異質としか表現できない雰囲気を、そのバイオリン達は備えている。
 に渡されたものは色が少し黒っぽく、アルバフィカのものは白みがかっており、フーガのものはオジが差している。数多くあるバイオリンと同じ形をしているというのに、明らかに異色を放つその三挺は、子供達の意識を大いに刺激した。
 今回師の任務に同行して外界に来ているが、今一馴染めず周囲との違和感を居心地悪く思っている自分達と姿を被らせたからだ。そう思わせるものが、その三挺にはある。
 自分から手を伸ばして受け取り、老人の視線の中で、弓を弦にあてがう。
 三人の子供を――いや、子供の持つバイオリンに注がれる視線には強烈な意思と煮えたぎる感情が篭っており、一秒経つごとに、その熱は熱さを増した。
 その視線には覚えがある。数日前、達の意識に無遠慮に触れてきた例の視線だ。あの時はそれが何だか解りかねたが、この老人を前にして初めて理解した。この強烈な、聖闘士を振り返らせる強さを持った視線の正体は、老いた職人の己の作品に対する執念であり、何よりも、消えうせる事の無い不屈の情熱そのものだ。
 達に何を期待しているのかという疑問が胸に湧いたが、弓を滑らせた瞬間、その思考の全てが吹っ飛んだ。
 弓が弦を摩擦し、空気を振るわせる音は今まで聞いた事が無いほどに壮麗なもので、アルバフィカのバイオリンからつむがれる優柔でしなやかな音色と、フーガのバイオリンから生み出される深みと軽やかさが面白いほどマッチした音色が重なると、天上の音色もかくやと言わんばかりのものへと昇華していく。
 あまりの美しさに、体中の肌が粟立つ。そして奥底の方から溢れてくる音たちに戸惑いながらも、あまりにも雄大な流れを止めることがもったいなさ過ぎて、思い思いにその流れに身を任せた。



 演奏を終え、軽く乱れた息を整えながら、感動と共に老人を見上げると、何度も何度も首を縦に振りながら、生きた年月の分だけ皺を刻み込んだ目元から涙を零していた。

「……おじいさん?」

 おずおずと、アルバフィカが声をかける。老人は目を細めてどこか遠いところを見つめ、ややあって口を開いた。

「そのバイオリンは、22年前に私が手がけた最高傑作の分数楽器だ。今までそれを弾きこなし、あまつさえ他の二台と音を重ね美しい音色を出せたものは一人としていなかった。一つ一つは最高のものでも、互いの長所を打ち消しあってしまっていた」

 老人は立ち上がり、再び奥へと足を運ぶ。戻ってきたときには、分数バイオリンのケースを三つと、本来の大きさのものが入ったケースを三つ、台に載せて押してきていた。老人は子供達に視線を合わせるためにしゃがみこむ。

「お嬢さんたち、このバイオリンどもをもらってはくれんだろうか」
「え!?」

 この申し入れには思わずも驚愕の声を上げる。どう考えてもこの職人の腕は超一流で、作品たるバイオリンも然りだ。
 三百年ほど経てば億の単位がつく事が容易に予想できるような最高級な代物を、この老人はただで譲り渡すという。
 戸惑いを露にする。楽器の事はそれほどわからなくても、これが最高級に値するものだという事を肌で感じ取った二人も、顔を見合わせて互いの内側にある動揺を見つける。
 老人は作り出すための手での持つバイオリンをケースに収め、小さな手にしっかりと握らせた。

「正直、この私が生きている間にそれらの主が現れるとは思っていなかった。作った私が言うのもなんだが、それらは思った以上にわがままでな。私はもう90年以上も生きている。いつ死んでもおかしくは無い。それを恐ろしいとは思わないが、このバイオリン達のことだけが心残りだった……」

 90年。この時代では目を見張るほどの長寿である。そういう本人はどう見ても本来の年齢より二十歳は若く見えるのは、全身全霊をかけて打ち込める事があるからだろうか。

「……私たちは教養の為に弾いているだけで、音楽家ではありません。あなたの大切なバイオリンを生かすことは出来ない。それにいつ死んでもおかしくないような環境に、私たちはいます。いずれ、人を殺す事だって有り得るでしょう」
「軍人の家系か、何かか」
「似たようなものです」
「ならば余計に。音楽は人の心を豊かにする」
「この楽器を上手く歌わせてくれる、私たち以上にこの楽器に相応しい人がきっといます」
「いいや、これらの主は君達だけだ」

 苛烈ともいえる老人の瞳に、思わずもぐっと言葉に詰まる。海千山千のはずの神官たちよりも迫力があるような気がするのは何故だ。

「魂の宿るものは己で主を選ぶ。それらの主は、今は君達以外にはありえない」

 それはまるで聖衣のように。
 魂を宿し、己で主を選ぶ無機物を身を以って知っているために、老人の言葉は彼らにとっては非常に説得力があり、完璧に反論を封じた。
 それでもまだ納得しかね、口を開いては閉じを繰り返すを少年二人は心配そうに見つめる。
 老人は全く引く気配を見せず、は渋々と首を縦に振った。それはアルバフィカとフーガへの許可にもなり、老人からそれぞれにバイオリンを受け取る。
 老人は肩の荷が下りたような表情を浮かべ、窓の外を見た。太陽はすっかり西側に傾いている。
 彼は初めて笑みを浮かべ、子供達を外へと促した。

「さぁ、もう行きなさい」
「……あの、そのバイオリンは」
「ああ、後で家に届けさせよう。どこかわかるかな」
「丘の上の緑の屋根の……」
「ああ、あそこか。そうか、あの家の子だったか。心配するな、必ず届けさせる」

 穏やかな老人の様子に、三人はただ頷くしかなかった。


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