16.プチ育児


「まー」
「はいはい」
「んーぅ!」
「ちょっと待って、ルウ」
「あー」
「おー、良く食べるなルヴィオラ」

 の膝の上に乗せられ機嫌よく口を開くルヴィオラに、アルバフィカが離乳食を口元へ運び、フーガはプチ子育て中の大事な二人と愛らしい赤子にニコニコと笑みを浮かべる。
 心の中がほわりと温まるような幸せな光景に、その様子を見守っていた大人達はでれーっと笑み崩れていた。
 彼ら全員の世話に忙しなく働いているロゼも、いつも以上ににこやかだ。
 赤ん坊用の椅子はさすがに無いため、己自身を小さな同僚の椅子としていたは「駄目な大人だ」と冷たい視線をロゼを除いた二人に送る。
 本来ならば、次代の蠍座であるルヴィオラは現蠍座のスーラが面倒を見るべきである。しかしこのスーラという男は、己が黄金聖闘士であるという自覚はあるものの、任務時と普段では落差が激しく、己の世話すら満足に出来ないでいた。
 その足りない部分は普段ならば自然と従者が補ってくれるので支障は無いのだが、そこに赤ん坊の世話というイレギュラーが加わり、“足りない部分”が浮き彫りになってしまっている。
 スーラの足りない部分……というよりも抜けている所は意外と大きい。細かい気配りと世話を必要とする赤ん坊の相手をそのスーラが勤めるとあっては、いくら優秀な従者といえど、フォローが追いつくはずも無かった。
 よってスーラが赤ん坊のルヴィオラ関係の事に頭を悩まし、パニックを起こすことは言うまでもなく、過去に一度引き起こし持ち込んだ問題を見事に解決してしまったとアルバフィカ(詳細は前作を参照)を頼り、双魚宮に泣きついてくることは自明の理である。
 だから女官を頼れというに、と毎度のごとくは口にするのだが、その忠告が生かされる見込みは今のところ全く無かった。
 いつもその場で神妙な顔をして頷きはするものの、いざという時にはその考えは全て吹っ飛んでしまうらしい。
 双魚宮にスーラが駆け込む度に修行を中断し赤ん坊の世話に借り出される達は、そろそろぷちっといってしまいそうだった。
 この件に関しては大の子供好きであるはずの師・アフロディーテは全く役に立たないし、スーラはそれ以前の問題だ。一応天蝎宮の従者が赤ん坊の世話の仕方を己の仕事の合間に女官や子育て経験者の奥様達から教えてもらっているらしいのだが、まだまだ時間がかかりそうだとのこと。
 いくら修行や勉強の邪魔をされているとはいえ、己が生きるために必死なだけの赤ん坊に罪はなく、またそんな小さな存在に当たるほどバカではない三人は、呆れながらも大人たちよりもよほど懸命に赤ん坊の世話をしていた。
 度々の事なので、が見つけた子育てのプロ(大家族の肝っ玉母さん)から育児法を伝授してもらってるため、今では彼等以上に赤子の扱いが上手くなっている。
 しかしかといって、今のままでは聖闘士ではなくベビーシッターになってしまう、と危機感を抱いた魚座の弟子三人組は、今現在、乳母を天蝎宮に置いてくれるか、もしくはルヴィオラを一旦ある程度育つまでは他の人に預けてくれるよう教皇に要請している最中だった。
 ちなみにアフロディーテがスーラの来訪を拒むどころか歓迎しているのは、己の可愛い弟子達が見ている分には可愛らしい赤ん坊の世話を懸命に焼いている様を見ていると幸せな気分になり、また弟子たちの新しい顔が見られて嬉しいから、そしてが自分から仮面を取るからという理由である。
 ルヴィオラはが仮面をつけていると、恐ろしいのかの顔が見えなくて不安になるのか、泣き出して収集がつかない状況に陥ってしまうのだ。以来、は赤ん坊が半泣きのスーラに連れられてやってくると、仮面を外すようになっていた。
 弟子達の修行時間、延いては聖戦で生き抜くための術を身につける大切な時間が削られているというのに、全く暢気な事である。
 最近、彼等への敬意の度合いががた落ちしている事にも気付いていないだろう師とスーラから視線をはずし、お腹が一杯になったらしいルヴィオラの口元を拭っている弟弟子達に戻した。
 アルバフィカの手の中の器は綺麗に中身がなくなっている。
 どうやら完食したらしい。

「お前本当によく食うな」

 顎の下でひょこひょこ揺れる炎のような朱色の髪を撫でる。
 空になった器をロゼに渡していたアルバフィカは、苦笑をしながら同意した。

「うん。お腹壊さないか、ちょっと心配だよ」
「でも何の問題もねーんだし、大丈夫だろ。吐く事もないし、すーぐ大きくなるぞ。なールヴィオラ」
「うー」

 とルヴィオラの正面にしゃがみこみ、ルヴィオラのラズベリーレッドの瞳を覗き込んだフーガが赤子のぷにぷにほっぺをちょいちょいとつつく。
 徒に目の前を様良く指に、ルヴィオラは手を伸ばし、はっしとそれを捕まえた。
 きゃいきゃいと喜びの声を上げて上機嫌に笑う赤子に、赤ん坊を囲む三人は自然と顔をほころばせる。

「でも本当に大きくなったな。前は片腕でも余ってたのに」
「もうハイハイもするようになったしね。最初にここに来た時の事がとても前の事みたい」
「すぐにつかまり立ちも覚えて歩くようになるぞ。そうなれば一気に行動範囲も広くなって今以上に目が離せなく……」

 からルヴィオラを取り上げて抱くフーガに、はカラカラと笑って返しながら、己の発した台詞の意味にはたと気付き途中で言葉を切った。
 すっと表情を消してしまったの言いたい事を正確に把握してしまった二人は、顔を引きつらせ目を泳がせる。
 ルヴィオラの行動範囲が広がり目が離せなくなる。イコール、スーラの混乱が増す。イコール双魚宮に駆け込んでくる回数も増え、今以上に時間を取られる。
 そんな三段論法が三人の頭の中を駆け巡った。

 うわぁ、嫌だ。
 ありえすぎて笑えない。
 これ以上は勘弁してくれマジで。

 三人三様のつっこみを胸中で入れる。
 事の中心にいながらも、被害は常に周囲に行くという、まるで台風の目のような赤子は、三人の間に漂う暗雲垂れ込める空気の中にいながらも、小さな口を大きく開いてのんきにあくびなんぞをしていた。
 大物である。
 いくら世話を押し付けられているとはいえ、三人とも人懐こいルヴィオラの事は可愛く思っていたし、中身が二十代半ばも過ぎてしまったはうっかり母性愛なんぞを目覚めさせてしまってもいた。
 しかしそれとこれとは話が別である。己の命には代えられない。
 清く正しい女神の聖闘士候補生ならばここで「女神をお守りするためにも強くならなくては!」と思うものなのだろうが、彼らの師は女神を敬ってはいるものの、幼い子供に「女神は絶対」という聖域の常識(という名の刷り込み)――洗脳とも言う――を教える気は無かったし、興味が無いようでもあった。
 は言わずもがな、アルバフィカは何よりもの言に重きを置き追従しているし、フーガに至っては聖域に来る時点で既に己だけの絶対者を定めてしまっている。
 よりにもよって全聖闘士の見本となるべき黄金聖闘士の年長者達は、女神の聖闘士の超基本的事項から外れてしまっていた。
 それに気付いているのは、今の所師とその恋人、そして教皇だけである。
 前者二人はともかくとして、二百年以上に渡って女神と聖域に使えている妖怪もとい教皇が沈黙を守っている事が、には不思議でならず内心密かに警戒していた。
 今現在収得に励んでいる幻朧魔皇拳でもかけられてはかなわない。そうなったら逃げ出す気満々であるが。
 三人は無言で視線を交わし、こっくりと頷きあう。
 事の次第を把握できていない駄目な大人二人は、不思議そうな表情で顔を見合わせた。

「師匠、ちょっくら出かけてきますんで後よろしく」
「ルウにちゃんとお昼寝させといてくださいね」
「あとオムツもかえといてください。それくらいできるっしょ」

 ちょっとした嫌がらせも兼ねて、赤子を苦手と明言する師にフーガから受け取ったルヴィオラを押し付け、は仮面をつける。
 突然の事に戸惑うアフロディーテとスーラに矢継ぎ早にアルバフィカとフーガが言葉を重ね、三人はダッシュした。

「う、え、ちょ、出かけるって……そっちは教皇の間しか……!」
「わっ、わっ、泣かないでよルヴィオラー!」

 突然居心地の悪い場所に移され、もぞもぞと動いていたルヴィオラがアフロディーテの腕の中で盛大な泣き声を上げる。師は頼もしい三人の弟子を引き止める事が出来ず伸ばした手も中途半端に、スーラは不安定な友人の腕から己の弟子を抱き上げるも、なかなか泣き止んではくれない。
 達は情けなさ極まる大人たちの悲鳴と、後ろ髪を引かれる赤子の泣き声を背に、それぞれ心の中でルヴィオラに謝りながらも、現状を打開できる現最高権力者の下へと馳せ参じた。
 かなり必死な形相で。

「「「教皇猊下、天蝎宮の件早急に進めてくださいぃ〜!」」」

 その時の三人の殺気は、思わず教皇に積尸気冥界波を打たせてしまいそうになるほどのものだったという。


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