15.蠍座と赤ん坊


! 助けて!」

 弱々しい泣き声を響かせ、あまりにも情けない顔と声色でけたたましく双魚宮に駆け込んできた男に叩き起こされたは、寝ぼけ眼をこすり身を起こした瞬間、音を立てて固まった。
 そのまま凝視していると、両隣二つの山がもぞもぞと動き、顔を出した。

「どうしたの、?」
「何かあったのか?」

 まだ眠そうに目をしぱしぱさせるアルバフィカとあくび交じりに尋ねるフーガは、と同じように心地よい夢への無粋な闖入者へと目を向ける。するとやはり、同じように固まった。
 奇妙な沈黙が両者の間に走る。が、それは男の腕の中から聞こえてきた、先ほどと同じ弱々しい泣き声によって早々に破られた。
 はそれに逸早く己を取り戻し、毛布を跳ね除け、PKを駆使して男の腕からその存在を奪い取る。

「はいはい、いい子だねー」

 腕で身体全体と首を支えてやり、もう一方の手で背中を叩いてあやす。しばらくそうしていると、小さな嗚咽と共に泣き声は消えていった。
 安堵のあまりへたり込んでしまった男に、は冷たい視線を向ける。

「で、この赤ん坊はいったいどうしたんですか、スーラ様」

 声すらも冷え冷えとするにアルバフィカとフーガは首をすくめ、男――蠍座の黄金聖闘士スーラは困ったようにヘラリと笑って見せた。





 黄金聖闘士を始めとした聖闘士の候補生は着実に増えてきている。
 それはが聖域に足を踏み入れた三年前を振り返ってみれば確固たる事実で、十二人しかいない黄金聖闘士が短い間に三人も後継者が見つかっているのがその証拠だ。
 来るべき聖戦に向けて続々と時代の黄金聖闘士が見つかっていくのは教皇を始め、聖域の人間にはわかりきったことであった。
 あったのだが……。

「次代の蠍座……」
「まだ赤ちゃんなのに……」

 の腕の中ですやすやと眠る赤ん坊を覗き込み、アルバフィカとフーガは呆然と呟く。その正面で、頭に大きなこぶを生成したスーラがちょっぴり涙目になりながら、こくこくと首を立てに振っていた。
 所変わって場所はリビング。
 あの後、スーラの背後に光速で現れたアフロディーテに「うちの子達の大事な睡眠を邪魔しくさるとは何様だ、あ゛ぁ゛!?」と声を荒げられ、特大の拳を一発くらいここまで襟首を引っつかまれて移動してきたのだ。
 ちなみに時刻はまだ夜が明けきってはいないが、そろそろ白じんできたかなーというような中途半端なころあいだ。
 まだ後二時間は眠れたはずなのに。そう思いながらも、腕の中の赤ん坊を放り出すわけにもいかず、共に起きてしまった弟弟子達をひきつれて師と蠍座の後をついてきた。
 そこでこの赤ん坊の素性を知ったのだが、まさか未来の同僚(予定)だったとは。幼児が連れてこられることはあっても、赤ん坊は流石に無いだろうと思っていたは愕然とする。

「本当はもっと成長してからって話だったんだけど、その子の両親はもう死んじゃってるし、どうせ育ての親とも話さなきゃいけなくなるから、それなら最初から手元に置きたいって教皇に頼んだんだ」
「で、世話しきれなくてうちに駆け込んできた、と。バカかお前は」
「あうぅ、面目ない……」

 麗人の氷柱のような言葉にぐさぐさと刺されて、ピンピンはねた金色の頭ががくりと下げられた。
 その様子に、は呆れを通り越した感情でため息をつく。全く以ってアフロディーテと同意見だった。
 今の腕の中で眠っているのは、犬や猫などの小動物ではなく、人間の赤ん坊なのである。それもまだ生後半年も経っていないような。
 将来黄金聖闘士になるにしても、今のこの子はが腕を放すだけで簡単に死んでしまう、ひどくか弱い存在なのだ。
 己の意思を泣いて伝える事しか出来ない赤子を、自分自身ですら多少持て余し気味なこの男が育てられるはずも無い。

「しかし何だってうちに……女官を呼べばよかったじゃないか」

 それともでなければいけない理由でも有ったのか。アフロディーテがそういう前に、スーラは今気がついたと言わんばかりに「ああ!」と声を上げ、手を打った。
 アフロディーテのこめかみが引きつる。

「そっか、女官がいたんだっけ、すっかり忘れてた! 一番身近にいるのがだしなぁ」

 三人掛けのソファに並んで腰掛ける魚座の弟子三人組は生ぬるい笑みで、暢気というか天然というかな螺子がどっかいっちゃってるっぽい蠍座を見る。
 なんとなく、の元に来た理由がわかった気がした。
 この男は、赤ん坊の世話の専門家は母親、母親は一番身近にいる女性、自分の一番身近にいる女性は、というような思考回路で双魚宮に単身――赤ん坊もいたが――特攻してきたのだろう。
 女官を呼んで育児経験のある女性に頼んだほうが早いというのに、何ちゅー短絡的な。しかも連想ゲームかよ、おい。呆れて言葉が出ないとはこのことか。
 本人を目の前にして三人が心のの中で思い切り扱き下ろしていると、先ほどの台詞で再びアフロディーテの鉄拳制裁を受けていたスーラが目の端に滲んだ涙を拭ってヘラリと笑みを浮かべていた。
 コントのごとく頭に鏡餅のようなたんこぶをこさえている男がに向かって腕を伸ばし、その腕に赤ん坊を引き渡しにソファから降りる。

「ありがと、
「いいえ……って」

 スーラの腕の中に帰った途端、赤ん坊は再びむずがって泣き始めた。それにスーラとアフロディーテは大いに狼狽し、再びの腕の中へと戻す。
 赤ん坊はたちまち泣き止み、再び眠りについた。

「な、何で……?」

 今にも泣き出しそうな情けない顔で、スーラはガクリと項垂れる。

「うわ〜ん、アフロディーテー、オレ嫌われちゃったの〜?」
「知るか、大の大人がよりかかるな鬱陶しい! 第一私が赤ん坊の気持ちなんかわかるわけないだろうが!」

 隣に座す麗人にだらりともたれ泣き言を言うスーラの頭をぐいぐいと押し返しながら、三人組の師は眉間に皺を寄せる。
 そんな大人達にどうしたもんかと、は己の腕の中で我関せずとばかりに眠る赤ん坊に視線を落とす。
 すると両脇から金赤と浅葱色の頭が生え、の腕の中を覗き込んだ。

「へぇ、本当に蠍座の黄金聖闘士だ」
「見えるの、フーガ」
「まだまだ薄いけどな。でも鍛えればスーラ様よりも強くなる。……気がする」

 目を細めて“視る”フーガに、へぇと気の無い返事をする。そんな事よりもアルバフィカはの腕を占領している小さな存在そのものに興味津々のようで、指先で小さな頬をつんつんと突いていた。
 赤ん坊の小さな口がむにむにと動いて、アルバフィカは顔をほころばせる。

「かわいい」
「かわいーなー」
「ああ、可愛いな」

 赤ん坊もそうだがアルバフィカ、お前もな。とフーガは視線を交わし笑みの裏で通じ合う。それを敏感に感じ取ったアルバフィカが、また僕だけのけ者だとふくれた。そんな顔もまた可愛い。
 こんな時近くにいる人や物や壁をバンバン叩きながら悶えているはずの師はといえば、目の前のやり取りに気づきもせずスーラと傍目には漫才にしか見えないやり取りを繰り広げていた。
 相変わらず一つの事に集中すると周りが見えなくなる人である。

「アフロディ〜テ〜……」
「ああもう離れろって! 私は知らないって言ってるだろう、それに私は子供は好きだけど赤ん坊は苦手なんだ!!」
「師匠赤ん坊苦手だったんだ」
「へぇ、以外」
「こんなに可愛いのにね」

 フーガ、、アルバフィカの順で口を開く。目を丸くする弟子達に、アフロディーテは拗ねたような顔をしてそっぽを向いた。
 
「子供はある程度大きくなったら自分の感情や考えを伝える術を持っているだろう。でも赤ん坊は泣くか笑うかのどっちかだ。そりゃ笑ってれば可愛いと思うけど、ほとんど泣いてるだろう? 何をしてやればいいかわからないから、苦手なんだ」
「そりゃ赤ん坊は泣いて笑って寝るのが仕事ですし」

 そういや自分もそうだった、とさほど遠くも無い過去に思いを馳せてみる。あの頃は混乱しつつも己のままなら無い身体に苛立ちを感じたものだ。PKが使えたおかげでそれほどストレスはたまらなかったが。
 というか何をしてやればいいって……。

「愛してやればいいんですよ。赤ん坊は愛されて愛されて育つんですから」

 ごくごく基本的な事である。何もそれは赤ん坊に限った事ではない。しかしまぁ、それだけで良いと言う訳でもないのだが。
 珍しくも何の含みもない、むしろ慈愛すら滲むの笑みに、アフロディーテは感動を覚え、スーラは口元を押さえて何やら考え込んでいる。
 いいものを見たと喜んでいるフーガの隣で、アルバフィカはただじっとを見つめていた。花浅葱の瞳には驚愕や羨望といったいくつもの感情が浮かんでは消え、混沌と存在している。アルバフィカの胸の内にじわりと気持ちの悪いものが広がり、それは何かを叫びたいような気持ちにさせた。服の胸元を掴んで、彼はそれを己の内に押さえ込む。
 それは俗に言う嫉妬や独占欲といったものだったのだが、この時アルバフィカにはそれがわからないでいた。

「愛してやれば……か。、もう一回!」

 ぱっと差し出された腕に赤ん坊を渡す。するとやはり赤ん坊は泣き出し、先ほどよりも力強い泣き声を上げていた。
 スーラは何とかがやったようにあやそうと背を優しく叩いたり揺らしたり、声をかけてみたりするも、一向に泣き止まない。
 自分には才能が無いのかと落ち込みかけた時、スーラとを交互に見て首を傾げていたアルバフィカが声を上げた。

「わかった!」
「何が?」
が抱いたら泣き止むのに、スーラ様が抱いたら泣き出す理由!」

 三人の中で最も洞察力に秀でるアルバフィカの言に、全員の視線が集中する。特にスーラは藁にも縋るような思いだった。
 己の弟子となる赤ん坊だ。できるなら育てるのも自分の手でやりたい。他人任せにはしたくない。泣き続ける原因がわかって、それが治せる類のものならば、どんな事でも頑張るつもりだった。

「スーラ様の抱き方がちょっとおかしいんだ!」
「……ああ、なるほど」
「そういや、のとちょっと違うな」
「不安定ってことか」

 スーラをじっと観察したが腕で形を作って納得し、フーガはそれとスーラを見比べて頷く。アフロディーテも、己の後継の言葉に同意した。
 スーラの抱き方は少しばかり不安定で、いかにも恐々抱いてますと言わんばかりの体勢だった。それでは抱かれている方も気持ち悪かろうと、はちゃきちゃきスーラの抱き方に修正を入れていく。

「左手全体で赤ん坊抱えて、首も支えてください。で、右手を添えて……そう。身体にぴったりくっつけてください。怖がらないでくださいよ、抱いている人の不安は赤ん坊にも伝わりますから……うまいじゃないですか」

 の指示通りに動き何度か背を叩いていると、徐々に泣き声は消えていき、赤ん坊は涙に濡れた瞳で己を腕に抱く男を見上げた。
 泣き止んだ事への嬉しさに思わず笑みを浮かべると、赤ん坊が笑い返す。初めて見た赤ん坊の笑みに、感動で胸が震えた。
 涙でガビガビになっている頬をロゼが持ってきた柔らかな濡れた布で拭ってやり、はスーラを見上げる。

「良かったですね」
「うん……うんっ。ありがとう、、アルバフィカ」

 満面の笑みで、今回の功労者に心からの礼を口にする。
 どうせ私は役立たずだとすねる師に苦笑しながらもとアルバフィカは顔を見合わせ、は口元を吊り上げ何とも頼もしく男気のある笑みを、アルバフィカははにかんだ花のような笑みを浮かべた。

「「どういたしまして」」
「本当によかったっすねー。ところでずっと気になってた事が有ったんですけど、いいですか、スーラ様」

 はーいと挙手するフーガに、スーラはこっくりと頷き許可を出した。

「その子の名前は?」

 あ、とその場にいたほぼ全員の口から声が零れ落ちた。そういえば天蝎宮の主が転がり込んできてから今まで、ドタバタしていて誰も気付いていなかったのだ。スーラ本人も、赤ん坊の名を口にする余裕は無かったし。

「もしかしてまだ無い、とか?」

 フーガが聖域に来た後に知った事だが、アルバフィカのようなケースもある。遠慮がちに発された問いに、スーラは首を横に振った。

「いや、有るよ。この子はルヴィオラ。ルヴィオラだよ」

 誇らしそうなスーラの声に、赤ん坊――ルヴィオラは機嫌良く声を上げて笑った。








あとがき(?)
 赤ん坊の抱き方はけっこういい加減ですので、あまり信用しないでください。


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