9.ナナシ


 子供の頭脳というのはそれはもう優秀で、知識を水に例えるなら、水に飢えた大地もしくは砂漠である。
 は転生して四年の間で、その事実を身を以って知っていた。小さな頃は速読も瞬間記憶もできると言うが本当だったのか、と多すぎると言っていい情報量に少し酔いそうになりながら思ったものだ。
 生家にいたときは言葉や文字をこっそり覚えるぐらいしか出来なかったが、聖域に来てからこの一年、古代ギリシア語を始め、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、英語等、多くの言語や知識を柔らかい頭を生かして片っ端から吸収してきた。
 前世でもそこそこ知識を持っていたため、理解がかなり早く、教えてくれる黄金は鼻高々らしい。
 神官に教わらないのは、奴ら――全員とは言わない――が権力欲の権化で、本来の能力を示したときに神童だ何だと騒がれかけたためだ。
 教皇が場を収めてくれたから良かったようなものの、あれには参った。うっかり仮面をはずして殺っちまおうかと思ったくらい。まぁ、後で色々とさせてもらったのだが。
 そんなわけで、は多くの知識を持っていた。前世での記憶を含めて。





 そういえば十八世紀初期にはスウェーデンとロシアの間で大北方戦争なんてものが有ったか。
 師が周囲に花を飛ばして帰宅し、次代の魚座発見の報を告げてから三日後、教皇の間に連れて来られた子供を見て、はそんな事を思った。
 大北方戦争とは1700年から1721年にわたり、ピョートル大帝治下のロシアがデンマーク、ポーランド、ゼクセンおよびプロイセン、ハノーヴァーと結び、カール12世治下のスウェーデンと戦った戦争の事を指す。
 これはバルト海域の覇権を巡り行われたものだ。
 最初のうちはスウェーデンが優勢だったが、1709年ポルタワの戦で国内体制を立て直したロシアに大敗し、結果現代で言うところのバルト三国とバルト海一帯を支配する大強国と言う地位を失ったのだ。
 その戦争と彼の現状と繋がっているのかはわからないが、戦争が莫大な資金を食い尽くすことを知っているは、連想的にそのことを思い出した。

 神官に連れられたその子供はガリガリにやせ細っており、よりも一回りほど小さく見えた。
 肌の色も青白く、表情には生気というものがまるで無い。足元はふらついており、歩くたびに顔を少ししかめていた。発育不良に痩せ、皮膚蒼白、無気力、もしかしたら体温低下と貧血も起こしているかもしれない。
 どこからどう見ても典型的な栄養失調の諸症状だ。
 貧困層の家の子供だと、その子供を連れてきた神官は告げた。
 を見つけたときよりも酷く痛ましい姿に、アフロディーテは顔をしかめる。子供はと言うと、周囲をぐるりと大人に囲まれ、師の影からその様子を見ていたの目には怯えているように見えた。
 同じ目線に(不本意だが)あるだからこそわかることなのか、周囲の大人はアフロディーテを含め全く気づいていない。
 まあ普通に考えて仮面をかぶった怪しい爺さんやら、金ピカの鎧を着込んだ、自分よりも何倍も大きな男がいたら子供の目には怖いよな。
 仮面を付けている己を棚に上げ、納得する。
 その視線の先では、教皇が子供に名を問い、子供はだんまりを決め込むと言う光景が広がっていた。

「声が出ぬ、というわけではないのだな」
「はい。ここに来るまでも、幾度か声を発しておりますので」
「ふむ……」

 顎に手を当て、なにやら考え込んだ教皇の目が、アフロディーテの影で大人しくしている少女を捉える。
 少女は一年ほど前に聖域に連れて来られた射手座の候補生で、教皇の長すぎるほどの生でも見たことが無いほどの鬼才だった。
 その卓越した頭脳は勿論のこと、生来宿していたという強力なサイコキネシス、底の見えぬ潜在能力と小宇宙。そして何より、僅か四歳にしてまだまだ未熟ではあるものの確立した自我。
 状況に流されているようでいて、しっかりと己の意思で地に足を付けているその姿は、将来大木に育つことが約束されている若木そのもののようにしなやかだ。
 満足な説明もされず聖域に連れて来られた時でさえ、マイペースに振舞っていた彼女ならばあるいは、と教皇は仮面の奥で目を細める。
 自分に向けられる視線になにやら面倒な含みを感じ取ったは、仮面で表情が見えないのをいいことに、盛大に嫌そうな顔をした。
 双魚宮でならまだしも、神官たちがわらわらいる前で自分が動きたいとは思わない。向けられる無言の問いかけに、全身で拒否の意を示す。
 しかしながら、教皇と射手座候補生との間には地位と言う名の大きな壁が存在した。

「射手座候補生よ」
「……はい、教皇猊下」

 数瞬の間二人の間に見えぬ火花が散り、結局はが折れて師の横に進み出る。

「スウェーデン語は話せたはずだな」
「はい。日常会話に困らないくらいは」

 幼い子供にしては流暢なギリシア語を操り、肯定を返す。教皇はそれに深く頷き、に子供の名を聞きだすように命じた。
 正直言って面倒なことこの上ない。それでも教皇の命に逆らえばさらに面倒なことになるのはわかりきっているので、サンダルの裏をぺたぺたと大理石に付けながら、は栄養失調な子供の前に進み出て、この状況下では邪魔以外の何者でもない仮面をパカッとはずした。
 その行動にぎょっとした神官や雑兵達は慌ててから目をそらす。
 今ですら強力なPKを有しているというのに、将来それ以上の力を持って聖闘士たちの頂点に立つことが約束されている彼女の素顔など、例え掟がなくたって恐ろしすぎて見る事など出来なかった。
 以前彼女を神童と持て囃そうとした神官がなんかもう色々されて――狡猾な人物だと評判な神官が手も足も出ず、しかも証拠は無いが確実に彼女の仕業だと言えるところが恐ろしい――いくらか頭髪を寂しくして田舎に引篭もってしまったことは、彼らの記憶に新しい。
 それを「まさしく鬼才」という一言で片付けた教皇と、「凄いね、」という言葉と笑顔で終わらせた魚座の黄金聖闘士は、久々に見た愛らしい少女の素顔に顔をほころばせながら、二人の様子を見守っていた。

「はじめまして。私は。魚座の黄金聖闘士アフロディーテの弟子で、射手座の候補生です。あなたの名前は?」
「……」

 安心させるように笑みを浮かべ、できるだけ柔らかな声を出すように心がける。
 それに声は返らず、周囲の大人達は小さく息をついたが、はしっかりと見ていた。目の前の少年の唇が、小さく「なまえ」と動くのを。
 笑みを浮かべたまま、声なき声にこくりと頷く。大人達は意外にも続いた会話にこっそりと吐いた息を戻した。

「そう。あなたの名前」
「……」

 生気の無い瞳がじっとを見つめ、ややあって少年は小さく首を振る。そして小さく、にのみ聞き取れるボリュームで「ない」と言った。
 羞恥にか悲哀にか涙で潤む瞳に、うっかり師へのいけにえに出す予定の少年に対し母性本能のようなものを抱いてしまったは、その細く頼りの無い手をぎゅっと握り、教皇へと向き直った。

「教皇猊下、名前はないそうです」
「無い、とな?」
「はい」

 己の手を掴む少女の手にびっくりしたよう目を見開き、縋りつくようにして握り返してきた少年に、はさりげなく寄り添い、紫紺の瞳を真っ直ぐに教皇へと投げかける。
 教皇はの瞳に篭った双魚宮に返せと言う無言の訴えに仮面の奥で目を細め、現双魚宮の主に言葉を投げた。

「魚座よ、次代を双魚宮へ連れ帰り充分な休息と看病を。それと名を付けてやれ」
「はっ」

 アフロディーテが膝を折る。もそれにならい仮面を付けると、立ち上がると同時に少年とまとめてアフロディーテに抱え上げられた。
 いや、だから聖衣は痛いって。
 さすがに少年には辛いだろうと思いPKで自分の方へ浮かせて引き寄せた。元々軽い腕の中が更に軽くなったことに気づいた師が拗ねたようにを軽く睨むが、小宇宙通信で聖衣が痛いと抗議すれば、ばつが悪そうに視線をさまよわせる。
 それに喉の奥で笑いながら、瞠目してを見つめる少年のぱさぱさした髪を撫でた。血色の悪い頬を淡い桃色に染める様が何とも言えず保護欲を誘う。
 絶対太らせよう。せめて見れるくらいには。
 心の中で密かに気合を入れると、早速に懐いてしまった後継の少年を微笑ましく見守りながら、アフロディーテはどんな名前がいいかとうきうきしながら双魚宮へと続く階段を、心なしか早く下っていった。


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