8.期待


 最近知った事だが、のいるこの世界は元の世界と同じような歴史を辿っているらしい。
 師やその同僚達から教わったところによると、今は十八世紀前半。ルイ十五世やマリア・テレジアの活躍する絶対王政の時代。
 さらに言えば、今現在ポーランドの王位継承権をめぐり、戦争している奴らがいるとか何とか。
 ここまで言えば西洋の歴史に詳しい人間ならば、年代を割り出すことが出来るだろう。
 時はまさに1734年。おそらく来年あたりには決着がつくだろうと、おぼろげながらにも歴史を覚えていると慧眼を持つ聖域の者達は睨んでいた。
 そのついで――と言っては何だが、は気づいてしまったのだ。
 原作から童虎の言っていた243年を引くと、前聖戦は丁度この頃だと言う事を。
 連載が始まったのが1985年との事で、そこから上記の年代を引くと1742年。もう後十年も無い。
 しかしながら黄金聖闘士の後継者は未だ一人だと言うし、教皇の話では女神降臨の兆しもまだ見えないと言う。それでも、確実に聖戦は起こるらしいのだが。
 それを聞いたとき、自分がいることで色々とずれが生じているのかと多少項垂れたが、五秒と経たない内に悩むのが面倒になり、その悩みを燃えるゴミに投げ捨てた。
 しかしながらドンピシャで聖戦世代。
 普通は恐れたりしそうなものだが、そこは。師を含め、周囲が時折気の毒そうな視線を向けてくるその意味を知っても、項垂れたり恐怖を覚えたりすることは無く、何も知らないような笑みの裏でただただその不運を嘆いた。
 聖戦の勝敗と言うか結末を知っているからと言うのではなく――がこの世界にあり、射手座に定められている時点で既に『漫画の中』ではなく平行世界だと本人は認識している――その戦いに耐え、生き残るだけの強さを身に付けなければならぬ事が、それはもう激烈に面倒臭いのだ。
 誰か変わりに戦ってくれと言いたい。

――というか射手座はシジフォスだろこの世界の基盤がロストキャンバスならだけど。

 盛大なため息と共に胸の中へとそんな言葉を埋没させ、絶対に生きると己に誓っているは早々に諦めと開き直りというスキルを発動させたのだった。





 そう言えば、平行世界と言うことは多少黄金メンバーの顔ぶれも変化するのだろうか。
 羊、天秤、魚、乙女あたりは変わらないで欲しいのだが。

「その時になってみなくちゃわかんねぇな、こればっかりは」

 綺麗どころが集まることを祈ろう。
 咲きかけの薔薇に鋏を入れながら、仮面の中でぼそりと呟く。
 腕の中の紅い花束を抱えなおし、そこに摘んだものを新たに加えて立ち上がった。
 場所は双魚宮居住区に存在する薔薇園。
 本来ならば師がするはずだった摘花作業をが行っているのは、朝に教皇からの呼び出しがあったからだ。
 この薔薇園には魔宮薔薇があるために、自分一人で大丈夫だからと言っても盛大に師は渋り行きたくないと子供のように駄々を捏ねたのだが、射手座候補になってからのこの一年で大分耐毒体質を身に付け、且つ仮面を付ければ大丈夫だと言い聞かせて、扉にかじりつく師を従者のロゼと共に苦労して外に放り出したのが三十分ほど前のこと。
 そのときの師のショックを受けた顔は物凄く情けなかった。
 鋏をPKで元の場所へ戻すと、居住区の中へと足を進める。太陽はもうすぐ南天に達し、そろそろ昼になることを告げていた。
 厨房からはロゼが作っている昼食の美味しそうな匂いが漂い、の鼻腔をくすぐる。
 薔薇の棘を処理し花瓶に生けると、はひょっこりと厨房を覗き込んだ。
 ふわふわの淡紅色の髪を流した後姿が、忙しなく動いている。

「ロゼ、何か手伝おうか?」
「ありがとうございます、人馬宮様。ですがもうできますから、待っていて下さいね」

 愛らしいとしかいえないような美貌が振り向き、笑みを浮かべる。
 可愛いー、眼福ーと心の中で叫びながら良い子の返事をして、心のままに満面の笑みを浮かべた。
 そういうこそが師やその周辺の人間にとっては身もだえするほど愛らしい存在なのだが、悲しいかな今は聖闘士用の仮面に遮られ顔が見えない。
 ロゼは笑みの気配だけを感じ取り、心底仮面着用の掟を呪った。





「たっだいまー!」

 えらく弾んだ明るい声音で期間を知らせる声が双魚宮に響く。
 それは鍛え始めているの鼓膜に突き刺さり、びりびりと振るえた。は高く耳鳴りのする両耳を押さえ、仮面の奥で渋面を作る。

「ただいま、!」
「おかえりなさい、師匠」

 足取りまで軽くに歩み寄り、仮面を取り上げた不機嫌な弟子の頬に音を立てて口付ける。そのままアフロディーテはを抱き上げ、まろい頬にぐりぐりと頬擦りをした。
 抵抗することの無意味さを、ここ一年で身を以って知っているはされるがままになりながらも、いつも以上にスキンシップ過剰な麗人に内心首をかしげた。
 とロゼに叩き出されるようにして教皇の間に出かけた時と比べると、かなりテンションが高くご機嫌である。絶対に螺子が一本や二本は抜けている。

「おや、お帰りなさいませ、双魚宮様。ちょうど昼食が出来たところですよ」

 トレーの上に三人分のフィットチーネ(巨蟹宮の主の手製だそうだ)と食器を持って、ロゼが現れる。何故この時代に現代のようなスパゲッティと作法があるかは、もうは考えないようにしていた。
 所詮は平行世界である。
 アフロディーテは大輪の花が咲き誇るような笑みで言葉を返し、を子供用の足の高い椅子(牡羊座作)に降ろした。
 最初の頃は凹んだものだが、この椅子を使わなければアフロディーテの膝の上に乗せられ、出会った日の悪夢再びである。
 それだけは子供用の椅子を使うよりも、聖闘士になるよりも、現黄金達に盥回しに抱っこされるよりも、アフロディーテが出かけている間に教皇の間に拉致られ教皇に構い倒された後、殴りこんできたアフロディーテと教皇のあいだに勃発する千日戦争もどきのガチンコファイトを力ずくで止める――そしてその度に強くなったなと双方に褒められる――よりも嫌だった。
 あれ、てか何でこんなに構い倒されてんだろう私。教皇も仕事しろよ。
 今朝師を呼び出した人に心中で突っ込みを入れ、は仮面を上半分のものに付け替え、フェットチーネをフォークに巻きつけて口に運んだ。
 相も変わらず玄人裸足だ。美味い。

「双魚宮様、何だか酷く機嫌がよろしいようですが、何か良いことでもございましたか?」
「そうなんだ聞いてくれ!」

 白い頬を紅潮させ、浅緑の瞳を輝かせる。彼のバックに花が咲いた。わお。

「さっきまで教皇に呼ばれていただろう」
「物凄い勢いで嫌がってましたね」
「当たり前だ。と薔薇を摘む予定だったんだからな!」

 胸を反らして意味も無く威張る麗人に、日ごろから説いている聖闘士としての義務はどうした師匠、と仮面越しに呆れ半分な視線を送る。しかし興奮しているらしいアフロディーテは気づいていない。

「それで、猊下は何と?」
「私の、つまりは魚座の後継者が見つかったそうだ。が現れてから、殊星読みと聖闘士候補生の発掘に力を入れていらしてね。やっと黄金の候補生を見つけたらしい。迎えに行った神官からの報告では、と同じ年頃の男の子だそうだよ」

 ああなるほど。
 ロゼとは顔を見合わせて納得した。アフロディーテはを連れて来た時、現存するほぼ全ての黄金聖闘士に「ついに攫ってきたか」と言われるほどの大の子供好きだ。
 自分の跡を継ぐ、つまり己の正当な弟子が現在四歳であると同じ年頃と知り、今にも踊りだしそうな勢いで喜んでいるらしい。
 はこれからやってくる新たな犠牲者に対し、心の中で密かに合掌した。きっと彼は、新しい弟子をにしたようにべろべろに溺愛するだろう。もう勘弁してと悲鳴を上げたくなるほど。
 しかしは生贄に出す気はあれど、助ける気は更々無かった。今現在構われすぎて多少疲れ気味なのである。

「ようございましたね、双魚宮様。では迎え入れる準備をしなければ。他に何か次代様について聞いてはおりませんか?」

 世話を焼く人物が増えるのが嬉しいのか――は時折もう少し世話を焼かせて欲しいと拗ねられる。手が掛からな過ぎてつまらないらしい――主が喜色満面なのが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべる。
 種類の違う花が咲いたところで、アフロディーテはその花のような顔を曇らせた。

「聞いたんだが、少々要領を得なくてね。判っているのは年と性別と、髪と瞳が薄いブルーという事だけなんだ」
「そうですか……。なら御髪と瞳の色に合わせて人馬宮様とお揃いの物を用意いたしましょうか」
「それはいい」

 麗人が再び花を咲かす。ころころと表情の変わる麗しい師を目の保養とばかりに眺めながら、もしかして、と記憶の中にある壮絶な最後を迎えた浅葱色の髪の佳人を思い浮かべた。
 あれの子供時代ならばさぞ可愛らしかろう。
 綺麗なもの可愛いもの好きの心がうずき、一瞬にんまりと笑みを浮かべる。

「楽しみですね、師匠。その子はいつこちらに?」
「三日後だそうだ。出身地はスウェーデンだそうだから、少し時間が掛かるらしい」

 はその言葉に頷き、止めていた食事を再開する。それに舌鼓を打ちながら、眼福な人物が増える三日後に思いを馳せた。













ちょっとした豆知識(?)
 フォークは農業用のフォークを模して、ルネサンス期のイタリアで発明された食器です。
 食器として使われ始めたのは十一世紀のことで、それまで食事は手づかみで食べていたため、「料理を口元に運ぶ」という用途の食器はその概念すら存在せず、肉やパンを切り分けるためのナイフが食卓にある程度。
 十八世紀初めのイタリアで、スパゲッティは庶民の食べ物で、チーズをかけて手で頭上にかざしてから食べるものであったそうです。
 1770年代、庶民の風俗を深く愛したナポリ国王フェルディナンド4世が宮廷で毎日スパゲッティを供することを命じましたが、上記のような民の作法がハプスブルク家出身の王妃マリア・カロリーネに承認されるはずもなく、賓客がより上品にスパゲッティを食べられるように、料理長ジョヴァンニ・スパダッチーノに命じて、もともと口に運ぶものでなく料理を取り分けるためにあったフォークを食器として使わせたのが食事用フォーク誕生の経緯。
 このとき、工学エンジニアのチェーザレ・スパダッチーニが王の為に、安全を期すのとスパゲッティをうまくからませるため、先を短く四本にしたフォークを考案したと言われています。


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