4.疑惑


 驚いた。
 いや、そんな言葉じゃ表すことが出来ない程に驚いた。頭が真っ白になって、思わず麗人の言葉に頷いてしまうほど。
 何で頷いちまうかな、私!
 麗人と共に世話になっていた女性の家を出る今でさえ、は感謝の笑みを浮かべる裏で延々と頭を抱えていた。
 確かに行くところは無い。けれどどっかの村に着けば、孤児院か何かに入れてもらえるかもしれないと思っていたのだ。
 女性も麗人が私を連れて行くと言い出すまでは、そのつもりか、もしくは自分が面倒を見る予定だったらしい。
 そのまま引き止めてくれればいいのにと思ったのだが、彼女は聖域の協力者らしく、快くを送り出してくれた。
 いや、引き止めてよ奥さん。
 心の中の必死の叫びも空しく、あれよあれよと言う間にの聖域行きは決まってしまった。
 ちなみに別れの際の言葉は、「がんばっていい聖闘士になりなよ、お嬢ちゃん」だった。

――泣いてもいいですか?





 夢であって欲しいな。
 現在ほぼ百パーセントありえない台詞を心の中で零し、麗人の背に背負われている金色の箱を虚ろな瞳で見つめる。
 本物の鉱物で無ければ出せないような存在感を持つそれは、紛うことなく聖衣箱と呼ばれるものだった。
 しかも金色の。
 何でかを抱っこしたがった麗人の首にかじりつきながら視線を背中にやる幼子に、麗人は口を開く。

「ああ、。それは聖衣箱というんだ」

 知ってます。
 咽喉の辺りまで上がってきた言葉を、頷くと同時に飲み込む。

「神代の時代から女神を守ってきた黄金聖衣が中に収められているんだ。ちなみに私のものは魚座だよ」

 だろうと思った。
 再び頷き、は麗人に気づかれないように小さなため息をつく。
 夢であって欲しいというの願いも空しく、これはまぎれも無い現実で。
 この世界は、ギリシア神話の神々が実在し戦女神を守護する闘士が存在する、が前世でいた世界で言う『聖闘士星矢』の世界なのだ。
 これを知り我に返った後で、転生系異世界トリップかよとベッドの上で毛布に包まり、パソコンの中でしか存在し得なかった出来事がわが身に降りかかった不運を盛大に嘆いたのだった。
 トリップ物のドリームを読むのは好きだが、いくらなんでも自ら体験したいとは思わない。
 どうせなら、過去二十年分の記憶もまっさらな状態で飛ばして欲しかった。そうすればまだいくらか救われるのに。
 それはすでにではない存在だし、もしかしたらそれではすでに死んでいたかもしれないが、今よりはこの世界のありように馴染めたような気がした。
 アフロディーテという名を聞いたときに抱いた嫌な予感が、今形をとっての目前に鎮座している。
 それにしても聖闘士星矢。実際には飛ばされたくない世界のうち、ベストファイブの中に入る。常に死と隣り合わせの世界なんてゴメンだ。
 もう遅いが……。
 もう一度ため息をついたとき、アフロディーテは既に聖域へと続くロドリオ村を通り過ぎ、長い長い階段を持つ十二宮の前についていた。
 は麗人の腕の中で、何とも時代とかけ離れた神殿の群れを見上げる。
 アフロディーテは疲れを見せる様子もなく、第一宮の白羊宮へ向けて階段に足をかけた。

、疲れたかい?」
「……ちょっとだけ」

 主に精神的疲労が。

「悪いけど教皇に会うまでは我慢してくれるかな。それが終われば、寝ててもいいから」
「はぁい」

 間延びした口調で、麗しい顔を曇らせる麗人に良い子の返事をする。
 疲れた精神に美しい人の心遣いは優しく染み渡り、心のままに笑みを浮かべると、麗人はほっとしたような笑みをとろけるような甘〜いそれへと変えた。
 うわぁ、金色の鎧もあいまってまぶしひ。

「顔が崩れてるよ、アフロディーテ」
「それは失礼。いたのか、ランティス」
「君より二日ほど前に帰ってきたんだ。ところで、その子は?」

 白羊宮から出てきた人物が、胡乱な顔をしてアフロディーテの腕に抱かれている幼子を覗き込む。
 その人はアフロディーテとはまた違った美貌を持った人だった。しかしながらが最も関心を持ったのはその特徴的な眉だ。
 原作でも牡羊座一家に共通していたその特徴的な眉は、麻呂眉もしくは引眉といわれる代物だ。
 麻呂眉は俗に眉毛が薄く、眉頭だけに眉毛が残った状態の事を言い、引眉とは眉を剃る、又は抜いたあと、元々の眉より高い位置に殿上眉という長円形の眉を墨で描くことを差した。
 元々は裳着の際に、お歯黒とセットで行われたもので、平安中期頃から男性貴族、平家の武将、等の元服の時にも行うようになったとか。
 江戸時代くらいには女性のみが引眉を描き、その眉の形で未婚既婚等を分けたらしい。
 これがジャミールの一族独特の代物なのかと、まじまじと牡羊座を見つめる。
 ランティスは幼子が心持ちやつれている事に少々痛々しさを覚えたが、何よりも気になったのはアフロディーテが幼子を抱えているという点だった。
 そんなことに気づかないアフロディーテは、ほくほくと同僚に愛らしい幼子を見せた。

「この子はというんだ。、彼はランティス。牡羊座の黄金聖闘士だよ」

 見ればわかります。そう言いたいのを喉の奥に押し込み、はにっこりと笑みを浮かべた。
 
です。よろしくおねがいします」
「うん、よろしく。どこからつれてきたの、この子」
「任務先の森の中」
「はぁ? なんだってそんな所に」
「それは……」

 アフロディーテが苦々しげな顔でを見下ろし、言葉に詰まる。それで大体のことを察したランティスは、内心で安堵しながらもこっくりと一つ頷き、身体をずらして道をあけた。

「金牛宮と天蝎宮、磨羯宮は今留守だよ。他はいる」
「巨蟹宮も?」
「いるよ、珍しく」
「本当に珍しいね」

 あの聖域嫌いが。
 そう呟いて、アフロディーテは首を傾げる。その拍子に薄葡萄色の髪がの顔にかかったので跳ね除けたら、それはさらさらと流れていった。これだけ長いというのに枝毛一つなく、全く持って羨ましい限りの髪質である。

「ん、ああ。ごめん、。それじゃ、通らせてもらうよ」
「どうぞ」

 アフロディーテは長い階段をなんということもなくさくさくと上っていく。ランティスがその背中に向かいヒラヒラと軽く手を振ると、美貌の魚座の首にしがみついていた小さな子供が、どこか遠慮がちに手を振り返してきた。
 ランティスは少しばかり驚いて、瞠目する。

「子供って煩いだけだと思ってたけど……あの子はいい子だな」

 今度会ったら何か甘いものでも与えてみようか、などと考えながら、ランティスは白羊宮の中へと踵を返した。





 麻呂眉だった。の白羊宮の住人への感想は、やはりその一言に尽きる。容姿はを抱いている麗人とはまた違った感じの美人さんだったが、の好みからは少しばかりずれていた。
 それでも綺麗なものや可愛いものは人を含め大好きなので、好感度アップを狙って子供らしく且つ礼儀正しく振舞ってみたのだが、結果はどうだっただろう。
 まぁ、今度会った時にわかるか。
 遠ざかっていく白羊宮を眺め、魚座のショルダーパーツに頬を押し当てる。陽光を吸収したそれは少しばかり熱を持ち、当たり前だが硬かった。
 アフロディーテの声に適当に相槌を打ちながら、無人の金牛宮と双児宮――双子、射手、乙女は現在空位らしい――を通り抜ける。
 そして次の宮たる巨蟹宮を目にすると、麗人の足取りが心持ち軽くなったように感じた。
 おや、と間近にある美しい顔を見上げる。

「次は巨蟹宮。あそこの主は悪人面だけど、結構いい奴なんだ」
「ふぅん」

 何だか若干優しさを増した麗人の笑みを見上げる。
 原作のデスマスクみたいな感じだろうか、悪人面って。
 もうここまで来たらいい加減現実を受け入れ始めてきたは、小首を傾げながらそんな事を考えた。すると、麗人が宮の奥に向かってその美声を張り上げる。

「通るよ、カニ!」
「カニと呼ぶなカニと!」

 白羊宮の主と対するよりも気安い空気と共に、少しかすれた低い怒鳴り声が響く。そして間をおかず、黒緑の髪と深緋の瞳のアフロディーテ曰く“悪人面”の男が出てきた。
 アフロディーテの姿を認めた鋭い目が、一瞬優しく緩む。
 おやぁ……?

「オレにはデスマスクっつー立派な名前があるだろうが!」
「はんっ、あからさまな偽名なんだからカニでかまわんだろうが! 実際蟹だしな!」
「なら今度からてめぇの事は魚と呼んでやる。同じ水棲生物だ光栄だろう……ディテ」
「……なんだ」

 深緋の瞳がアフロディーテの腕の中のもの――つまりはにぴたりと合わされ、高くなっていた声を低めて麗人を呼んだ。
 アフロディーテも雰囲気が変わったことに気づき、嫌な予感に苛まれながらも真面目に返した。
 そんな二人に挟まれたはきょとんと瞬く。

「お前……いつかはやると思っていたが……どこから攫ってきた、そのガキ」

 ちょっとした沈黙の後、目にも留まらぬ速さで白薔薇が宙を切った。


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