3.驚愕


 再び目が覚めた時、の側にいるのは熱に夢うつつになっていた時に付きっ切りだった男性ではなく、少しばかり体格のいい、肝っ玉母さんと言う言葉がよく似合いそうな女性だった。
 目を丸くして見つめるに気づいた女性は、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべて「目が覚めたんだね、よかったよかった」と何度も首を縦に振った。
 彼女の言うところによれば、手足を血で染め発熱していたが女性のところに連れてこられてから、四日ほど経っているとの事。
 どこか痛い所は無いかと尋ねる女性に、お腹が空いたといえば、盛大に笑われた。

「食欲があるようならもう大丈夫だね。待ってな、すぐに栄養満点のスープを持ってきてやるから」
「……ありがとうございます」

 起き上がってぺこりと頭を下げると、彼女は温かな掌での頭を撫でて部屋から出て行った。
 彼女の姿を飲み込んだ扉をしばらくの間呆然と見つめ、膝の上でひだをつくる毛布を握り締める。
 そのままの体勢で部屋の中をじっくりと見回すと、の家にもあったような一般的な家具がいくつか置かれているだけの、少しばかり手狭な部屋だった。
 ここはどこだろうと思いながらぱしぱしと瞬き、は不快感を覚える目元に触れた。ぼろぼろと目やにが剥がれ落ちる。
 目元がすっきりしたところで、はたと手にある違和感に注目する。
 森の中で傷ついたはずの掌は、綺麗さっぱりと名残すら残らず元に戻っていた。
 一瞬怪我したことは夢の中での出来事だったのではないかと思ったが、の身体があの痛みと川の水の冷たさを覚えている。
 もしかして、とPKで毛布を捲くりあげ、足も確認してみると、こちらもあのスプラッタが嘘だったかのように柔らかな皮膚を取り戻していた。
 あの女性の話では四日も眠っていたという話だから、多少治っていても不思議ではないが、完治はありえないだろう。完治は。
 憮然として手足を見詰め、ひりつく咽喉で息を呑む。

「なんで……?」

 あの痛みのほうが嘘で、何の怪我もしていない今現在が本当だとでも言うのだろうか。
 しかしだとしたら、あの森の中で過ごした二日間は何だというのだろう。狐や狸に化かされていたというのでもあるまいに。
 混乱したまま、ぐるぐると思い悩む。
 そうしていると、ドアをノックする音が聞こえ、戸が開いた。
 そこから顔を出した人に、は大きく目を見開いた。
 腰を過ぎるほどの薄葡萄色のストレートな髪に、浅緑の瞳。顔立ちは女性的な美しさを宿していて、顔だけを見れば女性(しかも超絶美女)と間違えてしまいそうなほどだ。年は二十代から三十代の間といったところだろうか。
 人間としてありえないだろうその色彩は、とどこか冷静なままの心で麗人の髪の色に突っ込みを入れつつ、は己の好みのど真ん中をストレートに衝いている男の美貌に、先ほどまでの疑問も全て吹っ飛ばして見とれた。
 は綺麗なものや可愛いものを鑑賞するのが趣味の一つである。
 麗人は大振りのトレーに湯気の立つ皿と、コップと水差しをその手に持っており、起き上がりじっと己を見つめている事に気づくと、その麗しい美貌に大輪の花が開くような笑みを浮かべた。
 うわぁ……。

「ああ良かった。森で倒れているのを見たときはどうなることかと思ったけど……」

 サイドテーブルにトレーを置き、ベッドの近くに椅子を引き寄せて座る。
 近くで見た麗人はますます綺麗で、結構な長身であることが知れた。加えて声までも美しい。
 内心うっとりと聞きほれながらも、麗人の言葉にこくりと頷く。

「うん。だいじょうぶだよ。おにいさんだぁれ、ここどこ?」

 水分に飢えた口の中は乾いており、声はかすれていつも以上に舌足らずだった。それが何とも言えぬ子供らしさを醸し出す。
 わお、自分じゃねーみたい。しかしながら都合はよく、おまけに可愛らしく首を傾げるというオプションも付けてみた。
 目の前の麗人は幼児の仕草にとろけるような笑みを零しながら、捲れた毛布を子供の膝にかけなおし、水を差し出しながら口を開く。

「私の名前はアフロディーテ。ここはお嬢さんが居た森から東……って言ってもわからないか。そうだね、川が流れてくる方向にあった村だよ。お嬢さんの名前も教えてくれる?」
「……

 うくうくと渡されたの手には大きめのコップを傾け咽喉を潤す。途中、麗人が口にしたその名に、驚きのあまり噴きそうになったのは秘密だ。
 何だか熱烈な視線を感じる――危ない人だったらどうしよう――中で、二十年にわたり愛用してきた名前を名乗る。
 今生のファミリーネームはまったく違ったものだが――ギリシア語圏内にある国の苗字が日本のものの方が変だ――、を捨てた両親に今や何の愛情も抱いておらず、あっさりとその名を捨てた。
 を『』として形作ってきたものは彼らではなく、の名を持つ彼らとそこで育った彼女自身だ。
 いい名前だと言って笑みを深める麗人に礼を返す笑顔の裏で、は混乱の渦に巻き込まれていた。
 アフロディーテ。ギリシア神話に出てくる天空神の切り落とされたブツが海に落ち、その泡から生まれたと言われている某女神様。
 その名前を男につける親なんているのだろうか。
 いや、実際この目の前の麗人の名前がアフロディーテで、とんでもなくよく似合っているのだけれども。
 某漫画で、頂点に立つ美貌と称された登場人物並みに。
 某漫画……。
 頭の中によぎったそれに、何だかぎくりとしつつ、ちょっとばかし嫌な予感がはっきりとした形を作る前に、はぎゅむりとそれを己の中に押し込める。
 そして何にもなかったかのように、笑みを浮かべて見せ、空になったコップを麗人に渡した。

に少し聞きたいことがあるんだけど……」

――くーっ、きゅるるるる……

 少しばかり表情を引き締めた麗人の言葉を遮るように、子供のお腹がなる。
 麗人の美貌にすっかり忘れていたのだが、そういえばお腹が空いていたのだったと小さな手で胃のあたりを押さえる
 年頃の女性ならばこんな美貌の男性に腹が鳴る音など恥ずかしくて聞かせたくないのだろうが、あいにくには転生前からそんな可愛げなどなく、今現在も子供の姿だということで全く気にしてはいない。
 なので顔を赤らめることもなくあっさりと、自分の要求を口にした。

「おなかすいた」
「すまない、その為にスープを持ってきたというのに……。食べ終わってからにしようか」

 アフロディーテは気づかなかった己に苦い笑みを浮かべ、トレーの上に乗っていた深皿を手に取った。
 その中には、女性の言っていた「栄養満点のスープ」がなみなみと入っていた。そこから立ち上るいい香りがの食欲を刺激し、口の中に唾液が沸き起こる。
 は皿を受け取ろうと手を伸ばしたが、麗人は麗しい笑みを浮かべてスープをスプーンで掬い、幼子の口元に突きつけた。
 ぴしりと、音を立てた固まる。

――えーと、これは何か。新婚夫婦やらバカップルやらがやる、見ているほうもやられている方も死ぬほど小っ恥ずかしくて身悶えるアレか。いや、親が小さな子供にやっているのを見るとものすごい微笑ましい光景だけれども。そりゃ私の外見は否定のしようもなく幼児だが、中身は目の前の麗人とたぶん同じくらいなのであってそんな事をされるとああほら大量の鳥肌が……。

 けれど麗人はそんなの様子に全く気づいていないらしく、キラキラしい笑みのまま「はい、あーん」と言ってのけた。
 そんな顔を見てしまうと、眩しいばかりの善意――だけではないような気がするがそう思いたい――で以ってもたらされる親切を、のなけなしの良心が痛むために無碍にすることも出来ず、いくらか葛藤した後にしぶしぶと小さな口を開きスプーンにかぶりついた。
 内心身悶えながらの行為だったのだが、野菜がとろとろに溶けるほど煮込まれたスープのあまりの美味しさに、その思考も吹っ飛んだ。
 羞恥も空腹の前には風の前の塵である。
 空腹に促されるままにスープを口にして、ふと気がついたときには深皿の底が見えていた。
 それに反比例するかのように、の腹は膨れていた。

「これだけ食欲があるのなら、本当にもう大丈夫みたいだね」
「ん。ごちそうさまでした」

 渡された布で口元を拭い、は小さく息をつく。
 麗人はニコリと笑い、すぐに表情を引き締めた。

「おにーさん、ききたいことってなーに?」
「うん。は何であの森の中にいたの? あの場所はとっても怖いモノがいるから入っちゃいけない、って周囲の町や村にも知らせがあったはずだけど」

 そうだったのか。
 初めて知った事実に、は目を見開く。
 確かにを襲ったような奇妙な生物が生息していたのだから、その危険は身を以って知ってはいたのだが。
 周囲の村や町に伝達が行っていたのなら、当然あのノイローゼな今生の母も知っていたわけで。

――確実に殺す気だったのか。

 森の中に置いて行った時点で、それは揺るぎようのない事実なのだが。
 ぎりぎりと、手を握り締める。
 親にとって子供は愛し守るべき存在だという認識をしているにとって、それは許せることではなかった。
 だからと言って、それを他人に押し付けるような気は砂粒ほどもないが。
 は無理やり笑顔を作り、麗人を見上げる。

「ままがね、きょうはいそがしいから、もりのなかであそんでなさいって。むかえにくるからまっててねって」

 そうほざいたのだ、あの女は。迎えに来る気など微塵もなかったくせに。
 目はどっかにイってしまっていたから、捨てられる覚悟もあったためにもう限界かとそれしか思わなかったのだが、確実に葬る予定だったとは。しかも自分の手は汚さずに。
 それに傷つくような柔な神経はしちゃいないが、傷つくことと怒りを覚える事はまるっきり別物だ。

「まま、のこといらないんだ……」

 一応子供らしい反応をしながら、この怒りはどこにぶつけるべきかと俯かせた顔の下で考える
 アフロディーテの方はというと、酷くショックを受けたような顔をして身を震わせ、突如としてがばりとを抱きすくめた。

「信じられない! こんな、こんな小さくて愛らしい子供を……!」

 いや、小さいはともかく、愛らしくはないと思う。中身は一応成人してるし、元から可愛いという単語とはかけ離れた存在だったし。
 意外に広い胸板に俯けた顔を埋めながら、は冷静に突っ込む。これで身体も大人なら多少胸も高鳴っただろうし、すがりつこうとも思うのだろうが、あいにく今は子供というか幼児でそんな気も起きない。もしかしたら大人でも起きなかったかもしれないが。それを自覚する程度には、自分の可愛げの無さをは知っていた。
 しかし薔薇の香りでむせ返りそうだ。

はいらなくなんか無いからね。行くところが無いというのなら私と共に行こう!! 君ならいい聖闘士になれる!」

――……はい? 今何と仰いました?

 身体と思考の動きを一切止めて、は何だか聞き覚えのある単語を発した麗人を見上げた。

「……セイント?」
「そう。女神と地上を守る正義の闘士だ。……森の中で変な生き物にあったのを覚えているかい?」

 は錆びた蝶番が立てる音のようなぎこちなさで、ぎくしゃくと首を縦に振る。

「それをやっつけたのは、君だろう?」
「おおきないわに、どんって」

 ああ何正直に答えてるんだ私。
 真っ白になった思考の中に入り込んでくる麗人の美声に操られるように答える中、やっぱりどこか冷静な部分がそう呟く。

「アレを一撃で伸したんだ。なら白銀、いや、もしかしたら黄金聖闘士になれるかもしれない。もしなれなかったとしても私がちゃんと責任持って育ててあげるから。私がの親代わりになるから。だから一緒においで」

 の小さな双肩をがっちりと掴み、麗人は熱弁を振るう。
 興奮して薔薇色に染まり、艶やかさを増した麗人の美貌に思わず見とれ、その勢いに押されるままに、は思考を真っ白にしたままこくりと首を縦に振ってしまったのだった。


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