2.危機


 ビバ、サイコキネシス!
 は心の中で喝采を上げた。
 記憶付で転生してから三年強、これほどこの特殊能力に感謝したことがあっただろうか!(反語)
 前世――記憶を持っていて自分が自分だという自覚があるのにこう言うのは何だか不思議極まりないのだが――でよく友人達に剛毛が生えているだの鋼鉄製だのといわれていた心臓を煩いほど高鳴らせながら、は血に伏した奇妙な生物を見下ろし、そろそろと息を吐き出した。





 どこかイった瞳をした、ノイローゼ気味というかそのものの母親たる女性に捨てられてから二日。運良く近くに流れていた川で水を確保し、空腹を抱えながらも、時折方角を確認しつつ森の中を歩いていた。
 腹が空くのは痛いが、水が確保できただけでも良かった。人間食料が無くても水さえあれば一ヶ月と少しくらいは生き延びることが出来る。
 ちなみに水無しの場合は個人差はあるものの数日間で死に至る。人間の身体の約六十パーセントは水で出来ているというのがよくわかる事実だ。
 川は進む方向から流れていたので、それに沿って進み、邪魔な草やら岩やらはPKを使えばどうとでもなったので、苦労という苦労はそれほどしてはいない。
 しかし、身体はまだ三歳の子供。いくら精神が発達しているとはいえ、体力がついていかず、柔らかな両足の裏は肉刺がいくつか出来、そのうちの半分以上はつぶれていた。
 歩くたびに痛みが走るが、進まなければ治療も出来ないので、は時折川の水に足を浸して休憩しながら進む。
 何だか熱っぽいような気がしたが、知らない振りをしておいた。

「うおっ……と」

 木の根に躓き、バランスを崩して転びかける。とっさに木に手をついて持ち直したのは良かったが、子供の小さくて柔らかな掌は摩擦で皮膚がそげ、血を滲ませていた。
 痒いようなしびれるような痛みがじくじくと響く。
 その手を川の中に突っ込みながら、は深々とため息をついた。

「つかれた……」

 色々と言いたいことはあるのだが、それだけで体力は消耗しそうなので、ただそれだけを口にする。
 ペタリと地面に座り込み、ついでに休もうと靴を脱いで足を川の中につけた。
 身体の横に放り出した靴をちらりと見ると、中は血にまみれて結構なスプラッタだった。
 一瞬履きたくなくなったが、靴はこれしかなく裸足というわけにもいかないので見なかったことにして目をそむける。
 ……その時。

「ん?」

 あまりの疲労に衰えた感覚に何かがひっかかる。それは赤いランプを灯し、低く警報を唸らせていた。
 その何かは物凄い勢いでのほうへと迫ってきている。
 何だか物凄くヤバイ、これまで感じたことの無いようないや〜な予感がした。そりゃもうひしひしと。
 禍々しいとも言える気配に、は顔を引きつらせる。
 が逃げる間もなく木々の合間から飛び出してきたそれは、凶悪な面でつめと牙をむき踊りかかる。
 の美的感覚に耐えられないような醜悪なその姿が目に入った瞬間。

――ドンッ

 近くにある岩に、のもてる力の全てで持って、その獣を思い切り叩きつけた。
 そして冒頭に至る。





「うわーしんぞうがドキドキしてるじゅみょうがちぢんだよかるくさんかげつはああでもそれもねんたんいじゃないところがこうてつとしょうされたわたしのしんぞうさすがわたしすげー」

 自分でも訳のわからないことをノンブレスで言い切り、胸元を握り締める。目に見えて錯乱していなくても、やはりそれなりにパニックを起こしているらしい。
 私もやっぱり人間だったかとどこか冷静な部分で思いながらも、はこの場から離れようと血まみれの靴へと手を伸ばした。
 しかし。

「え゛……」

 くらりと世界が回る。バランスがとれず無様にも地面に倒れこみ、力の抜けた指が震えながら土をかいた。

――ヤバイヤバイヤバイ! ここから離れなきゃなんねーってのに!

 くるぐると回る世界の気持ち悪さと、自由にならない身体に対する煮えたぎるほどの悔しさと怒りに、目の端から涙が零れ落ちた。
 意識が己の意志を無視して、どんどん闇の中へと沈んでいく。
 それは自分が死んだときの、あの底なしの沼に沈んでいくような、画面が唐突に切れるような感覚を思い出させた。
 全てがやみに閉ざされる直前、草を踏み分ける音と男の人の声。そして金色に輝く何かを見たような気がした。







 ぼんやりと意識が浮き上がり、まだくっついていたいと主張するのを宥めすかして重いまぶたをこじ開ける。
 かすんだ視界に広がるのは茶色い天井。身体の下には何だか懐かしい感触があり、上には暖かなものが乗っかっていた。
 まだはっきりとしない頭で視線を下に向ける。お日様のにおいのする毛布が、の小さな身体を包んでいた。
 それを確認して、紗がかかったような思考の中で、自分が生きていることを確認した。
 何故ここにいるのかという疑問も浮かびかけたが、それは形を成す前にの中で霧散する。
 全身を取り巻く倦怠感が気力を奪い、熱いのに寒いという矛盾した症状がの意思を封じた。
 耐えられずに目を閉じるの耳に、耳障りのいい男の声で「もう少しお眠り」という言葉が聞こえた。
 抵抗する気力も無く素直に頷き、再び意識を闇の中へと沈めていく。
 そこには全てを奪われるような危機感も何かを失いそうな恐怖も無く、ただ安らぎのみがその腕を広げてを待っていた。


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