時を越えた邂逅  中編



 白亜の石畳に散る、長い濡羽色の髪。ひび割れた、射手座の星座が描かれた仮面。きっとその奥には、美しい紫紺の瞳があるのだろう。そして、暖かく強大で、神聖さすら感じさせるその小宇宙に、自分は何か都合のいい夢を見ているのではないかと、思わず我を疑った。
 彼女は、もう気が遠くなるほど遠い昔に、亡くしてしまった人だったから。
 けれど、恐る恐る触れてみれば暖かく、それは現実で。
 涙が出そうになった。何故ここにいるのかなど、そんな理由はどうでもよく、ただただ、その声を、その瞳を、切望した。
 女性には重い扉を苦も無く片手で開き、その人は何の躊躇も無く教皇と黄金聖闘士が揃う謁見の間へと足を踏み入れた。不審者を見る目で彼女を見つめる者もいるというのに、背筋は凛と伸ばされ、たたずまいは堂々と。仮面をしていてもその意志の力と視線は鋭く周囲の者を圧倒し、逆に彼らのほうがたじろいでいた。まるで、教皇を前にしているように、その身を緊張させて。
 疑ってはいなかったけれど、その様子に、彼女は紛れもなく、シオンと童虎がよく知る、射手座のである事を確信した。
 探るような視線が集中する中、は中央辺りで足を止めると、そこに座る主もいないというのに玉座の横に立っているシオンに向けて、面白そうに口角を吊り上げた。

「お呼びと伺いましたが、教皇」

 張りのある低い声が、からかうような響きを帯びて室内に広がる。どこか皮肉を帯びて聞こえすらしたそれに数人が気色ばんだが、当のシオンはというと、もう二度と聞くことが出来なかったはずの声に、喜びと哀しみ、そして愛しさなどの、自分でも割り切れない複雑な感情が胸の中で渦を巻き、無性に泣きたくなった。がぜんない幼子が母に縋って泣き喚くように、その膝に縋り声を上げて。

「教皇、どうなさいました?」

 顔を強張らせ、反応を返さないシオンをアイオロスが気遣う。シオンと同様に、視線が少女に釘付けとなっていた童虎は、一瞬その声をシジフォスのものと聞き間違え、それが聞こえてきた方へと勢いよく振り返った。けれどそこにいたのは白銀ではなく黄金の、無骨と言ってもいいフォルムを持った射手座の聖衣を纏ったアイオロスで。あれは彼女のものだった、と目を細める。曲線を描く優美なフォルム、生きているかのように空を打つ巨大な黄金の翼。幼い頃、憧憬と共に見上げたそれは、今でもまざまざと思い出すことができる。同時に、初めてアイオロスが射手座の聖衣を纏った姿を見たとき、纏う者が違うだけでこれほど違ってくるものなのかと驚愕したことも思い出し、童虎は苦笑を浮かべた。
 そんな彼の視線の先で、ふらりと前に進み出たシオンの唇が震える。

「教皇、などと、呼ばないでください……。どうか、どうか昔のように、シオンと」

 その声で。その唇で。私の名を紡いで。
 弱々しい言葉と声で懇願する教皇に、戸惑いや驚きといった感情の波がざわりと広がる。特に弟子であるムウの驚きは一入だ。こんな、己の弟子を思わせるような、師の姿は初めて見た。この、自分より三つ四つ下に見える少女は一体何者なのだろう。戸惑いと好奇心の入り混じった視線で、ムウは己が師と少女を見つめる。少女は、呆れたように溜息をついた。

「私にとっちゃ『今』も『昔』も同じなんだがな……シオン、童虎」
「「はい」」
「今はいつだ?」

 奇妙、とも言える質問が、少女の口から出る。戸惑いが空気を支配する中、シオンと童虎だけは然もありなんと頷いた。

「先の聖戦より、244年。今代の聖戦も、前年に終ったばかりにございます」

 すっと、それが当たり前であるかのように自然な動作で、シオンと童虎が少女に礼をとる。少女を見上げる二人の目には、涙の膜が張っていた。

「まさか、再びお会いできるとは思ってもみませんでした」
「何故この時代にあなたが現れたのかは存じませんが、我らはこの奇跡に感謝いたします。お会いしとうございました、射手座のよ」

 深々と頭を垂れる長老の姿と、シオンから出てきた思いも寄らぬその名に、言葉にならぬ衝撃が駆け抜けた。
 射手座の。史上最強と謳われた先代黄金中紅一点でありながら、他の聖闘士を抑え最強と名高く、女神の信頼も厚く、聖戦の折には先頭に立って聖闘士達を率い戦ったという。そのほかにも数々の伝説を残し、200年経っても色あせる事無く鮮やかに語り継がれている存在が生きて目の前に在るとあっては、冷静でいられる訳も無い。
 信じられぬ思いと先の時代から生きてる彼らがその存在を間違うはずはないという信頼が入り混じった視線が少女に集中する。中でも、アイオロスは食い入るように彼女を見つめた。華々しい伝説に彩られた、己の先代。今では尾ひれが付いていて真実かどうかわからないものも数多くあるが、彼女に付いた最強の肩書きが嘘ではなく紛れも無い真実である事を、アイオロスは身を以って知っていた。先代の強さ故に射手座の聖衣は――いや、全ての黄金聖衣は、女神が再び地上に降臨するまでの200年以上もの間、一度として己の主を選ばす沈黙を守り、牡羊座と天秤座以外の黄金聖闘士の長期にわたる空位という空前絶後の異常事態が起こったのだから。おそらく、女神が地上に降臨しなければ、今も聖衣は主を選ばす眠ったままだったのではないだろうかと、アイオロスは聖衣を纏った今でも思っていた。それを証明するかのように、彼女が現れてからというもの、聖衣が熱い。
 不審から信仰にも近い熱へと変化した空間にも少女は反応を返す事無く、跪く二人のつむじをじっと見下ろし。

――ガッ! ゴッ!

 ぐっと握られた拳をその脳天へと振り下ろした。
 小宇宙が燃やされていたわけではないが、そこはやはり聖闘士。ほとんど筋肉の付いていないような細い腕、華奢な体から繰り出された攻撃はかなりの衝撃を与えたらしく、長老二人は言葉も無く痛みに悶絶した。

「感動しとる場合か、このたわけ」

 低い声が長老達を罵倒する。腰に手を当て、肩幅に足を開いて地を踏みしめたは、至極不機嫌そうに頭を抱えるシオンと童虎を見下ろした。
 唖然とした空気の中、少女は顎で立てと二人を促し、誰かが声を発する間もなく教皇の――女神がいれば彼女が座る玉座へと腰を下ろした。高々と、短パンからすらりと伸びた足が組まれ、仮面の向こう鋭さを増した瞳が、鈍い動作で彼女に従った二人を貫く。
 その他の面々は、もう言葉も無かった。だってあの、前聖戦を生き抜き、二百年以上もの歳月を過ごしてきた彼らが、礼儀にも聖闘士としてのありようにも厳しいあの長老二人が、彼らの十分の一も生きていないような少女から理不尽な暴力を振われても怒らないばかりか、彼女の出す指示に大人しく従っているのだ。ミロやアイオリア、アイオロスなどはぽかんと大口を開けてアホ面を晒して突っ立っているし、ムウやサガ、シュラといった面々は今にも卒倒しそうである。アフロディーテ、デスマスクの二人の面白そうに目を細めている姿が、その中ではある意味異様だった。
 先ほどとは別の意味で涙を溜めた二対の目に見つめられたは、彼らの後ろでそれぞれに阿鼻叫喚を繰り広げている次の聖戦世代の後輩達へとザッと視線を走らせ、その反応を面白く思いながらもパンと手を打ち鳴らした。その音に我に返った黄金達の視線が再びへと集中し、は口角を吊り上げる。

「お前達も一応聞いとけ。特にそこの双子ども」
「げっ」

 カノンが顔を引きつらせて呻き、サガが顔から血の気を引かせる。その様子に、シャカは小さく、口元に笑みを浮かべた。

、もしや気付いて……」
「あの程度で私が意識を失うとでも?」
「いえ……」

 という事は色んな葛藤の元、自分が彼女を凝視していた事にも気付いていたわけか。先ほどの拳骨にはそれも含まれていたのかもしれないと、シオンは肩を落す。素直に感情を露にする教皇に、同じく拳を落とされた童虎は苦笑しながらその背をぽんと撫でた。その様子は記憶にある子供達の姿とそう変わりは無く、はかすかに、口角に苦笑を刻んだ。





 視線が痛い。
 殺傷能力があるとすれば、何度死んでいるだろう。矢のように降り注ぐ冷たい視線に身を縮めながら、シオンと童虎は半ば飛びかけている意識を繋ぎとめつつ思った。自業自得だと理解してはいるが、あまりの厳しさに理不尽さすら感じる。泣きたかった。
 が消えた。その知らせが最年少二人を連れたアルバフィカによって齎された後、十二宮はまさに阿鼻叫喚といった様相だった。まず彼女の師である先代魚座アフロディーテが卒倒し、先代蟹座デスマスクと共に退場。先代水瓶座はひとしきり絶叫した後ちょうど隣にいた先代山羊座の襟首を掴んでがっくんがっくんと揺さぶったが、すぐに当の山羊座に取り押さえられた。その先代山羊座の顔つきもいつも以上に厳めしく、硬い。普段にこやかな獅子座師弟にも笑みはなく、蠍座師弟は大混乱して今にも泣き出しそうだ。先代牡牛座や童虎の師も困惑顔。そしてシオンが聖域にいる間はジャミールの長から師匠代行を任されている牡羊座は、凍気を操るわけでもないのにブリザードを身に纏っていた。
 いつも淡々としている師匠その二が怒りを露にしている様子に、シオンはますます小さくなるしかない。それよりなにより恐ろしいのは、冷たいどころか温度すら感じられない目でシオン達を睨みつけている蟹座である。表情はごっそりとそぎ落とされ、視線だけが不自然なほどに強く鋭い。真っ先に飛び出してくると思われた毒舌は発されるどころか、この場に現れたときからぴったりと貝の如く口は閉ざされており、それが逆に彼の激情を物語っているようだった。きっと彼が次に口にする言葉は、蟹座が受け継いできた技の名前に違いない。彼は傾倒する射手座と彼女の両脇を固める双子座、魚座以外の存在には本当に容赦ないのだ。死神が鎌の刃を研ぐ音が聞こえた気がして、シオンと童虎はぶるりと背筋を震わせた。
 ふぅと、泣き出しそうな顔で玉座にちょこんと座した幼き女神の横に立った教皇が、小さく息を吐く。

「射手座の行方が知れぬ以上、双子座が帰ってくるのを待つしかないか」
「は……来ました」

 教皇の言葉に頷こうとした瞬間、双子座の小宇宙を感じ取ったアルバフィカが宙へと視線を投げる。彼と同じく双子座の小宇宙を感知した者達も同じように一点を見つめ、感知できなかった者達――主に候補生か、聖闘士になって間もないものだ――は、ぱっくりと割れた空間に目を丸くし、期待に息を呑んだ。
 一転に視線が集中する先に、カルラを小脇に抱えたフーガが姿を現し、空間の狭間から完全に抜けると同時につなぎ目を閉じた。そのあまりの早業に、初めて戦闘以外で彼の能力を見た者達が驚きに目を瞬く。
 フーガは視線も驚愕に染まる空気も全く気にする事無く、何故かぐったりしているカルラを床に下ろして握っていた手を差し出し、開いた。そこにあったものは、つるりとした真珠の光沢を持つ、白い欠片。

「あの子の仮面の欠片か」

 手ずから射手座の少女の仮面を作り続けているランティスが一目でその欠片の正体を見抜き、声を上げる。フーガは首を縦に振った。

「偶然、これだけ見つけた。役に立つか?」
「何とも言えないね。でも、あの子の手元にその欠片と繋がる部分が残っていれば、多分引き合うよ」

 の小宇宙も馴染んでるしね。
 若干表情を和らげたランティスの言葉に、光が指したように場の雰囲気が明るくなる。フーガとアルバフィカは顔をあわせ、頷きあった。強い意思を持った花浅葱が、幼い女神を見つめる。

「手伝っていただけますか、女神?」
「はいっ」

 小さな拳を握り締め、頬を紅潮させたサーシャは、勢いよく頷いた。





「……という訳だ」

 さも面倒そうに語られた事の経緯に、黄金聖闘士たちの生温い視線が長老二人組に集中する。
 手合わせ中に突っ込んでいくなどという愚行を――遠い過去とはいえ――してしまい、そのあげくに敬愛してやまない射手座その人を巻き込んでしまったという事実に身を縮めるしかなかったシオンと童虎は、流石にいたたまらなくなり。

「わしらも子供じゃったしのう……」
「えぇいっ、そのような目で見るな小僧ども!」

 童虎は明後日の方向に視線をやり、シオンが逆切れした。そのままPKを発動しようとしたシオンに、は半眼になってとんと肘置を指先で叩いた。蛙が潰れるような声と共に、シオンが潰れる。石畳は彼を中心にして円形に凹み、ひび割れていた。

「怒鳴るな。やかましい上に大人気ない」

 200年以上も生きたジジイが、と言葉にせずともそう続いた気がして、相も変わらず容赦が無い、と童虎は心の中で呟き、シオンは、この人はこんなに厳しい人だったかとやはり心の中で疑問を浮べ、倒れ伏したままで涙を流した。
 自分達の喧嘩が原因で帰れるはずがこの時代に来てしまったと知った双子はというと、すっかり色を失っていた。サガなぞはちょっとつつけば今にも倒れてしまいそうである。それよりは幾分かマシな顔色をしていたカノンも、教皇の見事なめり込みっぷりに冷や汗を流していた。事も無げに指先で肘置を叩いただけであの教皇が地面にめり込んだ。しかも教皇以外には被害を及ぼす事も無くピンポイントで。強い、と。力の一端に触れ、頭で考えるまでも無く、本能に近いところで感じ取る。何故、これほどまでの力と存在感を前に変わりなくいられたのだろうと、今更のように疑問に思った。
 ひとりでに膝が折れる。その横では既に兄が膝をつき、深々と頭を下げていた。

様……申し訳ございません。よもや、このような事態になろうとは……」
「それはいい。こんな事予想できる奴なぞいねぇんだからな。ただ……」

 すっと、仮面の向こうで目を細める。鋭い視線が、同じように膝を突き、一人は頭を垂れ、一人はから視線を離せずにいる双子を貫いた。
 室内はしんと静まり返り、意味深に切られた言葉の続きをこの場にいる全ての人間が待っている。まぎれもなく、この場では誰よりも年下であるはずの少女に支配されていた。見事だ、と一歩引いたところから全てを見ていたシャカは胸中で呟く。

「聖闘士同士の私闘は厳禁だ。わかっているな」
「「はっ」」

 返事と共に深々と頭を下げる双子に、こいつら本当に分かっているのか、と胡乱な思いを抱き、眉間に皺を寄せる。いや、私闘厳禁という事実だけは理解しているのだろう。言語理解能力に支障がある訳ではあるまいし。しかし、その中身。何故私闘が厳禁とされているか、という事を理解しているかというと……不安だ。物凄く不安だ。この双子だけではなく他の聖闘士にも言えることだが。こいつらを育ててきたはずの――直接関わっていたかどうかは知らないが――長老二人をちらりと見やり、は再び口を開いた。

「では何故私闘が厳禁とされているか、それは?」
「…我ら聖闘士の力は女神の為に使うべきものだからです」

 何を言うのだろう、と戸惑いながらも、サガは己の思うところを正直に答える。

「そして?」
「そして……我らの力は周囲に多大な影響を与えるから?」
「そうだな。我らの力は時に星一つを破壊するほどだ……で?」
「え……」

 それが分かっていながら何故安易に使う、と内心突っ込みを入れながらも、淡々と次を要求するに、双子は言葉を失い顔を見合わせる。やっぱり、と内心で溜息をつきながら周囲へと視線を走らせてみると、他の聖闘士たちもどっこいどっこいの反応をしていた。そして信じたくない事に、シオンと童虎ですら、難しい顔をして目を見合わせている。頭が痛くなったような気がして、はこめかみを揉んだ。

「……力を持った者は驕りやすい。そしてその力を他に示したがる傾向にある。その結果、仲間内で殺し合いが発生しないとも限らねぇから、その戒めの為だ。聖闘士となったその瞬間から、我らの命も力も我らのものではなく女神のもの。下らん争いで亡くしてはならない。私闘禁止の理由は他にもいくつかあるが、事の本質はそこにある」

――てめぇら後で面かせや。

 他の聖闘士たちと一緒に感心している長老二人組みに、はくっきりと青筋を浮かべ、二人にだけテレパシーを飛ばす。低く地を這うどころか地下に突き抜けていそうな声が脳裏に響いた瞬間、シオンと童虎は血の気を引かせ、逃げ出したい衝動に駆られた。しかしながら、それを実行すればより恐ろしい目に遭う事はわかりきっているために、是と返すしかない。深々と、は息をつく。

「私闘は厳禁だ。わかったな」

 もう一度繰り返し、ざっと聖闘士達を見回す。幼い子供のような素直さで頷く後世の聖闘士たちに、はらしくもなく聖域の未来が非常に不安になり、帰る前に一度シオンと童虎をきゅっと締めていこうと軽く拳を握った。

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なかがき

 カルラがぐったりしていたのは、仮面の破片を見つけたフーガが、テレポート禁止区域である十二宮内を最短時間で移動するためにカルラを問答無用で亜空間に引っ張りこんだ所為です。
 亜空間は以前書いたように、非常に不安定で流れの不規則な場所なのです。そんな場所をフーガの小脇に抱えられ移動した為に酔ってしまったと。
 要は船酔いみたいなもんです。(亜空間酔い?)


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