時を越えた邂逅  後編



 シオンと童虎に聞きたい事がある。そう言ってキラキラと目を輝かせながら質問攻めにしてくるガキども――の中身は既に三十路を超えている――を室内から追い出し、気配が完全に遠のくのを待って、はじっとシオンを見上げた。普段は仮面をしていても表情豊かと言えるほど感情を表に出していた人だと記憶していたが、今の彼女からは何の感情も読み取れない。それに若干戸惑いながら、シオンは唯一露になっている口元を見るが、形のいい唇は自然な様子で閉じられているだけだった。先ほどの、世にも恐ろしい声音での呼び出しの件だろうか。なにやらドス黒いものが滲んでいた声を思い出し、シオンと童虎はぶるりと背筋を震わせた。

「シオン」
「は、はい」
「お前、さっき私が何故ここにいるか分からない、と言ったな」
「……はい」

 己の言動を振り返り、確かにそう言ったと頷く。同時に拳骨を食らった事も思い出し、頭をさすった。それを見ていた童虎も何だか再び殴られた箇所が痛み出してきたような気がして、そっと手を当てた。こぶになっている。

「お前達の過去に、私が行方不明になったことはあったか?」

 二人のそんな行動を気持ちよくスルーして、は半ば確信を抱いた疑問を口にした。シオンと童虎は顔を見合わせ、急いで二百年以上前の記憶を漁った。もうほとんど輪郭がぼやけてはいるが、この鮮烈な人がいなくなるなどという大事件――いなくなった事よりもむしろ彼女の周囲の人たちの反応がだ――を、おいそれと忘れるはずが無い。
 しかしどれほど思い出そうとしても彼らの中にその記憶は見つからず――戦闘中に飛び込んでしまった記憶はあったが――驚愕に目を見開いて、少女のひび割れた仮面を見つめた。

「どういうことですか……」
「どうもこうも」

 動揺に震える声に、吐息混じりに落ち着いた声が応える。取り乱す事の無いにつられるようにして、童虎とシオンも気を落ち着かせた。じっとの言葉を待つ二人に、彼らの上に流れた時を感じ取り、苦笑と共に目を伏せる。

「ここは私が未来に行くことが無かった先にある世界、という事だろう。いくつもある可能性の中の一つの未来、多重平行世界の中の一つ」

 お前達の中に記憶がないのがその証拠だ。
 淡々と告げるに、その言葉をしっかりと租借したシオンは少しばかり強張らせていた頬を緩ませた。

「そう、ですね。あなたがこうして未来に来たことがあったならば、私達が経験したような未来は来なかったでしょう」
「シオン!」
「黙っておれ、童虎よ。この二百余年――いえ、ここ十数年に何があったのか、お話します」
「シオンっ!」
「ですから、どうか未来を」

 取り押さえようとする童虎を金縛りで抑え、シオンは膝をついた深々と頭を下げた。土下座といっても過言ではないその姿勢に、童虎は声を無くし、は黙って背と床に散る黄緑色の髪を見つめた。
 シオンが話さずとも、おそらくは、この世界が辿ってきた歴史を知っている。いくつかの相違はあるだろうが、それほど大きなずれは無いのだろう。教皇の間に行くまでの間に見た十二宮には、未だ戦いの爪跡を残していた。満ちる空気もどこかぎこちなく、が知っているものよりも雰囲気は暗い。十中八九、この世界のは、何の手を打つ事も無く最期の時を迎えたのだろう。それが自分が存在する事がイレギュラーだからと、流れのままに任す事を決めたからなのか、自分が死んだ後のことはもう既に関係ないと突き放したからなのか、はたまた、ただ単に面倒だっただけなのかは分からないが。手を打っても機能しなかった、という考えもあるにはあるが、手を打つからにはそんな中途半端な策を使うわけが無いので、は端からその考えは除外した。つらつらと考えながらも、は口を開く。

「私が手を打ったところで、この世界はもう何も変わらんが?」
「承知しております。しかしそれでも、あなたの世界は変えられます」
「次の聖戦まで二百年以上もの年月を経る。変えられると確約できるわけでもない」
っ!」

 あまりにも必死な形相で身を乗り出すシオンに、はふと失笑する。子供の頃の面影を残す目元に手を伸ばし、幼子を宥めるようにそっと撫でた。

「それでもいいと言うのなら、聞くだけ聞いてやろう」

 行動に移すかどうかは別だがな。そう言って悪戯っぽく唇を歪めたに、シオンは目を輝かせた。さっそくと話し出そうとするシオンだったが、の手に遮られる。

「その前に童虎を解放してやれ」
「あ……」

 締め上げる勢いで金縛りをかけていた事を今思い出したのか間の抜けた声を上げ、少しばかり血の気の引いた様子の童虎に慌てて力を解く。あわあわと動揺しながらぐったりと床に手を突く童虎の背を撫でるシオンに、はくつくつとのどを震わせた。






 己の身長の倍以上もある勝利の女神の化身を危うげに構え、ぎゅっと唇を引き結んでいる姿は、幼いながらに彼女が戦女神である事を再確認させられる凛々しさを湛えている。しかしそれ以上に、何としてでも母代たるを取り戻そうとする決意と、うまく力を使えるかどうか、無事に彼女を取り戻せるかどうかといった不安に揺れる瞳に、微笑ましさを覚える。
 フーガはふと笑みを滲ませた。

「準備はよろしいですか、女神?」
「はい、だいじょうぶです!」

 ぎゅっとニケを握り締め、大きく頷く。あまりにも懸命な様子に厳しい表情を緩めたアルバフィカと顔を見合わせ、頷いた。力の入りすぎているサーシャの頭をくしゃりと撫で、見上げてきた大きな瞳に愛嬌のあるウィンクを一つ。フーガのおどけた仕草に余計な緊張も取れたのか、ほっとしたようにはにかんで笑うサーシャの髪をもう一度撫で、手を突き出した。

「いきますよ、女神」
「はいっ」

 射手座の仮面の欠片を握り締め、ニケへと意識を集中させて小宇宙を燃やす。幼いけれど、強大で優しい女神の小宇宙に沿わせるように、フーガも小宇宙を燃やしていく。多くの者が固唾を呑んで見守る中、射手座の行方を探っていた指先が、女神の小宇宙と共に空間を割った。






「へえ」

 シオンが全てを――それでも大分要約しているが――話し終えた後、彼らが敬愛してやまない射手座の少女から出た感想は、気の入らない乾いたものだった。そんな少女の様子に二人は一瞬愕然としたものの、この人はこういう人だというある種の諦観と共に息をついた。予想していた怒りもなくほっとしているやらこの後どう出るか分からないやらで不安な心持ちになり、彼らはを見上げる。

「あの、
「怒らんのですか?」
「何故?」

 おずおずと聞いてくる二人に、はスパンと切って返す。

「お前達はやれるだけのことをしたのだろう。まぁ、取った手段も結果も最悪だがな」

 内乱、反乱、あげくに黄金聖闘士全滅で冥界の崩壊。と指折り並べ立て、少し持ち上げて盛大に落す。思わぬ労いの言葉に目を潤ませていたシオンと童虎は、その後続いたあまりにも痛い言葉に胸を貫かれ、別の意味で涙にくれた。やっぱり怒っているんじゃないかと零す二人に、は満面の笑みを浮かべる。

「ただの事実だろう」
「意地が悪ぅございます……」
「お前らを苛めても楽しくも何とも無いからな。直接詰って欲しいならコキュートスから蟹座を引き上げろ」

 鮮やかな毒舌を披露してくれるだろうよ、きっと。そう言って咽喉を鳴らし笑うに、先代蟹座の情け容赦の無さをまざまざと思い出させられ、二人はぶるりと身を震わせる。彼にこの事態が知られれば、冗談ではなく殺される。絶対だと断言してもいい。あの素晴らしい切れ味を持った毒舌すら出てこずに、冥界への入り口に放り込まれるだろう。比喩ではなく。ここまで混乱を極めた聖域の現状を前に、毒舌で済むのはを始めとした年長組くらいだ。それを承知で怒られたいのならば彼に会えというのだから、本当に意地が悪い。
 二百年以上もの時を経てもなお敵わない事に二人が唸っていると、何かに反応したらしいが空を数秒の間凝視した後、さて、と呟いて立ち上がった。

?」
「どうかなさったのですか?」
「帰る」

 首を傾げる二人に、は端的に告げた。間髪入れず、驚きの声が上がる。

「帰る方法を知っておられたのですか!?」
「いや、だが迎えが来たからな」

 口角を吊り上げ一点を見つめる少女に、シオンと童虎も同じ場所を見る。注意深く探るようにしていると、そこには懐かしい小宇宙が渦を巻いていた。現在の女神とは似て非なる小宇宙と、寛大で温かな双子座の小宇宙。

「行って、しまわれるか」
「私のいるべき場所はここじゃねぇからな」
「せめて、こちらの女神に会っていただきたかったのですが……」

 貴女にとても興味を持っているのだというシオンに、は密かに拒絶の感情と共に目を細めた。城戸沙織と名乗るこの時代の女神に、どうしても好感が持てないのだ。嫌いだと断言するほどに彼女を知っているわけではないが、きっと馬が合うことはあるまい。そんな己の感情を胸に秘め、は肩をすくめた。

「我が女神はサーシャ様のみ。それ以外の存在に膝をつく事はしたくないんでね」

 あの方が泣く前に帰らせてもらうさ。
 跪く二人の間をすり抜け、小宇宙が渦巻く空へと手を伸ばす。言葉も無く、ただ見守るしかないシオンと童虎に視線の中で、少女の細い指に、テーピングが巻かれてなお美しい造詣を持った長い指が絡まり、そこだけ露になった唇が柔らかな弧を描いた。それだけで、二人はその手の持ち主を悟る。世界が違えど、仲睦まじいらしい二人に、シオンと童虎は郷愁にも似た想いに胸を締め付けられ、こみ上げてくる涙をこらえながら、彼女達を見つめた。本当は引き止めたくて仕方が無い人を、網膜に焼き付けるように。
 じっと凝視する二人に、は何かを思い出したかのように振り向いた。

「そうそう」
?」
「何ですか?」

 口元がきゅうっと弧を描く。それに何だか嫌な予感を感じながらも尋ねると同時に、ドンッと物凄いGが二人の身体にのしかかった。みしみしと軋む身体に歯を食いしばってこらえ、飛びそうになる意識をなんとか繋ぎとめる。流石は黄金と感心したが技を終了させると、ぐったりと床に手を突きながらも、二人は怪訝な表情でを見上げた。彼らの言葉を遮るように、は口を開く。

「教育はしっかり、な」
「「は、はい……」」

 背後に見えるドス黒いオーラに、忘れてなかったんですね、と心の中で涙を流しながら素直に首肯する。いい子の返事をしたシオンと童虎に、は満足そうに一つ頷き、それじゃあと手を振った。

「はい、
「どうか、お元気で」

 その言い様がおかしかったのかは声を立てた笑い、もう一度ひらりと手を振って割れた空間へと飛び込んだ。次の瞬間にはもう、空間の歪みも、懐かしい小宇宙もそこには無く、火が消えたようにただただ冷たい空気が広がるばかり。これほどまでにこの場所は冷たい場所だったかと目を見張り、どこよりも優しさとぬくもりに満ち溢れていた、古の時代へと思いを馳せた。今はもう遠い、あの日々を。






 するりと、しなやかな姿が空間の狭間から現れる。口元が欠け、縦横無尽にひびが入った仮面に一瞬ぎょっとするも、彼女自身には怪我も小宇宙の乱れも無く、深い安堵の溜息とともに、アルバフィカは彼女を抱きしめた。やっと腕の中へと取り戻せた温もりに、ほわりと、冷えた心と身体に温度が戻ってくる。

「無事でよかった……」
「ん、心配かけたな」

 抱きしめるというよりも縋りつくと言った方が正しいような抱擁に苦笑しながらも、は大分と広くなった背中を優しく叩いた。そのままそっと放すように促すと、一度きつく彼女を抱きしめ、濡羽色の髪に頬を摺り寄せてから腕を放す。しかし離れがたいのか、手が触れ合う距離で寄り添う。普段よりも冷たい指先に一度視線を落してから、は今にも走り寄りたくてうずうずしている小さな女神に深々と頭を下げた。

「貴女の小宇宙を感じました。助けてくださり、ありがとうございます、女神」
「い、いいえ、ぶじでなにより、です。……」

 女神の臣下としての、距離を感じさせるが故に嫌いでならない言葉遣いに、サーシャは一瞬泣きそうになる。けれど、常日頃から形式は大事だと教え込まれていたことを思い出し、ぎゅっとニケの杖を握り締め応えた。実の親と子以上に慕い愛されている関係であっても、サーシャは女神で彼女達は聖闘士。公私の区別はつけねばならない。それがこの聖域で生きていくために必要なルールなのだ。
 幼い子供としての甘えたい思いを抑えて女神として振舞おうと頑張るサーシャの姿に、痛ましさと誇らしさを感じながら、は柔らかな笑みを浮かべた。仮面を外して膝を突き、手を差し伸べる。

「ただいまサーシャ。おいで」
「っ……おかえりなさい!」

 手の中のニケを放り出し、細くも力強い、絶対の庇護者の腕の中へと飛び込む。少しばかり汚れた服を小さな手で握り締め、肩口に頬を摺り寄せて、母代わりの女性を見上げた。硬質な紫紺の瞳は柔らかな焔へと変わりサーシャを温かく見下ろしており、じんわりと目の奥が熱くなった。鼻の奥がつんとして、目の前が歪む。の顔をもっとちゃんと見たいのに、溢れ出した涙は止まってはくれず、嗚咽を漏らした。

「お、おかあさ……ぉか、さ……!」
「サーシャも心配かけてごめんな」
「んーん! ぶじでよかったよぅ……」

 ぼろぼろと大粒の涙が流れるまろい頬を拭ってやると、サーシャはその手を掴み、猫の仔のようにぐりぐりと頬を摺り寄せ、両手でぎゅうっとの首に抱きついた。は首元がじわりと濡れていく感覚に苦笑を浮かべながら、幼子を抱き上げる。
 そうして微笑ましく二人を見守る多くの視線の中、ざっと周囲を見回し、見つけた焦げ茶と黄緑の頭に、ニィッと口角を吊り上げる。の様子を窺いながらもそろそろと逃げ出そうと行動に出ていた二人は、目だけが笑っていないその笑みを認めた瞬間、ピキリと音を立てて固まった。最年少二人組を確保しようと構え、気付かれぬように立ち位置を変えていた双子座と、反射的に人差し指を立てていた蟹座は、視線一つで彼らの動きを止めた彼女に、お見事、と肩の力を抜く。

――覚えてろよ、ガキども。

 サーシャを泣かした罪は重い、とドスのきいた声が童虎とシオンの脳裏に響く。そのあまりの恐ろしさに二人はガタガタと震えながら、ひしっと抱き合い、声なき悲鳴を上げた。





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 桧佐様、リクエストありがとうございました。たいへん長らくお待たせいたしましたが、これにて、完結でございます。
 完全にリクエストを消化できたかどうかが多少不安ではありますが、いかがでしたでしょうか。
 今書いている連載とは時間軸が飛んでいるので、分かりづらい箇所がちらほら出てきているような……。んとですね、とりあえず「さんはサーシャの母親代わり」と「シオンと童虎との年齢差は8歳」というのを頭に入れていただければ大丈夫だと思います、はい。
 拙い作品ではございますが、受け取っていただければ幸いです。

 最近とみに更新ペースが落ちております亀サイトでございますが、気長にお付き合いいただけると嬉しいです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


 秋月しじま