君の声に応えるためならば僕は、



 呼んでいる。
 耳に掠めた何かに、直感がそう囁く。
 強引な引力に引かれて、は顔を上げた。
 どこだ、どこから聞こえる。
 意識と心をかき回す声の出所を、視線を彷徨わせ耳を澄まして求めた。けれども聞こえてくるのは時計が秒針を刻む規則正しい音と、自分が今組み敷いている相手の喘ぎ声に荒くなった吐息だけだ。
 またか。
 情事に対する快楽や高揚感も忘れ、全身を落胆に染めてため息を吐いた。

……?」
「……何でもねぇ」

 快感で頬を染め、瞳を潤ませている相手に怪訝な顔で名を呼ばれ、意識を現実へと戻したはにこやかな笑みと共に無言の問いかけを否定する。
 そしてまだ何か言いたそうな相手の唇をキスでふさぎ、内に挿入していた自身を深く突き刺した。唇の下で、甘い嬌声がくぐもる。
 止めていた愛撫を再開し、情け容赦なく責め立てて、快楽の世界に没頭した。
 それでも、耳の奥で声はこだまする。




 その声は物心ついたときから、を呼んでいた。何を言っているのか、何を伝えたいのか、幼い頃は全く分からなかったが、不思議と恐怖は感じなかった。
 時折、無性に泣きたいような、帰りたいような気分に駆られるだけで。その声の意味するところは成長すると共にだんだんと理解できるようになり、今のはそれを完全と言わないまでもわかるようになっていた。
 呼んでいるのだ。彼の名を。
 呼んでいるのだ。帰って来いと。
 ここはのいる場所ではないと。
 時に泣きそうな声で。
 時に笑い声と共に。
 時に、最愛の伴侶を呼ばう甘さで。
 その声は彼が子供の頃から持っていたどうしようもない虚無感を埋め、常にその意識を惹きつけていた。
 声に呼ばれると、何もかもどうでもよくなる。ただそれだけに、身を任せてしまいたくなる。よく心ここにあらずな状態に陥るを周囲の人たちは心配してくれたが、彼自身にはありがた迷惑なだけだった。
 風が留まるところを知らぬように、何者にもたいした執着を示さないが、唯一全神経でもって追い続ける声。はそれが欲しくて欲しくてたまらなかった。

「……呼んでるのはお前か?」

 荒れ狂う、嵐の前のような海を眼下に臨み、は呟く。
 風がびょうと吹いての髪や衣服を乱暴に翻すが、その強さをものともせずに、一歩踏み出せば真っ逆様な崖の上に立ち尽くす。靴の下では砂がこすれあってジャリジャリと音を立てる。その遥か下で満ち引きを繰り返し、崖上のを攫おうとするかのような勢いで岩を削る波は、彼の耳にはその言葉を肯定しているかのように聞こえた。
 帰ってきて、と懇願するかのように訴えかけてくる声が、耳の奥で大きく響く。
 今まで聞いたどの声よりもはっきりとしたそれに、は至福の笑みを浮かべた。

「ああ、今帰るよ。お前のところに」

 ここはいるべき場所ではないのだから。そうだろう。
 誰にでもなく問いかけ、崖の淵に向かって足を踏み出す。日本人にしては背の高い青年の身体はあっけなく宙へと放り出され、白い波の牙の間へと消える。
 高いしぶきを上げ、空気が作り出す泡をやけにクリアな視界で見ながら、の身体は海流に巻き込まれ、深い深い海の底へと沈んでいく。まるで、何かに引っ張られるように。
 海水に全身を侵されながらも、窒息の苦しみも水圧の重苦しさも感じず、は歓喜と悲鳴の入り混じった声ににこりと笑った。

「帰るよ、すぐに帰る」

 お前の所に。あるべき世界に。
 だんだんと遠のき、かすれていく意識。その先にあるのはしだというのに恐怖などは全く感じず、を支配するのは喜びのみ。
 深く深くなっていくブルー。その中に青銀の長い髪が揺らぎ、白くたおやかな腕が沈み行くへと伸ばされる。
 は満面の笑みで彼女の腕を取り、喜びと悲しみが入り混じった瑠璃色の瞳から次々とこぼれ落ちる真珠をそっと拭った。溢れんばかりの愛情の篭った眼差しで彼女を見つめ、は囁く。

――ただいま、俺の<   >。

 海の中、美しいかんばせに、大輪の花が開いた。


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