青い世界で手に入れたものは、



 唐突に意識が切り替わる。
 まるでテレビのチャンネルを変えるように、ぼんやりと靄のかかった状態から、恐ろしいほどクリアなそれへと。長い夢から覚めたような感覚に、は何度も瞬き、ゆっくりと思考を回していった。
 目転がったままひたすらに青い天井を視界に収めながら、こうなった直前のことを思い出そうとした。けれど、が彼自身としての意識を取り戻すのと同時に、それ以前の記憶は逆に霞がかり、彼方へと遠のいていく。それでも何とか掴んだ断片を繋ぎ合わせ、としてはかなりの時間をかけて、ようやっと現状を把握した。
 海に呑み込まれて、死んで、転生して、戻るべき場所に戻ってきた。
 手足が短く、いや、体全体が小さくなっている――記憶によると今現在は五歳だ――のは、つまりはそういう事である。何故記憶があるのかは、多分それが必要だったからだ。そのかわり、五歳以前の記憶がひどく曖昧になってしまっているが、それは代償だ、仕方がない。
 無くて困るわけでもないし。既に己と言うものが確立し、自分が何者であるかを把握しているのだから。
 石畳の上から起き上がり、は周囲をぐるりと見回す。淡いブルーから濃いブルー、ただひたすらにグラデーションのかかった青に包まれた世界。白い石造りの神殿に、濃密な水の気配、天上からたゆたいながらも降り注ぐ淡い光。何から何まで、愛しく懐かしい、命の息吹が満ちるこの世界は紛れもなく。

「海界」

 小さく口にした言葉が、妙にその場所に響いた。子供特有の高い声。しかしそれには全くそぐわない落ち着いた言葉の響きに、周囲を漂っていた水の気配が嬉しげに揺らめき、きらりと小さな虹を作った。控え目に歓迎の意を示す水の精霊に、は嬉しげに口元を緩める。

「ああ、ただいま、我が愛しき眷属たち」

 虹を指先で撫でての言葉に、彼を取り巻く全ての精霊達が笑いさざめく。はもう一度彼女達に笑みを浮かべ、けたたましい足音と共に現れた数人の男女へと視線を移し、慈愛と威厳に満ち溢れた、どこまでも優しい表情を浮かべた。
 外見に見合わぬその深さに、彼の存在を感じ取り駆けつけてきた者達はその魂が何者であるかを確信する。

「我らが愛しき子供達――海の民は皆息災か?」
「御意にございます……!」

 高い声がつむぐ深い慈愛の言葉に、感激のあまり声を震わせながらも、最年長であろう男は代表して言葉を返し、跪いて深々と頭を下げる。中には泣き出すものすらいて、は困ったように笑い、彼らへと近寄った。

「今帰った。長きに渡る不在、我が伴侶の分も重ねて詫びよう。それと、これからまた苦労をかけるやも知れぬが、許せ」
「いいえ、いいえ……っ。もったいなきお言葉にございます。これも我らが望んでの勤め、仕えるべき方に仕える事のできる幸せが、どうして苦労と言えましょう。この老い先短い老骨、貴方様にお目通り願えただけで望外の幸せだと申しますのに……! どうぞ、我ら海の民をお導き下さりますよう、平にお願い申し上げます」

 の短い影の先で、男――老人が深々と頭を下げる。彼に続いて頭を垂れる神官たちに、はそっと頷いた。

「もちろん、この生の続く限り。約束しよう。……で、言ってくれねーの?」

 お帰りって。悪戯っぽく、砕けた口調で問うに、数度瞬いた老神官は頭を上げ、皺の刻まれたその顔に、ゆうるりと笑みを浮かべた。

「よく、お戻りになられました、大神官シルフ様。我ら海の民を代表し、貴方様のご帰還をお喜び申し上げます」

 再び下げられる頭。久しく呼ばれなかったその懐かしい呼称に頬を緩め、は愛しげに目を細めた。

「ああ、ただいま」

 愛しい、愛しい、俺の世界。我が海、我が民、我が眷属よ。帰還するこの時を、どれほど長い間待っていたことか。
 ほぅと、万感の想いと共に息をつき、青い蒼い世界を見上げる。いとおしい伴侶を思わせる、愛しい色、愛しい気配。ああ、もうすぐで会える。
 歓喜に震える心を胸の中にしまいこみ、そのときを思いながら、は伏せた神官たちを促し、海皇神殿へと向かう。
 として初めて満たされた思いを感じて、最愛の伴侶たる彼女を、ウンディーネの魂を持つものを、その腕に抱く幸せに、想いを馳せた。

――お帰りなさい、我らが王よ。全ての大気を統べしお方。おかえりなさい。

 幸福と、歓喜と、全てに満ち足りた精霊がくるくると舞い踊りながら、歌い言祝ぐ。



 その日、海の神の片腕にして、すべての大気の王が、海界に帰還した。




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 今回のではっきりしましたが、というかシリーズタイトルから分かるとおり、「わだつみの詩」は海界中心の話です。(“詩”は“うた”とお読みください)
 アットホームなほのぼの中心、っつーかぶっちゃけカノンをでろでろに溺愛したいが為の話だったり。
 そんな訳で、ここではただただカノンに優しい話にしたいと思っています。のわりに本編軸のプロットではちょっと可哀想な事になっとりますが。

 えー、主人公はまたまた転生しております。表の女主と違うのは、記憶の保持の辺りですかね。
 彼は五歳で以前の己を取り戻しましたが、対価としてそれ以前の記憶を無くしております。でも海界での立場とかも思い出してるから、結果としてはプラス?
 しかしその無くした部分で、ちょっとした裏設定が有ったり無かったり。その辺はおいおい出していきたいですね。

 そしてシルフ。これは言わずと知れた風の精霊の名前です。これが出てきたのは確か16世紀のパラケラススが提唱したからなんですが、気にしない方向で。
 ここでは全ての大気を統べる王としています。ウンディーネも同じく、水の長です。
 精霊は本来神よりも位が低い存在なのですが、ここでは原初神カオスに仕える元素たちですので、実は上から数えた方が早い位置にいます。ぶっちゃけどの神よりも上位の存在。
 そんな彼らがポセイドンに付き従っているのは、暇つぶしみたいなもんです。ちょーっと気性の荒いポセイドンの抑止力、というのもありますけど、そんなもん彼らが本気になれば指一本でどうにかできるくらい強力ですし。

 ちなみにデフォ名が表の双子座と被っているのは、単にカノン相手はこの名前と決めているからと言うだけです。繋がりはない、はず。