魔性が微笑む
此処で良いのかな。
まだ慣れない学園内の、一つの重厚な蔵の前で、兵助は小さく首を傾げた。担任の木下鉄丸先生に教えられた通りに来てはみたものの、そこには誰も居らず確信がもてなかったのだ。逆に、少しばかり不安になった。もしかして違う方向へ来てしまったのではないだろうかと。
今日は初めての委員会の日だった。他の委員会は早々に決まったものの、火薬委員会だけはあまりにも地味だという事で嫌がる同級生も多く、決まらなかったために先生に頼まれて入ったのだ。兵助はあまりそういう事を気にしない性質だったから、問題も不満も無かった。むしろ、火薬なんて大切なものに――この時兵助は火薬が高価な代物だとも危険なものだとも認識していなかったが、委員会で管理されているという事からそう導き出していた―― 一年生が関わっても良いのだろうかと首を傾げたほどだ。
じっと、兵助は蔵を見つめる。本当に此処で良いのだろうか。
「そこの一年」
思わず眉間に皺を寄せた時、背後から凛とした声がかり、思わずびくりと背を震わせる。
「は、はい!」
慌てて返事して振り返る。群青色の制服。二年生だ。整った顔立ちに、高く結い上げられた艶やかな黒髪。涼しげな目元がやけに大人っぽく見えるその人は、兵助と背後の蔵を交互に見て、一つ頷いた。
「火薬委員の新入生か?」
「あ、はい。一年い組の久々知兵助です」
「二年ろ組の。俺も火薬委員だ」
「よろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げる兵助に、その人――はこくりと一つ頷き、こっちだと兵助の手を取り歩き出した。兵助は取られた手と離れていく蔵に目を丸くして、自分を引っ張って歩くを見上げた。
「あの、先輩」
「何だ」
「蔵から離れていってますが……」
「ああ。今日は焔硝蔵――あの蔵、火薬庫の事だ。あそこでの作業はないからな。今日は顔合わせだけだ」
「……先輩、あの、もしかして、迎えに来てくださったのですか?」
「そうなるな」
「ありがとうございます」
あまりにも素直に口に出された礼に、の足がピタリと止まり、手を引く兵助を振り返る。浮かべられた満面の笑みをじっと見つめ、数度瞬いたは、ふぅっと独特な笑みを浮かべた。一言で言うととても艶やかなのだ。魔性、と言ってもいい。だがそんな言葉を知らない兵助は、笑みを浮かべただけで急に鮮烈になったその存在と彼の纏う空気に、ひどくドキドキして顔を真っ赤に染めた。
「どういたしまして。行くぞ」
「は、はい!」
再び手を引いて歩き始めたの手を、兵助はきゅうっとする胸に促されるように、強く握った。
火薬委員会の新学期の顔合わせの日、新しく入ってくる一年生が蔵の方に行ったと聞かされたは、顔合わせの為に集まった先輩方の顔を一度見て、腰を上げた。誰が迎えに行っても良いのだろうが、こういうのは一番下っ端の役割だろう。
委員長の六年生は「お前が行ってくれるのか、頼むな」と笑みを浮かべて送り出し、五年生は我関せずで委員長の背中に凭れて居眠り。唯一三年の先輩はついて行こうかと言ってくれたものの、小さな子供ではないのだからと断った。一学年差の先輩後輩の間柄はあまり良くないのがこの学園の常ではあるが、火薬委員会ではそれほど仲が悪い、と言う事は無かった。というか、委員長に凭れて眠っている五年生がいる時点で仲が良いと言ってもいいくらいだろう。
そうして迎えにいった先にいたのは、蔵を前にして首を傾げる小さな井桁模様の背中。一年生の中でも少しばかり小柄なのではないだろうか。声をかければ、背後にいるに気付いていなかったらしく、背を震わせて振り向いた。
毎年火薬委員会に入ってくる一年生は少なく、今年は一人だけ。多分この子なのだろうと確かめてみるとそうらしく、簡単に挨拶をして先輩たちが待っている部屋へ向かうために一年生の手を引いた。その時には全く興味など無かったのだ。手を引いたのも、は同学年の中でも長身で一年生は小柄だったから、歩幅を合わせる為だ。
まさか迎えに行っただけで礼を言われるとは思わなかった。その時初めて、この小さな一年生を正面から見たのだ。大きな目に、長い睫毛、白い肌、ふわふわとした黒髪。とても可愛らしい、女の子のような容姿をしていると、その時初めて知った。そんな子供がにこにこと笑ってを見上げているのだ。可愛らしい事この上なかった。
無駄にプライドのある二年生は一つ違いの一年生に張り合おうとするし、一年生はそうやって意地の悪い事をする二年生に敵愾心を剥き出しにする。そして一部で意地の張り合いのようなものが起こると、他にも風邪のように伝染していくのだ。そして、二年と一年の間では既に火花を散らしている奴らがいたために、あまり仲良くなれないだろう。仲良くなれないならそれでも良いかと思ったのだ。仕事に支障が出ないのならば、それで。特に親しくなりたいと言う情も興味も無かった。
が、この子は可愛らしい。思わず笑みを浮かべると、何故か顔を真っ赤にされてしまったが、出だしは上々なのではなかろうか。
「ちゃん機嫌が良いね」
「……ぼそぼそ」
「『何か良いことでもあったのか?』だそうだ。確かに機嫌が良さそうだな、」
「まぁな」
にこにこと、以上に機嫌の良さそうな小平太や不思議そうに首を傾げる長次、同時通訳をした後に、同じく首を傾げた仙蔵に、は小さく唇を歪ませて頷いた。箸の先で器用に魚を捌き、口に運ぶ仕草も、どこかふわふわとしているように見える。
やはり機嫌がいつも以上にいい。
「そういえばお前、確か今日委員会の新入生との顔合わせだったよな。どうだった?」
「どうって?」
「生意気だったとか、楯突いてきたとか、クソ生意気だったとか」
「最初と最後は同じだぞ」
「生意気度合いは最後のほうが高い」
「そうか」
ずずっと味噌汁を啜る。おばちゃんの味噌汁はやっぱり美味い。
「で?」
「ん?」
「一年だ、一年」
「ああ」
玉子焼きを口の中に放り込む。出汁巻卵で、出汁がよくきいていた。
文次郎の話は話半分に聞いていたが、これ以上話を伸ばしたり誤魔化したりすると切れてクナイでも取り出しそうである。くるりと、視線だけで食堂を一撫でし、井桁模様の二人組みを見つけた。片方は、今日委員会で顔をあわせたあの可愛らしい子供だ。
「あれ」
ぴっと箸でさし、漬物を口に放り込む。ぽりぽりと歯ごたえの良い漬物の触感を楽しんでいると、どっちーと聞かれたので髪がふわふわしてる方とだけ答えた。全員の視線が一年坊主に集中している間に、食事を終え、お茶を啜った。
「あ、先輩」
提出期限が近い宿題の処理法をぼんやりと考えていると、ふわふわとした髪を揺らして兵助が嬉しそうに近づいてくる。手に持った湯飲みを置き、呼ばれたほうに顔を向けた。
「ちゃんが興味を持ってる……」
「……こんな一年に、何故だ」
小平太が丸い目をさらに丸くして、ぶつぶつと仙蔵が呟くがは全てを無視して一年生を見下ろした。
「どうした、兵助」
「いえ、用は無いんですけど、先輩を見つけたので」
本当に嬉しそうな顔で笑う。二度三度と瞬いて、ふうっと笑みを浮かべた。と同時に、兵助の顔が真っ赤になり周囲の空気が音を立てて凍った。可愛らしい顔をした兵助の頭を撫で、友人の元へ戻る姿を見送った後、凝視してくる友人たちを見返す。
「何だ」
「バカタレィッ! 何だはこっちの台詞だ!」
「何だ今のは、何だあの顔は!?」
「あー……ちゃん、あの顔は駄目。絶対駄目。帰ったら笑い方練習しよう。でなきゃちゃんの身が危険」
「……ぼそぼそ」
「『色気がだだもれ』……? ふむ」
そんなつもりはなかったんだが。
顔を真っ赤にして詰め寄ってくる四人に、は指先で頬を撫で首を傾げた。
久々知はこの時に艶主に落ちました。所謂一目惚れ。もしかしたら初恋。でもこの時点では久々知は自覚してませんが。そんでもって仙蔵も兵助に向けられた色気の漂う笑みに落ちています。
ちなみに艶主の顔は、現代で生きていたときのものとは異なります。顔も名前も生まれ変わって変化しました。だから自分の表情がどう見えるかをイマイチ把握してないのです。そしてこの時を境に対下級生仕様の表情が生まれたり。(小平太たちと練習した結果)
written by 2010,04,11
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