狂った級友と忠犬




 生暖かい液体を頬に受けて、は不快感を覚え眉間に皺を寄せた。けれど何も言わずに指で拭い、むざむざとそれを浴びてしまった己に溜息を吐く。今日は月も猫の爪で引っかいたような細いものでしかなく、暗がりで色は見えはしないが、それが何かはよく知っていた。血だ。
 鼻などもう周囲に立ち込める血の臭いで馬鹿になっているからききはしない。けれども目の前の事切れた骸が、まだ息をしていた時に、他ならぬ自身がその頚動脈から噴出させたものなのだから、間違うはずもない。
 赤く染まった親指を死んだ男の服にこすり付けて拭い、無機物でも見るかのような温度のない視線で男の顔を見た。
 血の気を失い、土気色をした顔色。その瞳は大きく見開かれており、目の白い部分は血走っていた。その目には先ほどまで己が映っていたのだったか。いや、誰も映ってなどいなかっただろう。これはもう何も認識できないほどに狂っていたのだから。

ちゃん」
「小平太か」

 夜の鍛錬中だったのか、軽い身のこなしで木の上から降りてきた小平太をちらりとみやる。小平太はの前に横たわる死体を見やり、くんと鼻を動かして顔をこわばらせた。はて、これは小平太と仲が良かっただろうか、とその顔を見ては考える。けれど小平太の言葉を聞いて、すぐにその考えを放棄した。

ちゃん、怪我したの?」
「いや、全部返り血だ」
「なんだ、良かった! 珍しいね、ちゃんが返り血なんて」
「……それだけか」
「それだけって……ああ! ちゃんがそいつを殺した事なら別になんとも。そいつはもうそろそろダメだと分かっていたし、たとえ学園から出したとしても行く先もないだろうからちゃんに引導渡してもらえて良かったんじゃないかな」

 何ともあっけらかんと言ってくれる。学園にいる間共に過ごした級友をためらいなく殺したに対して、笑顔すら見せて良かったと言い放った小平太に、は肩の力を抜いて苦笑を浮かべた。

「仮にも級友だろうに」
「そうだけどさ、もう狂ってたし、回復の見込みもなかったから。それにそいつ戦災孤児で面倒見てくれる人もいないんだろう?」
「先生がそう仰ってたな」
ちゃんは後悔してる?」
「いや。興味ない」
「やっぱり。名前も覚えてなかったもんね。でもそいつは本望だったんじゃないかな」
「そうか」
「理由も聞かないんだ」
「興味がないと言っただろう」
ちゃんらしいね。でも一応言っとこうかな。そいつはね、ちゃんが好きだったんだよ」
「ふーん」

 明らかに興味がないことが分かる気のない返事に、もう一度、ちゃんらしいねと言って、小平太は級友だった死体を引きずり上げた。くいと片眉を上げるに、にこりと笑いかける。

「これは私が持って行くよ。先生から回収してくるように言われたんだろう?」
「ああ。頼む」
「うん、任せて! いけいけどんどーんっ!」

 頼むと言った次の瞬間には木の上に上り素早く駆け出したに続き、小平太も死体を担いで走り出す。だんだんと温度を無くして行く級友だった者に対し、運が良かったのか悪かったのかと胸中で呟いた。この級友はが好きだった。けれども他人に興味と情を同時に抱くことが稀なは、彼を視界に入れることすらなかったから、それを嘆き、時には彼の近くにある小平太や長次、伊作達に八つ当たりをする事すらあった。だから、小平太がに級友を殺した事に対して、別に何とも思わなかったと言ったのはほんの少し嘘だ。情に素直な奴だったから殺人行為に耐え切れず狂ってしまった級友。治る見込みもないほど徹底的に壊れてしまった彼に手を下すというのなら、自分にやらせて欲しかったと思う。狂人一人殺すくらい、小平太にもたやすく出来た。心のままにを求めて、珍しくもが心を開いた周囲の人間を蹴散らそうとする男は不快以外の何者でもなかったから、小平太にだって殺せたのだ。けれど自分がやると言い出す前に、忍務はの手に渡ってしまった。もう少し早く「もし殺るなら自分が」と先生に言い出していたのなら、の手を煩わせる事はなかったのに。暗殺対象だとしても、の目にこの男を映す事もなかったというのに。

「今度から気をつけよう。……あ、長次に相談しようかな」

 長次だってが好きでこの男が嫌いだったから、同じように思ってくれるだろう。小平太はにっこりと笑い、更に遠くなってしまったの背中を追うために速度を上げた。

-------------------------------------------------------------------------

 殺人に耐え切れず発狂した級友を処分するように言われて、眉一つ動かさず忍務遂行したと、そのを追いかけてきて、死体をの代わりに運ぶ小平太。時間軸的には五年か六年で、既に忍として完成されてきている二人。
 小平太は主人公が好きですが、崇拝に近い友愛。ご主人様に対する忠犬なイメージ。というかこの設定では主人公は正しく、小平太の主ですが。小平太なら笑顔で怖い事をさらっと言ってくれるしやってくれると信じています。(私は小平太を何だと思っているのか)