スタートライン





 小さな子供の影が、ちらほらと眼下に現れる。門の外で行われている受付を終えた子供たちは、ある者は親に見送られ、ある者は一人で門をくぐって学園の敷地内へと入ってくる。その顔はこれからの学園生活への期待と、親と離れて暮らしていく不安に彩られ、どこか頼りなさげに見えた。それがとても微笑ましく、可愛らしい。自然と、彼等を見下ろすの顔は優しく和んだ。

「ちまっこいな」
「こんな所から見下ろしていれば、立派な大人でも小さく見えますよ」
「解っているくせに、まぜっかえすな」
「そんな顔をして子供たちを見ている貴方が悪いんです」

 声と表情で拗ねた様を解りやすく表しながら、兵助はつんとそっぽを向く。はその可愛らしいしぐさにくつりと咽喉を鳴らし、新入生に向けていた視線を恋人へと向ける。意地の悪そうな笑みを浮かべ、からかいと甘さを半分ずつ視線に乗せて、成長しながらも細いままの肩を抱き寄せた。

「嫉妬か?」
「嫉妬です」

 構ってもらいたかっただけなのか、素直に身を任せた兵助の頬に、は口付ける。兵助は満足そうに吐息を漏らし、に劣らぬ優しい視線で子供たちを見下ろした。

「あの中の何人かが、私たちの教え子になるんですね」
「ああ。不安か?」
「いいえ、と言うと嘘になりますが……。でもそんなに不安でもないんですよ、貴方がいますから」
「任せろ。六はの連中以上でなければ、九割がた何とかできる自信はある」
「流石にあの子たち以上は早々いないと思いますが」
「まぁな。でも、同じくらい楽しくなりそうな予感がする」
「……勘ですか」
「勘だ」

 それはほぼ十割の確率で決定事項である。兵助はそれを過去の経験から、嫌と言うほどわかっていた。陰陽師であり優れた忍でもあるの勘というものを甘く見ると大火傷をするのである。これからの六年間は波乱万丈になりそうだった。それは今年六年生に進級したあのは組を見れば、一目瞭然である。あの子供たちは一年生の頃からやれ村の防衛戦だ、海賊だと、望む望まざるに関わらずそれはもう色々と巻き込まれていたのだ。あれと同じような現象が起きるのならば、覚悟をしておいた方がいいだろう。
 土井が知れば胃を壊して吐血しそうな未来ではあったが、兵助はそれほど危機感を感じていなかった。先ほど口にしたように、隣にがいる。それだけでどんなことでも出来る気がするし、何よりも兵助自身、は組の子供たちに散々付き合った所為で免疫が出来ているということもある。は組の子供たちと深く関わりあう事になった二年間と、実習生としての半年間で、兵助の神経はそれはもう図太く成長していた。というか、そうでなければに恋をしてさらにそれを成就させる事などできはしない。
 寄り添う温もりが何よりも嬉しくて、兵助は小さく口元に笑みを浮かべた。

「……ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……」

 思わず漏れてしまった、とでも言うような声に反応すると、らしくもなく曖昧な言葉が返ってくる。兵助はそれに首を傾げて、の視線を辿って再び地上へと目を向けた。
 屋根の上から見下ろしているからか、小さな人影。その中でもさらに小さな新入生の影へと、の視線はむいているように思う。目を細め、何かを探るように鋭い視線で注意を凝らすと、その影の中にどこかで見たような顔があった。とても幼いけれど、どこかで知っているようなその、顔。
 ひくりと、兵助の頬が引き攣った。

「……立花、仙蔵」

 それはの同級生であり、兵助の先輩でもあった男の名前だ。が兵助とくっつくまでは閨の相手をしていた男の一人でもある。そして、本人は無意識だったのか意識して自覚しないようにしていたのか、に対して無自覚の恋心を抱いていた兵助の恋敵。彼に、とてもよく似た面影を持つ子供が、そこにはいた。

「やっぱり似ているか」
「……立花先輩の血縁者でしょうか」
「さて、身内に同じ顔を持つ子供がいると聞いた事はないし、学園に入学すると言う話も聞いていないが」
「まだ、交流があるんですか」
「情報収集は忍の基本だ」

 低くなった声に、飄々とした言葉が返る。それにいささか苛立ちつつも、案外は一途で、仙蔵ととの関係は兵助と恋人になったことで完全に切れたことはよく知っていたし、彼の言う事はもっともであったので、一度大きく深呼吸をする事でその苛立ちを退けた。今寄り添っている温もりは兵助のものなのだ。焦る必要はない。
 それでも、久しく覚えたその焦燥に、兵助は噛み付くように口付けて荒々しく口内を探り、絡ませた舌を甘噛みした。真正面からぶつけられる癇癪のようなそれに、は最初こそ驚きに目を見開いていたものの、兵助が体勢を崩さないように支えながらも好きなようにさせていた。普段と比べると色気というものが大分と欠けてはいたが、じわりと己の中の熱が煽られる。しかしそれをは意識的に無視して、唇を離し濡れた瞳で上目遣いに見上げてくる兵助のふてくされたような顔にふと笑みを浮かべた。途端に漂う色気に、兵助の白い頬に朱が散る。

「やきもち」
「……悪いですか」
「いや」

 くつりと喉の奥を震わせて、は兵助の赤く染まった眦に口付ける。兵助はの背に着物を指先に握りこみ、心地よい敗北感にうっとりと目を瞑った。

「あー! 先輩たちがラブラブしてるー!」

 ここ一年で聞きなれた声変わりを終えた声に、兵助ははっと目を見開き反射的に心地のいい腕の中から逃れようとする。けれども見た目以上にがっちりと兵助の身体を確保しているの腕は外れず、隙間がほんの少し出来た程度だった。腕の中で頬を染めてあわあわとしている兵助を逃さないようにしながら、は動揺の欠片も見せずに屋根の上へと上がってきた六年生に進級したばかりのは組の子供たちに視線を向ける。

「何か文句でもあるか?」
「ありませんけどー」
「せめて人目を気にしていただけませんか」

 眉を八の字にしながら困ったように首を振る喜三太に、伊助が呆れを隠しもせず、けれども幼少の頃から慕う人たちの仲睦まじい様子にほんのりと頬を染めながらも抗議を口にする。

「お前たちが来るまでは人目なんぞなかっただろうが」
「んな事言って、俺たちがこっちに来るの気付いてたんでしょうが」
「久々知先輩は気付いてなかったみたいですけどね」

 しんべヱをひっぱり上げていたきり丸と乱太郎が苦笑を浮かべる。それに同意するように、他の子供たちもこくこくと頷いた。

「否定はせん」
「「やっぱり」」
「……先輩、そろそろ久々知先輩を離してさしあげたらどうでしょうか」

 団蔵と虎若がしたり顔で頷き、顔を真っ赤にして今にも湯気を出しそうな兵助に、同じくらい恥しそうに頬を染めながらも金吾が遠慮がちに促す。はその声に腕の中の恋人を見下ろして、羞恥に潤む目元に一度唇を落としてから、しっかりとその存在を確保していた腕を離した。兵助はそろそろと腕の中から逃れ、それでも傍を離れる気はないのかの隣に腰を下ろす。思わず目元を和ませるに、兵助は赤味の引かない頬に手を触れながらも、軽くにらみつけた。

「何ですか」
「いや」

 これだけのやりとりでも甘い雰囲気が漂う二人に、為す術もなしとばかりに兵太夫は肩をすくめ、三治郎はいつものにこにことした笑みに苦さを加える。それでも三治郎はの隣、兵助の反対側に自然な動作で座り込み、伊助ときり丸が小さく「あ」と若干悔しそうな想いを滲ませた声を零した。
 それに、団蔵と虎若が少しばかり複雑そうな表情を浮かべながら、ちらりと互いの顔を見合わせて深々と溜息をついた。が相手では文句など言えるわけもなく、また敵うわけもない事は解りきっている。それはもう昔から。お互いを慰めあう二人を尻目に、それよりも、と一人冷静に彼等のやり取りを無視してじっと下を見ていた庄左ヱ門は切り出した。

「先輩、先ほど何かに気付いていたようですが」
「お約束だから言うけど」
「庄ちゃんってば」
「相変わらず」
「冷静ね〜」

 十人の声が揃う。
 それも何時もの事と庄左ヱ門やは流して、少しばかり先ほどの事を思い出したのか、兵助は大きな瞳に面白く無さそうな光を浮かべた。

「ああ、あれだ」

 再び下に視線を向けて、先ほど見つけた仙蔵に似た子供を指差す。あっ、と一番に高い声を上げたのはやはりと言うか兵太夫で、それに一瞬遅れて他の子供たちもどよめく。伊助は、だから兵助の機嫌が少しばかり悪かったのか、と納得した。幼い頃は仙蔵と兵助の間柄がぎこちないものだという事は気付いていたが、その理由を知ったのは虎若と恋仲になってからだ。同時にが散々に性質が悪いと言われていた理由を知って、慕っていた相手の事だけに複雑な気分になったものだった。
 仙蔵に似た子供に、彼を慕っていたしんべヱは目をキラキラと輝かせる。

「うわぁ、立花先輩にそっくり!」
「本当に。いいな、あの子。是非作法に欲しい」
「兵ちゃんたら、あの子が入ってきたらめいっぱい遊ぶつもりでしょ」
「嫌だな三ちゃん、可愛がってあげるだけだよ。先輩が私たちにしてくれたみたいにさ。先輩、あの子が先輩の組の子になったらうちに下さいよ」
「なったらな」
「いいんですか、勝手に決めて」
「面白そうだろう」

 複雑そうな表情でやんわりと引きとめようとするものの、至極楽しそうな笑みを向けられ、兵助は深々と溜息をつく。の教え子になるということは、兵助の教え子になるということだ。あの子の顔に対しては少しばかり複雑な感情を抱かざるを得ないが、あの子供は仙蔵自身ではないのだから、と己に言い聞かせる。たとえ担当教員にならずとも、この感情にも早々にけりをつけねばならないだろう。ただ仙蔵に似ている、と言うだけでいたいけな幼子にこんな感情を抱いていいものではない。
 一人静かに葛藤している兵助を横目で見て、は口元に小さく笑みを刻む。それを不運にも見てしまった乱太郎は、乾いた笑みを浮かべて見ないふりをして視線を逸らした。心の中で兵助に合掌しながら。

「あ、あの子隣の子にぶつかって落とし穴に落ちた!」
「えぇ!? ちょっと、あんな所に落とし穴なんてあったけ!? ちょっと作法!」
「知らないよ。綾部先輩の置き土産じゃない?」
「うーん、保健委員かな、あの子」
「学園に入って早々落とし穴だもんねー」
「保健委員会は不運委員会だからなー」
「不運って言うな!」
「はにゃ〜、何か見覚えのある子がいるぅ」
「え、どの子?」
「ほら、あの髪色の赤っぽい……」

 わいわいと一年生たちを指差しては笑いあい、すぐ目の前にある未来に顔を輝かせる。そんな彼等に囲まれながら、と兵助は穏やかな笑みを交わして、楽しそうに話をふってくるは組の子供たちに相槌を返した。