巨蟹宮の謎



「ん〜……」

 一つ一つの文字に濁点がついてしまいそうな勢いで唸る。そうし始めてからどれくらい時間がたったのだろうか。最初は不思議そうな顔をしてを見ていた従者も、今は仕事に戻ったのかこの場にはいない。しかしはそんな事にも気を留めず――一応傍からいなくなった事には気付いていた。いくら外見が幼かろうと、中身は成人している上、腐っても黄金聖闘士見習いだ――ひたすらうなり続けていた。
 短くて丸っこい指を、小さな顎に当て、眉間に皺を寄せながら。もっとも、そうしていたところで緊迫感が出るどころか、彼の養父兼師匠がでれでれに表情を崩して可愛い可愛いとのた打ち回るくらいの効果しか周囲に与えないのだが、本人は至って真剣だった。

「なぜだ……」

 眉間と鼻の頭にギュッと皺が寄る。跡が残ってしまいそうな強さであったが、は気にせず、再び唸り交じりの言葉をつむいだ。

「なんできょきゃい……きょきゃい……ええい、いいにくい! きょ・か・い・きゅうにかめんがひとつもねぇんだ……!?」

 なんで!?
 少しばかり薄暗い、ここ巨蟹宮の廊下に、幼女の半ばキレかけの舌足らずな疑問の声が響いた。




 某月某日。
 それに気付いたのは聖域に来てから数ヶ月たち、周囲の大人達に異様にかまわれるのにも慣れてきた頃だった。
 それまではただ、周囲の環境になれるので手一杯で、違和感を覚え首を傾げる暇すらなかったのだ。だから、その事実に気付くのにこれほどの時間を要した。
 そう、何度も何度も出入りしている、デスマスクの宮――巨蟹宮に、原作では隙間無く壁や天井や床を埋めていた、死仮面がないということに。
 私としたことが何たる不覚、と拳を握ったかどうかは定かではないが、とにかくがシエスタの時間を縮めてしまうほど気にしてしまった――夜眠れなくなるほど出ないのは、成長に障るとその時は綺麗さっぱり悩みのタネを数億光年の遥か彼方に投げ捨てているからである――のは確かだった。
 それから毎日のようにひたすら巨蟹宮にあるはずの死者の顔について考えていたのだが、皆目見当がつかない。これでは全く埒が明かないと、は単身――もちろんロゼに巨蟹宮に行くと言い置いて――巨蟹宮に乗り込んできたのだ。どこかに、一つでも死仮面が無いかと探しに。そうして巨蟹宮の主と従者に探検だといって巨蟹宮中を探したのだが、しかしこれが一向に何も、本当にネズミの一匹すら見つからない。いや、ネズミが見つかったら、それが人でも動物でも――神はよく動物に化けるから――それはそれで問題大有りなのだが。
 そんなこんなで、話は冒頭に戻る。
 が飽きもせずにうんうん唸っていると、その頭にぽんと大きな手が乗り、くしゃくしゃと濡羽色の髪をかき混ぜた。手の動きにされるがまま頭を揺らして、はのけぞるようにしてその手の主を見上げた。
 重い頭に身体の重心を失って、ぽすりと、背後の人の足にもたれかかる。

「デスマスク様」
「おう。さっきから何をやってんだお前は」
「うなってました」
「それは見りゃわかる。そうじゃなくて、何がそんなに気になってんだ?」
「きいたらおしえてくれますか?」
「答えられる範囲ならな。で?」
「なんでかおがないんですか?」

 頭に乗ったままの手を掴んで聞いてくる幼子に、デスマスクは一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。しかし、すぐに怪訝な表情へと変わり、数秒と立たずになにやら納得したような顔になった。ちょっとした百面相である。

「なるほど、それでそれを探しに今日は巨蟹宮探検か。…ったく、ディテの奴」

 それは全くの誤解であったが、今回の行動は過去の知識――と書いて前世の記憶と読む――からの好奇心であったので、つっこまれると面倒だと、肯定も否定もせず、ただじっと巨蟹宮の主を見上げて質問の答えを待った。

「それはだな」
「それは?」

 わくわく。そんな心情を全身から漂わせ、キラキラと瞳を輝かせる幼子。どこか悟ったような顔をしていることのほうが多い子供の珍しい表情に、適当にあしらい誤魔化すつもりでいたデスマスクは一つ苦笑を零して、本当のことを口にした。

「扉を……黄泉比良坂と繋がっている道を完全に閉じちまってるからだ」

 きょとんと、子供はデスマスクを見上げる。そんな子供を抱き上げ腕に据わらせて、彼は居間へと歩き出した。その間に、従者にホットミルクを作るようにテレパスを飛ばして。

「世界には、地上と冥界――つまりあの世とこの世の壁が酷く薄くなってる場所がいくつかあってな。巨蟹宮も、そんあな場所のひとつだ。冥闘士の奴らも、そういう場所から地上に出て来るそうだ。ようは冥界との出入口って奴だな。そんなもんが、本拠地にあるってのは大問題だろう? だから代々の蟹座は冥界との接点を管理するために、特有の技を身につけ、唯一あの世とこの世を行き来する。…俺の知る限りはな」

 実は阿頼耶識に一番近いところにいるのは蟹座だったりするんだぜ。
 そう言って、デスマスクは笑った。

「死んだ人間ってのは、誰でも一つや二つは未練を残してるもんだ。心底満足して死んでいく奴なんぞ、滅多にいねぇよ。あの世に行くまでに迷う奴も多い。現世から離れがたい奴もな。そんな奴らの念って奴は意外と強い代物でな、こういう壁が薄くなっている場所には、煩いくらい響いて何らかの形で影響が出る。巨蟹宮に出る面っつーのはその影響を出さないようにするためのもんだ。ま、道を完全に閉ざしちまえば話は別だがな」
「そのたましいたちはどうするんですか?」
「浄化する。いや、成仏させるっつーのが正しいのかもな。それも蟹座の仕事だ。嘆きに耳を傾け、迷ってる奴らに道を示して黄泉比良坂に導いてやる」
「……それって、みちとじたらだめなんじゃ?」

 いくら閉じたらこちら側に影響は無くても、迷える魂は迷えるまま。嘆きは誰にも聞いてもらうことが出来ず、一条の光すら見出せない。そんな環境は魂のみならず、人間であっても悪影響を受けそうである。
 むうっと腕の上で考え首を傾げる幼女に、並外れて頭のいい子だと何度目かの感心を抱きながらデスマスクは頷き、そのまろい頬を人差し指で押した。

「良いんだよ、そーじはこまめにしてるんだ。確かに魂にゃ良くないがな、俺は煩ぇのは嫌いなんだよ。霊どもと同居するなんてのも真っ平だ」

 それはわかる。自分ではどうする事も出来ない騒音もゴメンだが、上下四方を顔に囲まれた生活なんぞ嫌過ぎる。

「死者を弔うのも大事だが、今生きている俺らの方が優先順位が上だ」

 ごもっとも。
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべて説かれたご高説にこっくりと頷き、は蟹座の聖闘士への恨みつらみから壁に顔が浮き出ているわけではなかったのかと驚きながらも、すっきりと片付いた疑問にご満悦の笑みを浮かべるのだった。



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 我が家の巨蟹宮の設定を公開。
 そういや主人公達はよく巨蟹宮にお邪魔してるくせに、何も突っ込んでないなーと先日気付いたので書いてみました。
 うちの蟹さん宅の仮面たちはこういう設定で以後も展開予定。