天上の歌を


 Virgo virginum praeclara mihi jam non sis amara fac me tecum plangere.
 (乙女の中のいと清き乙女よ、私を退けることなくともに嘆かせてください)


 幼いけれど、透き通った歌声が重なりはなれ、絡み合って天へと上っていく。
 アフロディーテはうっとりとそれに聞きほれ、瞳を閉じていた。ロゼも己の仕事を片付けながら、大切な子供達の練習の成果に満面の笑みを浮かべる。
 ラテン語の発音は難しいのだが、優秀な次代の射手座、双子座、魚座は完璧な発音で歌詞をつむいでゆく。


 Quando corpus morietur fac ut anime donetur paradisi gloria.
 (肉体が死するとき魂に天国の栄光を与えてください)


 やがて最後の章に差し掛かり、充分に余韻を引いて歌い終えると、はふうっと息を吐き出した。
 この聖域は女神を祭っているというのに、今歌っていたのは聖母マリアへの賛歌である。いいのだろうか。

――いいんだろうなー。歌うのは結局外に出た時だけなんだろうし。これ教養だし。

 目に入れても痛くないほどに溺愛している子供達の歌を聞き入っていたアフロディーテは、白い頬を薔薇色に染め、感動で瞳を潤ませてとろけるような笑みを浮かべた。
 ロゼも惜しみない拍手を送る。

「素晴らしい! 発音も完璧だったよ」
「ありがとうございます」
「そりゃもー滅茶苦茶練習しましたから」
「あー、疲れた」

 師の賞賛にも三者三様の反応である。
 ちなみに、一番冷めている最後の言葉がのものだ。言うまでも無く。
 しかしそんなクールというか乾いている一番弟子に慣れっこなアフロディーテは気にかけることも無く、弟子達を一まとめにぎゅむりと抱きしめた。

「あぁ、もう! 本っ当に最っ高の弟子だよ、君達は!」
「そりゃどうも」
「師匠、苦しいです!」
「相変わらずだなー師匠」

 髭とは無縁だな、この人。
 何かもう色々と面倒なは思考を明後日の方向へと飛ばす。頬擦りされるのもされるがままだ。
 心なしかぐったりとしているに、アフロディーテは首を傾げ、フーガとアルバフィカは苦笑する。

、どうかしたのかい?」
「まぁ、ちょっと」
「もしかして、悪い虫でもついたんじゃ!」
「違うって、師匠」
「でも最近ちょっと困った事になってて……」
「困った事?」

 ますます首を傾げるアフロディーテ。
 双魚宮の出入り口を探っていたは師の腕の中でポツリと、来た、と呟いた。
 両隣でその言葉を聞いていた少年二人は頬を引きつらせ、面倒臭がって動こうとしない少女の手を引き仮面を引っ付けると師の後ろへと隠れる。
 自分が任務に出ている間に何が。
 そんな事を思っていると、の言葉と共に出入り口へと向かっていたロゼが一人の神官を連れて戻ってきた。
 どこかで、どころか、大変見覚えのある顔だ。

「カドモス神官」
「失礼いたします、双魚宮様」

 人好きのする穏やかな笑みを浮かべる神官に、アフロディーテは目を丸くする。
 来た、と言って子供達が隠れている以上、彼らが困っている原因は彼なのだろうが、このカドモスという人物は珍しいほど裏表の無い人物で、政治や権力にはとんと興味を持っていない。
 そんな彼が子供達が困るような自体を起こしているとは思えなかった。

「どうかしたのか?」
「いえ、どうというほどのことでもございませんが、本日はお願いがあってまいりました」
「お願い?」
「はい。双魚宮様は私が聖歌隊の指揮を執っている事をご存知でしょうか?」
「ああ、式典のときに見かけるからね」
「それで是非ともお弟子様方を我が聖歌隊にと思い、本日は参じました。人馬宮様は非常に伸びやかで通りが良く、次代様のお声はどこまでも透き通り、双児宮様は深みがありながら軽やか。どなた様も本当に素晴らしいお声をしていらっしゃいます。是非とも、我が聖歌隊にて女神にその歌声を捧げては見ませぬかと」

 やけに熱の入った声と眼差しである。
 ずずいと詰め寄ったカドモスに、そういえば人一倍聖歌隊に熱を入れていたな、と思い至った。
 しかも何十人もの声を聞き続けているために耳が肥え、滅多な事では人の歌声を褒める事は無い。黄金だからとお世辞も言わないような人間だ。
 そんなカドモスに誉めそやされ、師匠馬鹿なアフロディーテは気分がよくなり、やらせてもいいかという気持ちになった。
 弟子溺愛モードに移行しつつある師の気配を感じ取り、このままではまずいと感じた弟子達は視線を交わしあい、師の後ろから顔を出した。

「その話は断るって言ってるでしょう、カドモス神官!」
「俺達は勉強に修行に子守にで忙しいんだって!」
「師匠も気軽に受けないでくださいよ! 僕達の修行時間が短くなったら戦場で死ぬ確率だって増すんですから!」

 これ以上やる事を増やして溜まるかと、かなり必死だ。
 は仮面の上からでも、面倒という文字が透けて見えそうである。
 子供達の殺気を背中で感じたアフロディーテは引きつった笑みを浮かべて、頷きそうだった頭をぎりぎりで止めた。
 それでもカドモスは諦めず、一歩前に進み出る。

「それほどお時間は取らせません! あなた様方ならば本番とその数日前からの練習で結構ですので……!」
「だからお断りしますって!」
「そこを曲げてどうか!」
「諦めてくださいよ、カドモス神官ー」
「いいえ、諦めません!」
「もっと良い声してる人他にもいるじゃないですか」
「それはそうですが、皆様方の歌声もそれはそれは素晴らしく……」

 悦に入ったように、それはもう熱く語ってくれる。
 他の事はまるで目に入っていない様子で、達はこの場から逃げだすべく、抜き足差し足で行動を開始した。
 そろそろと神官の後ろに回りこみ、出入り口へと一気に駆ける。
 ようやくそれに気付いた神官は「お待ちくださいー!」と叫び声を上げ、アフロディーテに一礼すると子供達を追いかけていった。
 呆然と、アフロディーテは彼らを見送る。

「何、あれ……」
「双魚宮様が任務にお付になっている最中に、カドモス神官に目を付けられたとか。それいらいほぼ毎日のように、神官と追いかけっこをしていらっしゃいます」
「それでが無気力になってたのか」
「はい。面倒臭いと仰って」
「おやまぁ……」

 あの子も相変わらずだと、飛び出していった少女を思う。
 苦笑を浮かべながらも、アフロディーテは本気で嫌がっているらしい弟子の為に、丁重に断っておくことを決めるのだった。