人死注意!




















鬼神の誓い


 油断した。
 珍しくも気の抜けていた己を、悔いずにはいられなかった。
 しかし冷静に働いている思考とは別に焦りを抱いていたらしいは、顔を引きつらせて逃げ出そうとした雑兵をとっさに捕らえ、悲鳴を上げさせる間もなく首の骨を叩き折る。
 ほんの数秒の間痙攣していた雑兵の男は、頭を変な方向に向けてすぐに動かなくなった。
 風に晒した、人形じみた無表情で、冷たくできたての死体を見下ろす。

 殺した。誰が。私が。何故。素顔を見られ、掟に従った故に。

 始めて人を殺したというのに、は恐ろしいほどに冷静だった。己の内でなされた問答はちょっとした混乱の証ではあったが、取り乱すまでには至らない。
 殺してしまった雑兵が、とは何のかかわりも無い人物だからかもしれない、と、拳に感触が残っているにもかかわらず、遠い所にある実感に思う。
 ガサリと、草を踏み分ける音を背後で聞き、慣れ親しんだ小宇宙に仮面をつけようと上げた手を止めて振り向いた。

「デスマスク様」
、お前、どう……!」
「ちょっと、油断してました」

 仮面をひらひらと振り、申し訳程度の笑みを浮かべる。
 の足元に死体を見つけたデスマスクはそれだけで事の次第を察し、痛ましさに顔を歪ませた。彼は無言で少女を抱き上げ、横目で息絶えた雑兵を見る。
 正直、舌打ちしたい気分で一杯だった。
 闘技場に行くようになってから、訓練中に命を落としていったものを大勢見てきて、死自体を見ることは既に慣れてしまっているだろう。それは外界では異様な事かもしれないが、聖域では当たり前の事だ。そうでないと聖域で生きることなど、聖闘士なぞやってはいられない。
 だが、とデスマスクは思った。まだ早い、と。
 いずれは、女神の正義の名の下に人を殺さざるを得ない任務も否応なく回ってくるだろう。人を殺す事にも、慣れざるを得なくなる日がやってくるだろう。けれど、何もそれが今でなくても良いではないか。
 まだは幼いのだ。いくら大人びていようと、男顔負けな胆力があろうと。

「だから聖域は嫌いなんだ……」

 吐き捨てられた呟きは苦々しさに満ちていた。

「デスマスク様?」
「何でもねぇよ。どうした、何か気になる事でもあるのか?」
「はい。あれ、どーしましょう」

 随分と遠くなってしまった場所を、はデスマスクの肩越しに指す。
 自分の事ではなく放置された死体のほうを心配する少女に、蟹座は苦虫を数十匹は噛み潰したような顔をした。

「後で俺が何とかしてやる。心配すんな」
「はい」

 デスマスクは小さな頭を己の肩に押し付ける。
 はいつも以上にされるがままになり、首に手を回してしがみつくと、そっと目を閉じた。





「大丈夫か」

 そう口にしてから、しまったと思った。明らかに大丈夫とはいえない状況にあった子供にかける言葉ではない。
 動揺を表に出し視線を泳がせる巨蟹宮の主に、はくすりと笑って、両手で包み込むようにして持ったカップに目を落とした。
 スプーン一さじの蜂蜜が落とされた乳白色の水面が揺れる。ほのかに甘い香りのするホットミルクはが好んで口にするものだ。その温かな心遣いが嬉しい。

「大丈夫って言えば嘘になりますね。でも、それほどショックを受けてるってわけでもないんですよ。人を殺したってことに」

 淡々と話し出したに、デスマスクは視線を定める。本人の言葉通り、その声は震えているわけでもなく、いつもの芯が強くしっかりとした静かな声だった。
 温かなミルクで口の中を潤し、は続ける。

「むしろその事に何の感慨もわかない自分に驚いてます。……いずれ誰かを殺す事になるんだろうって事は知ってましたけど、覚悟が決まってたって訳でもないのに……なんでこんなに冷静なんでしょうね、私は」

 冷静というよりも冷血なのか。そういって、は自嘲気味に笑った。
 元来、それこそ転生前から特に親しいもの以外には無関心な傾向はあったが、自分の手で殺しておいて何も思わないような人間ではなかったはず。だというのに、どうした事か。奥深くで密やかに呼吸を繰り返す何かが、に何らかの影響を及ぼしているのか。
 緩やかに、自分の気付かないところで変化していく事に、ちょっとした不快感を覚え、カップを握り締める。
 俯くの頭に、ぽんとデスマスクの大きな手が置かれた。

「俺たち聖闘士は人間だ。だがその精神は、別の次元にある。お前はそれが特に顕著なだけだろう。強大な小宇宙を持つ奴ほどそうだ」
「デスマスク様もですか?」
「お前ほどじゃねえがな」

 くしゃりと、髪をかきまぜる。
 は猫のように紫紺の目を細め、やっと血の通った笑みを浮かべた。

「いつかは慣れる。嫌でもな。けど、忘れるな」

 己に感じた違和感を。消えていった命があったことを。それで嘆く者がいることを。全てひっくるめて。

「まぁ、それで自分が壊れちゃ意味はねぇがな」

 苦笑を零すデスマスクに、はいつもの調子を取り戻し、強気な笑みを浮かべた。

「じゃあ、そうする事にします」

 悲しみを覚える事はできなくても、それだけは出来うる限り覚えていよう。そして後悔はすまい。
 己の中に誓いを立て、手の中のカップをくるりと揺らした。