Call my name! のその前に


「よっしゃ、我ながら上出来!」

 にんまりと笑みを浮かべ、黒い顔料のついた絵筆をバケツに入れた水の中へ突っ込んだ。
 立てかけられた絵の中には、本物と見まごうばかりのとアルバフィカが柔らかな笑みをたたえて存在している。
 師や、アルバフィカにも手放しで褒められるその腕前を存分に発揮し、フーガはかねてからの計画を実行に移す事にしたのだ。
 いつもいつも修行を中断させては赤ん坊の世話を任せる、師と蠍座に対するちょっとした報復と、フーガの個人的な楽しみの為に。

「ふふん、見てろよ師匠、スーラ様。一泡吹かせてやっからな」

 失敗するなど露ほども思っていないフーガは、ぺろりと唇を舐めた。





 上機嫌なままに笑みを浮かべるフーガに、は眉間にしわを寄せたまま言葉を重ねた。

「本っ当に、一人で大丈夫なんだな」
「おう。心配すんなって。行ってこいよ」
「……わかった」

 何をたくらんでいるのやら。
 そんな心の声が聞こえてきそうな表情でくいっと方眉を上げたは、沈黙の後に首肯し仮面をつけた。
 アルバフィカは心配そうな顔でルヴィオラの頭を撫で、颯爽と身を翻し十二宮を降り始めたを追う。
 少しばかり不満そうに達へと手を伸ばすルヴィオラを抱きなおし、頬をぴたりとあわせて笑いかけた。

「さールヴィオラ、今日は俺と一緒にちょーっと勉強しような」

 フーガが二枚の絵を完成させてから数日、早くも彼にチャンスはめぐってきた。
 師は教皇の命で一日出かけており、その数日前から蠍座のスーラはまだ赤ん坊の弟子を双魚宮に預けて任務に出ている。従者のロゼは薔薇園の手入れやその他の雑事に追われて多忙で、ルヴィオラの世話ばかりを焼いてはいられない。
 いつもならそういう時は三人で面倒を見るのだが、今回フーガは二人を送り出し、一人双魚宮に残る事を選んだのだ。案の定、には少々怪しまれてしまったが。
 フーガはルヴィオラに玩具を与え、先日描いた絵を取りに走った。その足取りは軽く浮ついており、周囲に音符でも撒き散らされていそうな勢いである。
 二枚の絵を引っつかみ、玩具を相手ににらみ合っている乳幼児の前に立てかける。
 それに気付いたルヴィオラがラズベリーレッドの目を丸くし、きゃいきゃいと何事かを口にしながら、絵へと手を伸ばした。
 紅葉の掌がその絵にべったりとつく前に、フーガはルヴィオラを掬い上げる。
 ルヴィオラは身をよじり暴れながら、不満も露に唸った。

「う〜っ!」
「ダメだってルヴィオラ。触ったら手が汚れんだろ」
「んーっ」
「大人しくしててくれな……よっと」

 絵の前に座り込み、ルヴィオラを膝の上に降ろす。すると絵が丁度ルヴィオラの目線の辺りに来て、先ほどの不満もころっと忘れ再び手を伸ばした。
 しかし今度は後ろからしっかりとフーガに抱えられているため、絵には当然の事ながら届かない。
 身を乗り出そうとする赤子をガッチリと押さえ込み、フーガはが描かれた方を指差した。

「いいか、ルヴィオラ。こっちがママ。んで……」

 今度はアルバフィカの方を指す。

「…こっちがパパだ。わかるか?」
「うー」

 指している指の先にある物よりも、指自体を追い捕まえようとするルヴィオラに、フーガは苦笑をして頭を撫でる。そして根気強く続けた。

「こっちがママ、こっちがパパ」
「まー?」
「そう。そっちがママ、マーマ。ほれルヴィオラ、言ってみ」
「まーまー?」
「そうそう。いい子だなールヴィオラは。今度はフィーの方な。パパ、パパだぞ」
「ふぁー?」
「んー、ちょっと違うな。やっぱ半濁音は難しいか……? ま、いっか。パーパ、パパ」
「ぱ……?」
「お、そうそう、すごいぞルヴィオラ」

 なんてことを何度も何度も繰り返す。途中で何度かロゼが覗きに来る事もあったが笑顔で誤魔化し、延々と、それこそルヴィオラが疲れて眠ってしまうまで続けられた。
 結局この日は言わせるだけで最終目標の覚えさせる、と言うところまでは行かなかったのだが、そこはそれ。最初から長期計画としていたフーガは、その後も折を見つけては、根気強く何度も何度もをママ、アルバフィカをパパとルヴィオラの真っ白な頭に刷り込んでいった。
 そしてついでとばかりに自分の名を教え込み、結果としてこの計画は成功し、師とスーラを見事に撃沈させるのだが、これが原因で、ルヴィオラは五歳のときまでずっと、アルバフィカとを本当の父母だと信じ込んで育つ事になるのである。